まろの陽だまりブログ

顔が強面だから
せめて心だけでもやさしい
陽だまりのような人間でありたいと思います。

戦場カメラマン

2017年08月27日 | 日記

戦場カメラマン沢田教一さん。
彼がベトナム戦争取材中に銃弾に倒れて亡くなってから
もう50年近くになると言う。

ビュリッツアー賞受賞の世界的カメラマンである。
ただ、私が沢田さんについて知っていることは情けないほど少ない。
受賞作となった作品「安全への逃避」はもちろんだが
青森県人だったこと、とびきりのハンサムボーイだったこと。
その程度の知識しかないないのである。
奥様がおられたことも、実は今回の写真展で初めて知った。
ふっくらとした顔立ちの素敵な奥様だった。
二人は青森市内の小さな写真店で知り合って結婚するのだが
11歳も年上の奥様と聞いてちょっと驚いた。
その後、沢田さんはUPI通信社の報道カメラマンに採用され
ベトナム戦争の最前線へと赴くことになる。
奥様はそれを聞いて迷わず一緒に戦地へ行くことを希望したと言う。
戦場カメラマンにとって
年上の姉さん女房はまさに「戦友」だった。

ベトナムの最前線で
米軍の同行取材を許された沢田さんは
激しい戦闘の現場や疲れ果てた兵士の表情などを数多く写真に収めた。
カメラマン仲間が「どこの戦場にも必ず沢田がいる」と
驚嘆するほどシャッターを切り続けたと言う。
誰よりも慎重でわれ先にスクープを狙うタイプではなかったと聞くが
戦場カメラマンにとって「功名心」は業のようなものである。
沢田さんも決して例外ではなかったと思う。
凡庸な戦場ルポルタージュではなく
ベトナムの現実を世界に突きつけるような写真を。
そんな思いがあったに違いない。



凄惨な戦場写真とは対照的に
ベトナムの子供や家族に向けるシャッターは限りなくやさしい。
戦火の中で懸命に生きる市民の姿や
幼い赤ん坊の子守をする少女のはにかんだ笑顔が印象的だった。
被写体に寄り添うような独特の視線がある。
会場には青森時代に撮った写真も何枚か展示されていたが
沢田さんは若い頃から「子守り」の風景に独自のシンパシィーがあったようで
ある意味「平和」の象徴だったのだろうか。



そう言った意味で
ピュリッツアー賞を受賞したこの「安全への逃避」も
同じ延長線上の写真ではないだろうか。
こういう場合、必ず「撮影」か「救助」かが問題視されるが
沢田さんは撮影直後すぐに家族に手を伸ばして自ら引き上げたと言う。
その後もずっと家族のことを案じていて
ピュリッツアー賞受賞後に再会した時は賞金の一部を手渡したそうだ。
沢田さんらしいと言えばいかにも沢田さんらしい逸話だ。
母親に抱かれた右端の幼い少女は
今はすっかりオバチャン風だったが会場のビデオにも出演して
しきにり沢田さんへの謝辞を述べていた。

戦争が終わったら
平和になったベトナムをゆっくり撮影旅行したい。
それが沢田さんの口ぐせだったと言う。
その口ぐせが期せずして「遺言」になってしまった訳だが
あれから50年がたった今も
戦火は依然として地球上の現実でありベトナムは終わっていない。
沢田さんが生きていれば何を思うのか・・・