満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

きっと地上には満天の星 :監督セリーヌ&ローガン

2022-08-18 | 新規投稿
 
全編、暗闇を映すかのような衝撃作だった。ジャンキーの母と娘は住処である地下トンネルを抜け出すが、地上もまた暗闇。それは比喩ではなく実際の映像の暗さにホープレスな世界が一貫する。娘を愛する母の真摯さにハッピーエンドを期待するが最後の最後の瞬間的な一場面のみに現れる朝日の明るい陽射しの中に立つのは母だけの姿だった。娘はいない。地下鉄ではぐれてしまった娘を血眼になって探す狂気のような母がやっと探し当てた娘と最後に・・・・。この絶望的などんでん返しは確かにフィクションだが、恐らくはNYでの数多の実話の一ケースなのだろう
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「ナワリヌイ」ダニエル・ロアー監督

2022-08-15 | 新規投稿

 

暗殺の対象になった反体制活動家自身が探偵さながらの犯人追究をカメラの前で繰り広げ、情報発信するというSNS全盛時代ならではの異色のドキュメント。ロシア帰国の飛行機内で乗客からヒーロー扱いされ、直後に空港で拘束される事を予期しない楽観性はラストシーンでの拘留中の笑顔にまで貫かれる。ナワリヌイのこの陽性とも言えるキャラが映像のパワーとなり訴えるが、現実には未だ解ける事はない拘束状態とクロスする現在進行形の重たすぎる映画。

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アーカイブ「満月に聴く音楽」(2006年出版)回想の歌 ① John Coltrane      my favorite things

2022-08-12 | 新規投稿

回想の歌 ①John Coltrane      my favorite things

東京で過ごした6年間をたまに思い出す事がある。それはバンド活動の事であったり、仕事の事であったりするが、その何れもがかすかな断片のようであり、はっきりとその姿を見せてはくれない。しかし自分にとって最も懐かしく愛着のある年月がそこに在った事をいつも感じている。

 

1985年、私は大阪から東京へ出てきた。と言っても一旗揚げる為に意気込んで上京してきた訳ではない。就職した会社がたまたま、東京支社勤務を私に命じたのである。

学生時代の私がいわば<夢幻状態>であったとすれば、サラリーマンになった私はそこから抜け出る筈であった。音楽や読書、芸術に関する大食漢であった私は恐らく夢幻をたらふく食った出来損ないであっただろう。厳しい現実社会はそんな私の体質や価値観などを粉々に打ち砕き、私を立派なビジネス戦士として再生する筈であった。

しかし<夢幻状態>は終わるどころか、私をよりその深みに誘っていった。

 

 ‘就職すればもうバンドなどできない’という周囲の言葉を私は信じ、社会人とは最早、奉仕一筋の自由無き人生の入口と恐れていた。音楽や芸術の価値観の中にぼんやりと棲息し、自由勝手に生きていた私にとってビジネス社会とは、当初、恐怖感との格闘といっても大げさでなかった。

そんな青臭い私だったが、音楽への尽きない熱意は継続された。残業でヘトヘトになってもその足でスタジオへ行き、バンド活動に熱中していたのは、今にして思えば異様である。しかもバンドを三つも掛け持ちしていた時期もあった。若かったせいもあるが、正しく何かに取り憑かれていたかのようにバンドに熱心で、更に給料は殆ど、レコードやライブで消えた。

 

私は東京に着いてすぐ学生時代の親友、浅野と新宿花園神社で再会し、唐十郎の情況劇場によるテント芝居『ジャガーの眼』を観た。更に渋谷のジャズビデオ喫茶スウィングへ行き、そこで初めて動くジョンコルトレーンを観た。そのモノクロームの映像に感激した私は「やっぱりバンドやらんとあかんと」気持ちが高ぶってきたのだった。

東京で過ごした1985年から91年は果たして私にとっての<青春時代>であった。

懐かしく又、暗い青春だったような気がする。

 

スウィングで見たジョンコルトレーンの映像。それはクールなムードを保ちながらも、熱い衝動と表現の威厳、誇りがオーラのようにこちらに伝わるものであった。一筋の汗が頬を伝うエルビンジョーンズの野性味。エリックドルフィーの孤高。お馴染みの曲「マイフェイバリットシングス」(my favorite things)を演奏するコルトレーンは全く威厳に満ち、精神の統一感を表現する。感情が乱れず、一点に向かって真っ直ぐ突き進むが如く、眩い光があったように記憶する。私にはこのコルトレーングループの映像が最高にカッコ良く感じられ、その情熱的な精神の深みと同時にスタイリッシュなクールさにも魅了された。その結果、表現意欲がじわーっと湧いてきたのだろう。

