まろの陽だまりブログ

顔が強面だから
せめて心だけでもやさしい
陽だまりのような人間でありたいと思います。

雨の降る日はかなし

2017年08月31日 | 日記

昨日は都内の各地で
激しいゲリラ豪雨だったと言う。
いつどこで降るかわからない暴れん坊のような雨は
確かに神出鬼没のゲリラに似ている。
それにしても一時間に100ミリなどという雨は常軌を逸している。



雨の船日はどうしても気分が塞ぐ。
気分だけでなく持病の膝が前触れもなくシクシクと痛み始め
どうも体調がよろしくない。
人間、体のどこかに痛いところがあると
すっかり萎縮して借りて来た猫のようになってしまう。
猫を借りて来たことはないけれど・・・



四国の四万十川も雨だった。
何かのニユースの映像だったと思うが
増水した川の上をカップルが橋を渡っていた。
四万十川には「沈下橋」と呼ばれる橋が何本も架かっている。
普段はごく普通の橋だが、川が増水すると水没することから沈下橋と呼ぶ。
橋に欄干などはなく、橋げたもごく簡易なものである。
増水時に橋げたに流木や土砂が引っ掛かって橋が破壊されたり
洪水になるのを防ぐために出来たものだと言うが
まさしく生活の知恵である。

四万十川の河畔には高知出身の詩人・大江満雄の文学碑が建っている。
プロレタリア詩人の大江は四万十川をこよなく愛した。

  おもふほど おもふほどに ふるさとは雨と嵐
  山峡の水も くるふて流れあふれる 豪雨の日。
  天のはげしきを おもふほど おもふほどに
  ふるさとの雨の降る日は美(かな)し
  四万十川の水にごる日はかなし         (四万十詩集「日本海流」より) 


四万十川の水濁る日も悲しいが
雨で膝がシクシクと痛む日も悲しいのである。

 


ミサイルとピカソ

2017年08月30日 | 日記

少し秋めいて来ました。
めいて来たというだけで秋ではありません。
ちょっと油断すると夏の復活で
昨夜も蒸し暑くてなかなか寝つけませんでした。



あれほどにぎやかだった蝉の声も
すっかり下火になって季節の移ろいを肌で感じます。
そんなしみじみとした感懐も
朝っぱらからのミサイル騒ぎて吹き飛んでしまいました。
避難とか言われてもねえ。
朝のクソ忙しい時間にそんな訳にもいかずウロウロするばかり。
ホント、迷惑な三代目ですよねえ。



仕事帰りに新サンマを頂きました。
今年も不漁だそうで心なしか身が痩せているような感じでした。
サンマと言えば条件反射のように佐藤春夫です。

   あはれ秋風よ
   情〔こころ〕あらば伝へてよ
   ――男ありて
   今日の夕餉〔ゆふげ〕に ひとり
   さんまを食〔くら〕ひて
   思ひにふける と。

この年になると思いにふけることが多すぎて
ホント、忙しいです。〈笑〉
久しぶりに宮本輝のエッセイを読んだりしました。
この本の装丁、好きなんですよねえ。
パラパラと読んでいるとピカソについて書いた短いフレーズが。

  ピカソは十歳でどんな大人よりも上手に描けた。
  子供のように描けるまで一生かかった。

うーん、あまたある芸術論の中でも
これはじつに秀逸な文章ではないでしょうか。
ミサイルに腹を立てつつも
ピカソの絵を思い浮かべて心ふくれる思いでした。


ツタのからまる喫茶店

2017年08月29日 | 日記

仕事の帰り道です。
いつもの六本木通りの反対側を歩いていると
ツタのからまる建物がありました。



まさに「うっそう」という印象がピッタリです。
夏の日盛りにこれだけ生い茂るのはかなりの生命力ですねえ。
一瞬、何の花かわからないまま
呆れたようにボンヤリ眺めていたのですが・・・

思い出しました!
このみずみずしいブルーの花は確か「ルリマツリ」です。
瑠璃茉莉と書いてルリマツリ。
どこかで一度見たことがあるので間違いないとは思うのですが
まあ、私のことですから自信はありません。
瑠璃色というのは名前もいいですが胸がすくような色ですねえ。

そこは喫茶店でした。
今どきネルドリップのコーヒーはめずらしいですね。
ホラ、あの布製のフィルターで淹れた
香り高いコーヒーです。
オールドコーヒーというのは一定の温度と湿度の中で
10年以上もじっくり熟成させたコーヒー豆のことを言いますが
もちろんお店の人の受け売りです。〈笑〉



ちょっと敷居の高そうな店でしたが
ネルドリップ&オールドコーヒーの一杯を頂いてみました。
え、味ですか?うーん、かなり苦かったです。
苦み走っていると言うか・・・
でも、香りが引き立って正しい「珈琲」の味でした。
最近はこういうちゃんとした喫茶店が
めっきり減って来たような気がして残念ですねえ。
すべてが「没個性」の時代になって面白くもなんともありません。

