常識について思うこと

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分からないことは言わない

2007年02月01日 | 人生

人間には、必ず美点と欠点があります。人間が不完全な存在である以上、これは仕方がないことでしょう。そして同時に、人間には他人よりも優れており、価値がある存在でありたいと願う心があるため、美点をなるべく大きく見せて、欠点をなるべく隠そうとする習性を併せもつのです。人間社会は競争原理で動いており、こうした人間の習性は連鎖反応を起こし、人間社会における本質の一部を成していると言えるでしょう(「人間の優劣と競争社会」参照)。

ところで、こうした競争社会のなかでは、他人を陥れることは、自己の生存にとって欠かせない行為となっていきます。このため結果的に人は見栄を張ったり、他人にどう思われるかを常に気にする、疲れた生き方を強いられるようになっているのです。

こうした生き方は、現代の競争社会を生き抜くうえでの大切な知恵であり、人間誰しも、多かれ少なかれ、こうした知恵を利用しながら生きているものです。しかし、こうしたものは、単に競争原理のうえに成り立っている現代社会を生き抜くための知恵に過ぎず、この知恵そのものが、人間にとって絶対的な本質であると考えてはならないと思います。

こうした知恵は、自分を守ってくれるし、自分の尊厳を保ってくれます。不完全な人間は、弱い存在であるため、こうした知恵を使っていないと、自己崩壊を招きます。いわば、競争社会で生きていくための、必要不可欠な「バリアー」です。

しかし同時に、バリアーを張った状態の人間の生き方は、本来あるべき姿ではないとも思います。人を傷つけ、人に傷つけられながら、競争して生きていくのは、今の世の中では仕方がないだけであって、そのために必要なバリアーというのは本来的に必要なものではないはずであると思うのです。人間は、競争をしなくても生きていられるように自分自身を磨き、徐々に自分なりの強さを身につけていきながら、このバリアーを解いていかなければならないと考えます。

しかし、バリアーを解くとはどういうことでしょうか。自分自身を磨いて、強さを身につけていくとはどういうことでしょうか。

人は自分の尊厳を守りたいと思うがゆえに、他人から愚かであるとみられることを恐れます。その結果として、たとえば実は分かっていないことに対しても、分かったようなフリをしようとします。本来、分かっていないにもかかわらず、分かっていると言って、自分が愚かであると思われぬように隠そうとするわけです。これは、人間が知らず知らずに張ってしまう大きなバリアーのひとつです。そして、このバリアーを張っているうちに、分かってもいないくせに、分かっているフリをすることで、本当に分かったようなつもりになってしまいます。ここが恐ろしいところです。

分からないものは、正直に分からないものとして、そのまま置いておくべきです。しかし、たとえば他人と議論をしているなかで、分からないものは分からないといって、そのことについて発言をしないということは、非常に辛いことでもあります。他人と議論を展開しているなかで、それについて雄弁に語る人がいる傍らで、沈黙を守るというのは、時には愚かにみえるし、自分の存在価値を実感できずにいるという状況を受け入れる忍耐力が必要となります。このことは、競争社会を生きる人間にとって、大変辛いことであるはずです。

しかし、人間はこれに耐えるべきです。発言ができない自分でいつづけることで、他人からは自分が愚かな人間であると思われるという不安を抱えることでしょう。そのことが、いわゆるバリアーを解くということです。だがそれでも、耐えることを通じて、人間は大いに悩むべきです。悩む過程において、自ずと自問自答を繰り返すようになります。「物事を言えない自分が辛い。本当はどうなのだろうか。答えは何なのだろうか」。こうした問いを繰り返していくことこそ、自分を磨くということであり、強さを身につけるということなのです。

この辛さに耐え抜き、自信をもって発言できるようになるときは、自分なりに答えをみつけ、自らの信念に基づき、自分の言葉で語れるようになったときでしょう。そのことは、自分自身に打ち克ち、バリアーを取り払っても、きちんと他人と向き合える強さを備えるようになるという意味でもあります。そのような人の言葉には、自ずと迫力が生まれるし、人の心を突き動かすパワーが宿るようになります。

本当に人間が尊厳ある存在になるためには、その人の発言には重い責任が伴うのであり、そのような責任ある発言をするためには、その人がきちんと信念をもって言葉を発しなければなりません。分からないことは、分からない。分かったようなフリをして無理をする必要もないし、気取る必要もないのです。分からないのだから、そのことを謙虚に受け入れなければなりません。しかし、ひとたび分かるようになったのであれば、そのことについては、きちんとした信念を持ち、それを曲げてはなりません。こうしたメリハリをきちんと持つべきであると思います(「風林火山と「武」のあり方」参照)。

これは本来、リーダーたるものの資質として求められるものです(「全員が真のリーダーたれ」参照)。これから人類は、大変な時代を生き抜いていかなければなりません。そうした時代を迎えるにあたって、人間ひとりひとりが、大きな責任と尊厳ある存在としての自覚をもつことが大切なのです。分からないことについては、分かっていないことを謙虚に認め、自分の力でじっくりと考えていく強さを持つことが求められています。

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