常識について思うこと

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夢を持った学生が集う場所

2009年12月21日 | 教育

先日、母校・慶應義塾で「准教授」なる肩書きをお持ちの方とお話をしました。その方曰く、「最近の学生は無反応でしょ?夢もないみたいです」ということで、大変びっくりしました。

私も、慶應義塾の学生たちとは、しばしば会って話をすることがあります。そして、私と会って話をしている彼らは、けっして無反応ではありませんし、夢がないわけでもありません。彼らは彼らなりにきちんと問題意識を持っていますし、こうなって欲しいという思いも抱いているようです。しかし今、教育機関で「先生」と呼ばれる方々が、彼らに希望や夢を与えられるような話をできていないケースが多く、特にそういう「先生」に対しては、学生側が無反応にならざるを得ず、また夢を語ることもできないというのが現実ではないかと思うのです。

即ち、学生を無反応にしてしまい、夢を語らせることができないということ自体が、この激動の時代の中で、次のパラダイムを示せていない「先生」の無能さを示していると思うわけです。冒頭の「准教授」の発言は、学生側の問題ではなく、逆に慶應義塾の教員や教育レベルの低さを露呈している可能性があるという意味で、きわめて深刻に受け止めるべきではないかと思う次第です。

そもそも慶應義塾というのは、幕末から明治にかけての激動の時代にあって、藩校のような社会制度の枠組みの中に育った教育機関ではありません。福沢諭吉という一人の教育者によって創始された私塾です。そしてまた、彼自身も適塾という私塾に学びました。説明するまでもなく、当時の私塾というのは、それを開いた個人の資質によって、新しい時代に必要な教育を施していくものでした。そこに多くの若者が集った理由は、私塾を開いた「先生」が夢とビジョンを持っており、そこでそれに相応しい知識や概念を学ぶことができたからでしょう。こうした私塾に集う学生たちは、「先生」たちと同じように大いに夢を持っていただろうし、またそれらを語り合えたのだろうと推察します。

かつて私塾の雄とも呼ばれた慶應義塾の教員から、冒頭のような言葉を聞くと、いよいよ同塾も、そうした私塾としての歴史的役割を終えてしまうのではないかと思えてなりません。それはいよいよ、さらに新しい時代において、さらに新しい私塾が生まれるのではないかという予感でもあります(「私塾の時代」参照)。

もう少し踏み込んで言えば、「師への最高の恩返しは、師を越えることである」とすると、慶應義塾で学んだ者が為さなければならないことは、師・福沢諭吉の慶應義塾を越える私塾を創始することなのかもしれません(「先人たちへのご恩返し」参照)。

以下、私が中学時代に暗唱させられた慶應義塾の目的です。

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慶應義塾は単に一所の学塾として自から甘んずるを得ず。其目的は我日本国中に於ける気品の泉源、智徳の模範たらんことを期し、之を実際にしては居家、処世、立国の本旨を明にして、之を口に言ふのみにあらず、躬行実践、以て全社会の先導者たらんことを欲するものなり
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新しい時代において、本当に新しい私塾を創設しなければならないかどうかについては、まだ結論を出す必要はないだろうと思います。しかし、師が唱えた慶應義塾の目的を常に念頭に置きつつ、それを達成するためには、一切の妥協をするべきではないと考えています。それが結果として、全く新しい私塾の創設に繋がるとしても、それは上記の慶應義塾の理念に反するとは思いません。

これからの時代において必要なことは、きちんと夢を持った学生が、それを実現できるという希望を持って集える場所だと思うのです。そして、それが時代の要求であるならば、自ずとそうした教育機関が生まれることになるでしょう。

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