常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

教育者・福沢諭吉の魅力

2009年08月24日 | 教育

福沢諭吉という方は、言葉や議論することの限界をわきまえていた人物だったような気がします。彼は、赤穂浪士について以下のように語っています。

==============================
例えば赤穂義士の問題が出て、義士は果たして義士か、不義士かという議論が始まる。すると私はどちらでもよろしい。義か不義かは、口の先で自由自在。君が義士と言えば、僕は不義士にする。君が不義士と言えば、僕は義士にしてみせよう。さぁ来い。幾度来ても苦しくないと言って、敵になり味方になり、散々論じて勝ったり負けたりするのが面白いというくらいな毒のない議論は毎度大声でしていたが、是非を分かってもらわなければならぬという実の入った議論をしたことは決してない。
==============================

要は、赤穂浪士を義士にすることもできるし、不義士にすることもできるということです。相手が「義士だ」と主張すれば、「不義士」にすることができるし、「不義士だ」と言われれば「義士」にしてみせるわけです。それは、赤穂浪士が義士か不義士かのどちらであるかという議論に本質があるのではなく、どちらにもなり得るということ自体に、物事の本質が潜んでいることを見抜いていたということでしょう。だからこそ、赤穂浪士が義士か不義士かという議論そのものについては、「実の入った議論をしたことがない」という言葉が出てくるのだと思うのです。

この感覚、私なりには落とし込めているような気がします。物事の本質が、決め付けられない以上、それを特定の視点から決め付けようとするものに対しては、その真逆から応戦するような感覚でしょう。私が、このブログに「常識について思うこと」というタイトルを冠し、「常識」という決め付けようとする力が働くものに対して、「非常識」的な視点を持って、その「常識」と思しきもの自体に本質が宿らないことを説いてみせる感覚のような気がするのです(「期待する好試合」参照)。

本質が議論そのものに宿らないという意味で言うと、私がこのブログに書いていることは、時代が移り変わって「常識」の中身が変わってくると、それが持つ意味もだいぶ変化してくるということです。そうしたことからすると、私が書き連ねていることも、本当のところ、福沢諭吉が言うように「実の入った議論ではない」ということになるのかもしれません。

いずれにせよ、物事の本質を知ってしまえば、ある事象を指す言葉やそれを巡る議論というのは、所詮、無数にある見方のうちのひとつであり、どこか特定の視点から眺めた結果に過ぎないということを受け入れざるを得ません。福沢諭吉という人物は、そうした言葉や議論の限界をよく知っていたのでしょう。私としては、そうした限界を知っていることも、彼の教育者としての魅力だったように思います(「教育は共育なり」参照)。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 2009年7月期のアニソン | トップ | 自称悪魔さんたちの償い »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

教育」カテゴリの最新記事