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私塾の時代

2008年12月05日 | 教育

時代の転換期において、教育機関は新しいところから生まれてきます。

近代国家日本が生まれる幕末から明治維新にかけての時代、大きな役割を果たした若者たちが学んだのは、吉田松陰の松下村塾などに代表される私塾でした。私塾では、新しい時代を先取りした力強い教育者と、その時代のウネリのなかで危機感を抱きつつ、未来を切り開こうと自発的に学ぶ若者たちが、数多く活躍しました。

一方で、江戸を中心とする幕藩体制のなかにあって、教育機関として広く発達してきたのが藩校です。藩校は、幕藩体制のなかに組み入れられたかたちで運営されており、その体制を支える人材を多く輩出してきたと言えるでしょう。

時代の転換期においては、当然のことながら、旧来の価値観よりも新しい価値観に基づいた行動の方が、新しい社会作りに貢献していくことになります。このことは、既存の仕組みの中で発達した藩校で学んだ人々よりも、新しく生まれてきた私塾で学んだ若者たちの方が、次の時代を創る力を備えていたことを意味しており、そしてまた、それは歴史が証明しているように思います。

私は、幕末の私塾、慶応義塾の創設者である福沢諭吉という人物が、こうした歴史のなかを生きつつ、私塾の本質と重要性について、よく理解していたのではないかと考えています。彼は、大阪の私塾である適塾において蘭学を学び、その後、樹立された明治政府とは一線を画し、あくまでも私塾というかたちを守り続けて、新しい社会を切り開く人材の育成に尽力しました。

もちろん彼が、明治政府樹立以降も、私塾にこだわった理由には、もっといろいろなことが考えられます。詳述は避けますが、私自身、そこには彼が「脱亜入欧」を唱えながら、それが完璧な答えでないことを知っており、また明治政府の樹立に至るまでの過程で、その関係者が、さまざまな矛盾を抱えていたことも、彼が明治政府と一線を画していた大きな理由ではないかと思っています。それは、彼が提唱する「独立自尊」の精神とも合致しており、日本国政府を頼らずとも、新しい社会を作り続けようとする姿勢の重要性を訴えているように感じます。

視点を現代に移すと、これまで発達してきた教育機関は、程度の差はあれ、どれも既存の社会システムや価値観の中で生まれてきたものです。福沢諭吉が創設した慶応義塾も、彼が唱えた「脱亜入欧」のなかで、範とすべき「欧米」の価値観やシステムが、大きな曲がり角に入り、次の時代に通用する新しい価値観を提唱できないという意味で、もはやかつての私塾としての役割を果たすことができなくなってきていると考えます(「脱亜入欧の終焉」参照)。これは、私塾として始まった慶応義塾ですらも、現代においては「藩校」化してしまったということです。

ここからは私の個人的な見解と、実現しようと考える教育システムの要点です。

次の時代において、「脱亜入欧」が通用しないようになるのであれば、いかにして日本が主体的に世界をリードできる存在として、自らを磨いていくかという観点が大切になるでしょう(「世界のリーダーたるべき日本」参照)。

また、既存の学問体系という意味では、最先端の科学が探求している未知の領域について、一部宗教的とされる概念を織り交ぜながら、新しい総合的な学問体系を構築していく必要があります(「宇宙が膨張を続けるカラクリ」、「確からしい四次元の存在」等参照)。

さらに、活きた学問を追及していくためには、タブーを許さない自由で活発な議論が必要であり、そのためには、自由な言論が許されるオープンなメディアの構築が必要になってきます(「通信と放送の融合」参照)。

こうしたことを踏まえて、次の時代における教育機関は、単に蓄積された知を、学問として後身に伝えていくだけではなく、学生たちとともに、次の時代を創造していくための新しい価値観や学問体系を、共に育てていくような役割を果たしていかなければなりません(「教育は共育なり」参照)。

これらは、現存する教育機関でも、既に試みられていることではありますが、真に新しい時代を創造していくための価値観やシステムを構築していくには、まったくもって足りていません。かつての幕末時のように、もっとそれぞれの「個」が輝きを放ちながら、新しいものを創造していかなければならないのです。

学歴社会の崩壊等ということが、言われるようになって久しいですが、実際に、学歴社会は、いまだに脈々と続いています。まだ学歴には大きな意味がありますし、それによって、個人の社会的影響力が決定付けられるという側面が、残っていることは事実でしょう。

しかし、学歴社会の崩壊は、必ず起こると思います。それは、これからが本当の意味での実力の時代(「社会を作る「実力」の時代」参照)であるということであり、これまでの教育機関における学歴が、まったく通用しなくなることを意味します。

こうした新しい時代を迎えるにあたって、このチャンスを活かすも殺すも、各個人の選択に委ねられています。とくに現代における「優秀な藩校」出身のエリートの方々は、十分に注意してください。これから先、「藩校」の名前にあぐらをかいていたら、必ずや「エニート」の人々に足をすくわれることになると思います(「「エニート」の強みと誇り」参照)。

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