ツタのからまる喫茶店は
店内がウッディな雰囲気でいい感じでした。
結局、このあとビールの苦さに走ってしまったのですが・・・


死なないで欲しい。

2017年08月28日 | 日記

夏休み最後の日曜日でした。
公園ではまだまだ遊び足らない子供たちが
水遊びに昆虫採取に夏を惜しむかのように飛び回っていました。



もう間もなく新学期です。
もともと学校嫌いのオジサンでしたが
新学期という言葉を聞くとたまらない気持ちなりました。
夏休みが終わってしまう寂しさと
また授業が始まって日常がやって来ることがイヤで
いつも泣きそうになったものです。
オジサンと同じように新学期が来るというだけだ胃が痛くなる
そんな子供たちが多いと聞きました。



先日、何かの新聞を読んでいたら・・・
新学期が始まる9月1日が子供たちの自殺が一番多いそうです。
小中学校だけでなく高校生も含めると
過去40年の統計では9月1日をはさんだ一週間で
なんと700人以上の青少年が自ら命を絶っていると言います。
この突出した数字は衝撃的です。
もちろんその原因はいろいろありますが
やはり「いじめ」による不登校が背景にあると言います。
オジサンの場合は単なる怠け癖でしたが
いじめに直面している子供たちの切実な気持ちを考えると
胸がふさがるような思いになります。
同時にいじめのニュースを聞くたびに腹が立って腹が立って
怒鳴りつけたいような思いになります。



いじめっ子たちに言いたい。
友だちをいじめて何が面白いのかな?
どうせ一人じゃできないからバカな仲間と一緒だろう?
そんなバカたちは人間として最低だ、クズだよ。
君たちはもう生きていなくていい!

いじめられっ子たちに言いたい。
学校に行きたくないならずっと休んでいたらいいよ。
学校なんて命を賭けてまで行くとこじゃない。
世の中には学校以外の道だっていっぱいあるんだよ。
オジサンは大学中退だし、ついでに自動車が学校も二度中退だけど
それでもこうやってちゃんと立派に〈?〉やっている。
お願いだから自殺なんて考えないで欲しい。
情けないことしか言えないけれど
死なずに生きていれば、生きてさえいれば
そのうちきっといいことがあるよ。


戦場カメラマン

2017年08月27日 | 日記

戦場カメラマン沢田教一さん。
彼がベトナム戦争取材中に銃弾に倒れて亡くなってから
もう50年近くになると言う。

ビュリッツアー賞受賞の世界的カメラマンである。
ただ、私が沢田さんについて知っていることは情けないほど少ない。
受賞作となった作品「安全への逃避」はもちろんだが
青森県人だったこと、とびきりのハンサムボーイだったこと。
その程度の知識しかないないのである。
奥様がおられたことも、実は今回の写真展で初めて知った。
ふっくらとした顔立ちの素敵な奥様だった。
二人は青森市内の小さな写真店で知り合って結婚するのだが
11歳も年上の奥様と聞いてちょっと驚いた。
その後、沢田さんはUPI通信社の報道カメラマンに採用され
ベトナム戦争の最前線へと赴くことになる。
奥様はそれを聞いて迷わず一緒に戦地へ行くことを希望したと言う。
戦場カメラマンにとって
年上の姉さん女房はまさに「戦友」だった。

ベトナムの最前線で
米軍の同行取材を許された沢田さんは
激しい戦闘の現場や疲れ果てた兵士の表情などを数多く写真に収めた。
カメラマン仲間が「どこの戦場にも必ず沢田がいる」と
驚嘆するほどシャッターを切り続けたと言う。
誰よりも慎重でわれ先にスクープを狙うタイプではなかったと聞くが
戦場カメラマンにとって「功名心」は業のようなものである。
沢田さんも決して例外ではなかったと思う。
凡庸な戦場ルポルタージュではなく
ベトナムの現実を世界に突きつけるような写真を。
そんな思いがあったに違いない。



凄惨な戦場写真とは対照的に
ベトナムの子供や家族に向けるシャッターは限りなくやさしい。
戦火の中で懸命に生きる市民の姿や
幼い赤ん坊の子守をする少女のはにかんだ笑顔が印象的だった。
被写体に寄り添うような独特の視線がある。
会場には青森時代に撮った写真も何枚か展示されていたが
沢田さんは若い頃から「子守り」の風景に独自のシンパシィーがあったようで
ある意味「平和」の象徴だったのだろうか。



そう言った意味で
ピュリッツアー賞を受賞したこの「安全への逃避」も
同じ延長線上の写真ではないだろうか。
こういう場合、必ず「撮影」か「救助」かが問題視されるが
沢田さんは撮影直後すぐに家族に手を伸ばして自ら引き上げたと言う。
その後もずっと家族のことを案じていて
ピュリッツアー賞受賞後に再会した時は賞金の一部を手渡したそうだ。
沢田さんらしいと言えばいかにも沢田さんらしい逸話だ。
母親に抱かれた右端の幼い少女は
今はすっかりオバチャン風だったが会場のビデオにも出演して
しきにり沢田さんへの謝辞を述べていた。

戦争が終わったら
平和になったベトナムをゆっくり撮影旅行したい。
それが沢田さんの口ぐせだったと言う。
その口ぐせが期せずして「遺言」になってしまった訳だが
あれから50年がたった今も
戦火は依然として地球上の現実でありベトナムは終わっていない。
沢田さんが生きていれば何を思うのか・・・