 

更に今思えばそれ以上に強い再確認があったように思う。それは私自身を覆う薄ぼんやりとした暗さの認識を促した事だ。元より在った暗さを自覚させ、しかもその暗さにある深い快楽の認識でもあった。

当初、私は社会人になって<明るさ>に転じようとする欲求があった事を思い出す。レコードを買いまくる習慣や、音楽の持つ美的感覚に耽溺する生活感覚を改め、もっと社交的で軽やかさを身につけ、世間的な幸福的価値観を手に入れ、そこに充足しようとしていた事も事実だった。

しかし、やはりそうはならなかった。

学生時代よりももっと深く、音楽にのめり込んでいったのが私の社会人生活であった。

私は<一番、好きなこと>に対する忠誠を翻す事はできなかった。従ってその生活にはある意味、より暗さがつきまとう結果になっていただろう。

 

***************

 

その年の夏、雑誌『プレイヤー』のメンバー募集で知り合ったバンドに参加し、早くもライブ活動を開始。雑誌『DOLL』の自主レーベルがリリースするオムニバスアルバムに参加する為のレコーディングも行った。

裸のラリーズのパフォーマンスを目撃した渋谷屋根裏でその翌週、ライブをした。以前から東京アンダーグラウンドの象徴とイメージしていた屋根裏。私の想像していた通りの、ある種、神聖さを感じ得た事を憶えている。初めて足を踏み入れた日の出演者がラリーズだったから尚更だろう。そのスペースの狭さ、汚さ。特異なムードを漂わせていた。あのような独特な匂いのするライブハウスは今、どこにもないのではないか。その屋根裏でのライブの時、ステージでの私の立ち位置は床にへこみがあり、ミシミシと鳴っていた。底が抜けるのではないかと気になってしょうがなかった事を思い出す。

 

このバンドを率いていた高木という男は全く現実感の無い世捨て人のような奴で神奈川の奥のまるで戦後すぐに建てられたようなボロアパートに住んでいた。座るのも憚れるほど汚い畳の部屋であった。蒸し暑い真夏の日、一度行った時、散切り頭に銀縁めがねという風体の奴が「新曲を聴かせる」と言って、ギターをミニアンプにつないで立ち上がり、足元のリズムマシーンのスイッチを器用に足の親指で押し、ギターをかき鳴らしながら叫び始めた。それは正しく本物の<出来損ない>の姿であると思った。パンツ一丁であった。

メンズ・ビギなんぞ着てやって来た私はこの爆笑阿修羅王とでも言うべき男と並んでベースを弾き、嫌々ながらコーラスもとったと思う。何ともおかしな光景であろう。

その後、奴がよく行くという場末のようなラーメン屋に行き、夢を語り、私の事を信頼していると言った。しかし私はそんな話よりも、出されたラーメンのまずさに閉口し、何故これほどまでにまずいのかをずっと考えていた事を記憶している。あんなにまずいラーメンは後にも先にも食べた事がない。作る時、何かを間違えたのだろうと思う。

 

高木は全くどうしようもない奴だったが、作る曲は割と良く、しかも次々とライブのブッキングを取ってきたので活動は活発であった。私はメジャーという幻想を一時的に持ったのも事実だ。しかし大学の先輩でギタリスト、桜井さんを事もあろうにこのバンドに誘いこみ何度かライブに参加してもらった時、バンドの見通しの無さを一発で看破され、自分の盲目さに気付いた次第であった。

バンドはその後、メンバーが次々に辞め空中分解したが私は高木という男の未来の無さ、空回りする情熱を愛していたと思う。ライブでは度々、熱が入りすぎて歌が前のめりになり、リズムがむちゃくちゃになってしまう。叫びすぎて歌詞を忘れてしまう。もうどうしようもなかった。しかしそんな高木の盲目さこそ、私自身の姿でもあったのだろう。私も奴と大差ない<出来損ない>であった。だから私は奴を見放せなかった。

 

