「Twitterの検討」という記事で、書かぬことの重要性、「無言の言」の大切さについて整理をし、そのなかで、私としても「そうあるべきである」と思うことについて言及しました。しかし、その内容とは裏腹に、それ以降のブログの更新頻度は高まっており、これらは明らかに矛盾していると考えなければならないと思います。
冒頭から話が変わりますが、先日、ある方とお話をしているなかで、その方が「弁が立つようになりたい」とおっしゃいました。それに対して、私からは「言葉は溢れ出るものである」というお話をいたしました。つまり、「弁が立つ」ということは、それはそれで結構なことながら、まずもって、何を話したいかということの方が大切であり、本当にそれが大切だと思えれば、それを強く伝えたいと願うようにもなり、結果として、自ずときちんと伝わるようなかたちで表現されるようになるだろうということです。そのように溢れ出た言葉は、いわゆる「魂がこもった言葉」となって、他人の心を揺さぶるようにもなるでしょう。「弁が立つ」という技術論も大切でしょうが、聞く人の心を揺さぶるような「弁が立つ」話し方には、それ相応の見えない力が秘められていると考えることも必要ではないかと思うのです。
こうしたことは言葉に限らず、音楽、絵画、彫刻といった芸術の表現然り、製品、サービスといった経済活動の結果物然り、さらには法律、制度、国家といった社会生活に深く関わる仕組み然りといった具合に、ありとあらゆるものの裏側には、それらを生み出した人々の魂や思いがこもっていると考えられます。そして私としては、技術論ばかりに目を奪われ、こうした裏側にあるであろう世界に目を向けることなくして、事の本質を見極めることは、大変難しいのではないかと思うのです。
前置きが長くなりましたが、私の場合、「Twitter」は少々体験してみるくらいの感覚で、気楽にダラダラと書くだけのつもりでした。それは、今も続いているのですが、そこには私のなかに留めている「思い」を、「Twitter」で適当に吐き出していれば、ブログの更新をしなくて済むかもしれないといった考えがありました。ブログの更新を抑えられれば、少しでも私が目指すべき「無言」の状態にも近づくため、そういう意味で、大いに「Twitter」で遊んでみようと考えていたわけです。
しかし、実際に「Twitter」への書き込みを始めると、自分の「思い」が活性化してしまい、押さえつけていたものが誘発されるかのように溢れ出すようになりました。結果として、ブログの更新頻度が上がってしまったので、そういう意味で、「Twitter」は、全くの逆効果であったと言うことができます。
ただ、溢れ出てしまうものを、無理に抑える必要もないと思うので、ひとまずは「Twitter」で遊びながら、溢れ出るものは、それはそれとして受け入れ、積極的に活かしていこうと思います。そういうことで、しばらくの間は、こうして思うことを思うがまま、ブログに書き連ねていく行為を楽しんでいきたいと思うのでした。
《おまけ》
相変わらず、矛盾と共生していかざるを得ない、自分の人間としての三次元的存在の限界を感じます。ただ、自分が三次元の存在であるということは、それはそれで事実だし、悪いことでもないでしょう。いずれにせよ、最近は、以前に比べて、三次元的存在としての自分を、強く意識するようになってきました。ただし、それは四次元的存在としての自分を見失っているわけではなく、別次元に存在する自分についての探求は、ちょっと一段落ついてしまったような感覚です(四次元的存在としての自分に関する記述については、「考える前に感じること」参照)。こんな「おまけ」、よく分からない方もいらっしゃるでしょうが、そんな方々も、いずれ分かるような時が来るかもしれません。