常識について思うこと

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「888」と会社ロゴ

2009年08月22日 | 会社

「666」は、悪魔の数字等と言われたりします。新約聖書によると、この数字は、正確には「獣の数字」となっているようですが、いずれにせよ、この数字が宗教的に何らかの意味があったことは事実らしく、そうした宗教観に基づいて、使われて続けてきた側面はあるのでしょう。

ところで、そうしたキリスト教的世界観に基づいて、そのような数字遊びをしてみたり、またそのことを推し量ってみたりということについては、そろそろ幕引きをしても良いのではないかというのが、私が常々思うことでした。

「666」の解釈について、様々な意味を持たせることになった背景には、宗教を巡る歴史的で複雑な事情を含んでいるのでしょう。そうしたことからすると、「666」の数字の意味について、一概に善悪を語ることはできません。しかしそれでも、悪魔的等と呼ばれるような数字を使ってみたり、そこから誤解を招くような使い方をすることについては、第三者ながら、見ていてあまりいい気分がするものではありません。たとえ自分たちが、その内面に悪魔的な側面を宿しているとしても、それを安易に「666」等という数字で表すのではなく、あくまでも「神たらん」とする気概や気構えは必要だし、そういう存在であろうとする努力を示すべきであるというのが、私の率直な感想だったわけです(「「自分教」の薦め」、「創造主の正体」参照)。

そこで私として、そうした世界観を超越することを明示的に掲げるという意味で、意識的に使用しているのが「888」です。これは、本ブログのユーザー名、「sukune888」でも使っている数字です。

「8」は、とても縁起がいい数字で、神様の数字であるとも言えると思います。漢字の「八」は、下に向かって開けている末広がりで、未来の展望が開けていることを意味していると言われます。神社の名前でも「八幡」や「八坂」という文字があったり、「八百万の神」という言葉を使ったりもします。さらに「8」は、横に傾けると「∞」でもあり、人類の可能性という意味でも、大変縁起がいい数字であると言えるでしょう。歴史的に、「666」という数字が使われてきて、それが悪魔的な意味合いを持っていたとするならば、それに対して「888」という数字を、神としての意味合いを持たせて使ったらどうかと思ったわけです。

私が、自分の会社(イッセイ株式会社)のロゴを作成するときには、そうしたことも少し意識しました。ロゴを作成するとき、特段、デザイナーの方に「888」にしてください等というお願いをしたわけではありませんが、出来上がったロゴを見て、「これなら大丈夫」だと思いました。それは、「issei」というロゴの真ん中にある「sse」が、何となく「888」のように見えたからです。今から考えると、これが完全に「888」になっていないところもポイントのような気がします。つまり、まだ神たる「888」にはなっていないけれども、努力次第で、ちょっと線をつなげれば「888」になることができる(逆に「666」にもなり得る)という意味が込められているようで、そうした決定論的でないところも良いように思えたのです。しかも、それが二つの「i(愛)」に挟まれている(囲まれている)というのも、良いような気がしました。

他愛のないことですが、私の会社のロゴにはそんな思いを込めています。人類が現存の宗教や世界観に囚われず、自らの尊厳を「神たらん」とする意気込みで高めていければ、自ずと新しい世界が開けてくるでしょうし、より高い次元の存在としても覚醒できるように思うのです。

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