思えば当時はそんな人間との出会いの連続であった。一体、何人の人間と、音楽にまつわる出会いがあっただろう。私はベースの腕を磨くために様々なジャムセッションにも参加した。「高柳昌行の弟子だった」というギタリストや町田町蔵の人民オリンピックショーのサックスという奴、色々な男とジャムをした。経験を積んで腕を磨く事が私の目的だっただろう。そんな中で川上君というドラマーと知り合ったのは大きかった。彼は地下鉄護国寺駅に隣接する天風会館で住み込みの守衛の仕事をしており、夜、その広い空き部屋で自由にセッションを繰り広げられるのだ。横須賀出身で基地のステージで毎日、何時間も演奏していたせいで鍛えられたドラマーであった。かと言って明確なプロ指向があったわけでもない、一種の自由人であったと思う。実に飄々としていた。しかし私は彼のパワーとグルーブ感、テクニックには驚かされた。ジャックディジョネットのような感じであった。そして彼が招集する演奏家達は今から思えば一癖も二癖もある連中ばかりであった。

 

川上君とはずっとリズムセクションのコンビであり続けた。私にとっては最高のパートナーであった。後、私はチコヒゲ(元フリクション)の知人から彼がドラマーを探している事を聞き、川上君を推薦した。それは実り、チコヒゲのグループに一時的に参加していた。もっともすぐ辞めてしまったが。実に淡泊な男であった。

その川上君とギターの山崎、サックスの大江、キーボードの奥本と組んだバンドは私の最初のリーダーバンドだった。ジャズロック的なインストバンドでオリジナルを演奏したが大した活動にはならなかった。私の力不足だろう。今思えば残念だ。その間、現在、音楽評論家である坂本理氏のバンド、ソフトウィードファクター(soft weed factor)等にも参加していた。正に片っ端から時間の許す限り、音楽活動をしていたと言って良い。

川上君と私、桜井さんにソフトウィードファクターで知り合った田辺君(sax・vl)を加えたバンドは今、聴いてもなかなか強力であったと思っている。只、いつも持続しなかった。

 

*********

 

私が東京での6年の間、最も思い出深いのは栗原という男との活動である。

出会いはよく思い出せない。何かのセッションで知り合ったと思う。私と同じ関西出身で3才年下の彼はトランスというインディーレーベルのギタリスト(だと言っていた)で、周辺には当時、一種の流行だったポジティブパンク風の連中が多かった。ドイツのノイバウテンそっくりの音楽性を持つベルゲルターというグループも彼の友人であった。

「ベースがPモデルに入るから抜けてしまう。俺のバンドに入って欲しい」と言われたのは知り合って間もない頃であった。さらに、「ヴォーカルは福岡からスターを目指して上京した浩太郎、キーボードは山崎。俺等はザキと呼んでいる。兄貴がプログレの雑誌をやってるらしい。俺は読んだ事ないけど。(私が第一号から読んでいた「マーキームーン」の事だ)ドラムはベル。昔、リザードって言うバンドにいた。俺はよう知らんけど」と言った。

「えっ!? 」

私は思わず声をあげた。私が驚いたのはベルという名前だった。フリクションと並ぶ日本ニューウェーブの先駆であるリザードを私は学生時代、京都の磔磔や京大西部講堂で何度も観ていた。それは私にとって単なる好きなバンドと言うよりヒーローであった。短命なバンドだったが、私の思い入れは強く、三枚のアルバムは擦り切れるほど、聴いたものだ。栗原から手渡されたデモテープを昨日聴いていたが、その音楽は彼が好きだというキュアーのような音楽性で今一つ、私の趣味ではなかった。私は迷っていた。しかしバンドに元リザードのベルがいる事が判明し、迷いは消えた。私は即答した。

「ああ、ぜひやらせてくれ。リハはいつやんねん?」

何ともいい加減なものだ。

私と栗原の日々が始まった。それは希望と絶望が入り混じった夢幻のような日々であった。

my favorite things

私は一番好きなものに熱中する恵まれた精神貴族だったであろう。

 

「満月に聴く音楽」(2006年出版)から抜粋

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長崎の郵便配達(監督 川瀬美香)

2022-08-08 | 新規投稿

 良い映画でした。平和メッセージが感情過多に陥る事なく、特定の正義やPRにも加担せず、アンビエントのような均衡性を保つ事に成功。それを実現する為に表現に余白を残しストイックな映像を提示する手法を取らず、明確且つ濃厚な物語性と画面の静的ムードを両立させた。

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