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「ゆとり教育」から学ぶこと

2008年07月03日 | 教育

いわゆる「ゆとり教育」を推し進めた方の講演を聞きました。講演そのものは立派でしたし、私自身、その方が自分なりの確固たる信念を持って、それを進めてこられたのであろうことに敬意を表したいと思いました。

しかし、現在を生きる私たちは、常に明るい未来を切り拓きながら進んでいかなければなりません。将来の教育をどうするかに関して真剣に考えるとき、過去の事象について、手放しで賞賛するわけにもいかないように思います。そういう意味で、あえて以下、その講演で語られた「ゆとり教育」から学ぶべきことについて、私なりに整理をしたいと思います。

① 多様性を認めるなら社会作りまで
「ゆとり教育」の柱のひとつは、多様性への対応だったようです。昭和というのは、画一的な人材を育ててきたし、それが良しとされてきた時代だったといいます。たしかにその通りなのでしょう。昭和のように成長を続ける社会というのは、社会全体の方向性が定まっており、ある特定の才能を決まった方向に活かすことで、きちんとその社会における生産活動を展開することが可能でした。画一的という見方もありますが、それだけ社会の方向性が定まっていたが故に、それに合わせて人材を輩出すればよかったのだろうと思います。

これに対して、平成では社会の方向性が定まらず、社会全体が進むべき道を見出すところから始めなければなりません。平成というのは、そういう状況にあっては、あらゆる人材が、それぞれの才能を活かして、各自の役割を果たしていかなければいけない時代であるということなのでしょう。この考え方にしたがって、教育の場でも、特定の限られた科目での学力だけではなく、いろいろな体験を通じて、それぞれの才能を伸ばしていくという発想は、非常に良いことなのではないかと思います。

しかし、せっかくそのようにして、多様な才能を伸ばしたところで、社会においてそれらが評価されなければ、結局、社会的には厳しい地位に甘んずるしかなかったり、場合によっては、いわゆる「負け組」のレッテルを貼られて、痛い目に遭ってしまったりということにもなるでしょう。教育をする側が、「このやり方で大丈夫だ。頑張れ、できるはず」と言ったところで、実際の社会に出ていくのは、教育を受けた側の人間です。そのやり方が、きちんと実社会において評価されていなければ、辛い思いをするのは教育を受けた側の人間なのです。

このような観点から、教育者がよかれと思う教育を進めていくことは重要ですが、その教育を受けた人間が、きちんと評価されるような社会作りを怠ってもいけないと思います。社会作りは、教育者の仕事ではなく、政治家の仕事であるという言い方もあるかもしれません。しかし、そうであるならば、その教育者は自らの教育方針について、「これが絶対に正しい」と自信を持って、推し進めてはならないし、そこには謙虚に自分の限界を受け入れる必要があるのだろうと思います。多様な才能を育てるということは、同時にそうした多様性を受容する社会作りをしていくということも求められるわけで、これからの教育にとっては、こうしたことが非常に大切なことになるのではないかと考えるのです。

② 評価尺度の限界を教えよ
学力などのテストの点数だけではなく、多様な才能を伸ばすということは、とても素晴らしいことなのだと思います。そうした考え方の一環として、勤労体験や自然体験を通じて、多くのことを学んでもらうということも重要でしょう。テストは、あくまでも自分ひとりの力を試すものですが、勤労体験を通じて他者と協力する重要性を知ることもあるでしょうし、自然体験を通じて人間が他生物との関わり合いのなかで存在していることに気付くかもしれません。教育の現場において、いわゆる頭の良さだけではなく、人格や人間性を育てていこうという視点を持つことは、非常に大切なことだと思います。

しかし、一方で学力が低下している、あるいは他国と比べて落ちているといった議論があるなかで、そうした批判に対して、どのように答えるのかという解を持つ必要もあるかと思います。

学力には、いくつかの考え方があるでしょう。そのなかで私は、一般的にテストの点数に反映される学力というのは、単純な知識や(非常に複雑なものも含めて)合理的とされる思考法、あるいはそれらの組み合わせを確認するものがほとんどではないかと考えます。こうしたテストの中身は、今までを生きてきた大人たちにとってはとても大切なことで、目に見えるかたちで、分かりやすいものではあります。しかし、現代社会は行き先を見失っているのであり、大きなパラダイムシフトが起ころうとしているという意味で、今求められるのは、最先端の科学でも分からないことをどのように探求していくか、今まで認められていなかったような思考法をいかにして生み出していくか(このことがまさにパラダイムシフト)ということです。そして、これらはいわゆる一般的なテストの点数には、反映されないということです。こうした意味で、「テストには限界がある」ということが、もう少しきちんと主張されてもいいように思うのです。

そして、同時に必要なことは、これからの時代において、いかにそうした新しい才能が求められるかを語ることでしょう。テストは、所詮テストであると堂々と言うからには、社会的ニーズや時代の潮流を交えながら、何が求められるかをきちんと説明する必要があります。それらをきちんと説明したうえで、テストという評価尺度に限界があることについて語ることは、極めて大切なことなのではないかと思うのです。

③ 明確なビジョンと理念を持つ
教育が方向性を見失ってしまう理由は、社会全体が進むべき道を明確に示せていないからでしょう。そういう意味で、子供たちに対して、そうした不透明な時代において、進むべき方向性を見出せる能力を伸ばしてもらうというのも結構なことでしょう。しかし、それを教育の場を通じて、子供たちに一方的に押し付けるのは、大人の傲慢ではないかとも考えます。つまり、大人ができもしないことを子供に押し付けるなどというのは、あまり見栄えがいいものではないと思うのです。もし大人たちが、これからの社会が進むべき方向性を見失っているのであれば、大人は子供たちに対してもっと謙虚であるべきです。

反対に、大人が教育者として、堂々と子供たちに接しようというのであれば、大人たち自身がきちんと明確なビジョンと理念を持つことが求められて当然ではないかと思います。教育者たるものが、そういう明確なビジョンや理念を持つことをせず、それは政治家の仕事であるなどと言ってしまうということは、許されないのではないかと考えます。

上記のような意味において、現代社会における教育者が、教育のことだけを考えるというのは適切ではないと思います。社会全体をいかにリードしていくかという理念やビジョンが投影されたところに、自ずと教育のあるべき姿が見えてくるのではないかと思いますし、教育者自身が、そうした理念やビジョンを持つことが、現在、最も求められているのではないかと思うのです。

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