今回の薬師岳山行の残りの報告である。
《1 ヒカリゴケは光り始めたばかりだ》(平成26年6日15日撮影)
《2 ツバメオモトとオサバグサ》(平成26年6日15日撮影)
《3 今年最後の花見、ミネザクラ》(平成26年6日15日撮影)
《4 クロウスゴ》(平成26年6日15日撮影)
《5 ムシカリ》(平成26年6日15日撮影)
《6 ウスノキ》(平成26年6日15日撮影)
《7 ショウジョウバカマ》(平成26年6日15日撮影)
《8 ウスバスミレ》(平成26年6日15日撮影)
《9 ちょっと興味深かったマツ、なんという名前なのだろうか》(平成26年6日15日撮影)
《10 同様のキノコ?》(平成26年6日15日撮影)
《11 タケネクロスゲ》(平成26年6日15日撮影)
《12 イワウメ》(平成26年6日15日撮影)
《13 イソツツジ》(平成26年6日15日撮影)
《14 コミヤマカタバミ》(平成26年6日15日撮影)
《15 タカネスギカズラ?》(平成26年6日15日撮影)
《16 ハートマークの岩》(平成26年6日15日撮影)
ここで、ロボット雨量計跡の稜線に出る。
《17 ミツバオウレン》(平成26年6日15日撮影)
しかし当日は、この一帯はガスっていてしかも風邪が吹いていてしかも冷たいので、ここから薬師頂上までの稜線散歩はいともたやすく諦めて中止、下山した。
続きの
”薬師岳(7/2、ヒカリゴケ)”へ移る。
前の
”薬師岳(6/15、#1)”に戻る。
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《1 ヒカリゴケは光り始めたばかりだ》(平成26年6日15日撮影)
《2 ツバメオモトとオサバグサ》(平成26年6日15日撮影)
《3 今年最後の花見、ミネザクラ》(平成26年6日15日撮影)
《4 クロウスゴ》(平成26年6日15日撮影)
《5 ムシカリ》(平成26年6日15日撮影)
《6 ウスノキ》(平成26年6日15日撮影)
《7 ショウジョウバカマ》(平成26年6日15日撮影)
《8 ウスバスミレ》(平成26年6日15日撮影)
《9 ちょっと興味深かったマツ、なんという名前なのだろうか》(平成26年6日15日撮影)
《10 同様のキノコ?》(平成26年6日15日撮影)
《11 タケネクロスゲ》(平成26年6日15日撮影)
《12 イワウメ》(平成26年6日15日撮影)
《13 イソツツジ》(平成26年6日15日撮影)
《14 コミヤマカタバミ》(平成26年6日15日撮影)
《15 タカネスギカズラ?》(平成26年6日15日撮影)
《16 ハートマークの岩》(平成26年6日15日撮影)
ここで、ロボット雨量計跡の稜線に出る。
《17 ミツバオウレン》(平成26年6日15日撮影)
しかし当日は、この一帯はガスっていてしかも風邪が吹いていてしかも冷たいので、ここから薬師頂上までの稜線散歩はいともたやすく諦めて中止、下山した。
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「音楽の美は静寂への感性への賜もの也」という道取に共感を覚える音楽好きが愛する音曲は如何様なムジークなんでしょうね。
ヴィオラ・ダ・ガンバの音色を愛する守氏(うじ)なれば「言詮不及:言うに及ばず(ことばで言表し得ない精妙さなり)」という次第で。「〈ひかりごけ(光苔)〉の耀き」と書いたなら、それは物理的光ではなく心象的光ということになりましょうかしらん。
前に、「賢治は音痴だったのかも」なんて不謹慎なことを書きましたが、それはあくまで、ピアノ演奏やチェロ演奏を試みる者としてのその可能性。尤も、ピアノとチェロでの音程確保は根本的に違いますが。
とはいうものの、音楽的感性というのは、必ずしも絶対音感や平均律音感のと精妙さとばかり関わるのではありますまい。涅槃寂静という四字を天上の音楽としてイメージできるが如き音楽的想像力などというのも。因みに、ハイエンドオーディオアンプでは、「残留雑音レベルの低さ」が要になります。まあ、「明暗表裏一如」を絵画での明暗表現における紙の白さより明るく輝く光は墨の濃淡との関係性で表現するしかない」という技の問題としても。そのあたりが、〈言語概念表現〉やら〈命題表現〉との根本的な別異性でしょうか。尤も、〈文脈性(コンテクスト)〉や〈文彩文則性(レトリック)〉は、因縁関係性の働きということで。
話替わって、貨幣価値の変移について。「昭和12年4月岩手県尋常学校訓導兼青年学校助教諭の初任俸給は四十七円」でした。尚、尋常小学校訓導だけだと四十円ほど。賢治の花巻農学校初任給百円も退職金四百円も異様に高額です。明治三十年頃の東京物理学校(専門学校)の初任給が二十円ほど、東京帝大卒大学士で八十円ほど。漱石の国からの年額sh留学金は千円。で、昭和6・7年の五百円というのは、……。
「金は大事だ。大事なものが殖えると寝る間も心配だろう。」とは、『草枕』画工の科白。東京朝日に移る前の漱石の講師料総額は二百円近かったと。今日換算で約一万倍弱程でしょうか。
「金銭慾・権力慾・名声慾はアブナイ、アブナイ、気を付けなければ危ない。その貪慾が畢竟するに戦争を不可避にするべし。」という洞見が、釈迦思想や老荘思想の出発点だったのではないか、などと考えているんですが、矢張り、「金は一大事だ!」は、人間関係社会を生きて行く為には、……。
お早うございます。
仰るとおり、
光は闇によって浮かびあがるべし
だと思います。
あの光苔が輝いて見えるのは自分自身が発光しているわけでは決してなく、周りの弱い光を集めてそのわずかな光を反射させてエメラルドに輝いていると聞いております。したがって、闇の中でなければ光りませんし、また漆黒の中では全く光らないでしょう。
そこで私はやはり思います、賢治の今まで隠されてきた真実を躊躇うことなくそろそろある程度明らかにしてもいいのではなかろうか、と。創られた賢治のままでは、読者(とりわけこれからの若者達)が賢治の作品の素晴らしさを味わうには限りがあると思うからです。
実は賢治にはこんな闇の部分もあったのだということを読者が新たに知れば、賢治の作品もそして賢治自身ももっともっと読者の心の中で輝きを増してゆき、彼らをさらに惹きつけるのではないでしょうか。ところが、もしその部分を相変わらず隠し続けていたのでは賢治はこれ以上の存在とはなり得ないでしょう。
あるはずですが青空にはあの美しい星々は輝いておりません(私の場合には心象的にでさえも、です)。それらが輝き、しかも美しく見え、心を惹きつけるのは闇の中でこそでしょう。
もちろん賢治にはもともとぬぐいきれない闇の部分がありそうでが、そこまでとことんさらけ出してほしいとは思いません。闇がなければ光苔が全く光らなくなるのと同様に、賢治は途端に色褪せてしまうでしょうから。
なお、夜空の星が人の心を惹きつけるのは、誰も皆かつては星だったからだということもあるようですが。
鈴木 守