満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

三上 寛   『-1』

2009-06-17 | 新規投稿

三上寛の曲の‘無表情さ’をずっと思っていた。激越、且つ、艶めかしい発声や無比な歌詞とは裏腹に、常に安定的で、均質な歌の表情。精神安定的なその音響にある種の抱擁感を感じ、起伏なき快楽に満たされるのが、三上寛体験の神髄であると感じていた。それは三上寛にある演歌(艶歌)世界による‘湿り具合’が我々、日本人の感性の奥底に根ざす共通感覚を刺激するからなのか。いや、少し、違う。私が三上寛に感じるのは、もはや、環境音楽にも似た、その‘常態性’なのだ。
三上寛にあって、歌に個別の個性などはない。アルバムに収められた歌は全て、繋がっており、連続された歌集となる。いや、そればかりか、一つの歌が、以前のアルバムに収録された全ての過去の歌の数々ともつながっている。それは盟友、灰野敬二が指摘した「全部、Aマイナーで始まる」というコード進行のバリエーションの無さとも関係しているが、それよりも三上寛の‘ワンパターン性’とは、その生と歌の連動性故に生じる‘日常態’にこそ本質があると思われる。従ってその魅力的な歌詞についても、思想やコンセプトという深みより、その実相は発声される日常言語が三上寛という稀有な芸能者によって‘言霊’と化す響きのインパクトの方がより、感動的なのであり、しかもそれが自然な溶け込み具合として顕在化する。先に‘無表情さ’と書いたのは歌の個別の屹立というインパクトに勝る‘連歌’のような空間浸透性にも似たインパクトを肯定的に捉えた印象の事なのだ。

友川かずきのような歌の物語性やメッセージを三上寛に見出す事は困難である。歌メロにも、サビにも、その詞の中にも、いわゆる個別なコンセプトを籠める‘深み’はない。そんな私の思いがある意味、証明されたのが、この新作『-1』のアルバムタイトル及び、それぞれの曲名である。‘-1(マイナス1)’という数値の題。そして収録された6曲には、それぞれ、「♯501」、「♯502」、「♯503」、「♯504」、「♯505」、「♯506」という無題表示ともとれるタイトルがついていたのである。三上寛のこの反物語性とも言える‘無題’に私は密かに歓喜した。

アルバムの内容はエレキギターによる弾き語りというソロパフォーマンスであった。これ自体は珍しくはない三上スタイルの一つの形であるが、ノンコンセプトな羅列言語による‘言霊’が聴く者に対し、前後に移動しながら、顕れ出るように流れていくその流動性が気持ちいい。一曲、一曲が独自の顔を放棄し、瞬間の一筆書きのように奏でられる。しかも、今回、際立つのが、エレクトリックギターの絶妙な響き具合なのである。2年前にリリースされた韓国でのライブ音源である『寛流』(07)ではそのサイケを‘狙った’リバーブ過剰が逆にワンワンと反響しまくる逆効果となり、聞き苦しい失策を生んだが、その後のスタジオ録音ではそれが修正され、程よいリバーブによる空間とギターの鋭角さが円環運動するようなサイケトランス状態をも醸し出した。

『-1』によって、元より、その音楽的本質であった三上寛のアンビエント性が具体化した。
PSFレコード移籍後の多作はキャリアにおける‘歌の量産化’という新境地を生み、三上寛の活動は、フィードバックノイズを大量に放出するサイケミュージシャンさながらの ‘安易さ’と同様な意識で、その歌を‘垂れ流す’行為性へと及んでいる。

量産される歌の群れ。
その音楽世界はもはや、ブルース的循環系であり、終わらない環境音楽と化す。そして歌詞が前後に交換されながら、混合に歌われるのは、反物語性を強く示唆し、言語の破片の発声放出という三上ワールドの境地を示すものだろう。

『-1』に収められた6つの歌の切れ目は感じられない。コードもテンポも発声もずっと同じである。歌の内容も吟味できない。ただ、それぞれの歌に登場する言葉の断片が時折、スコーンと襲ってくるように、耳に飛び込んでくる。その時、私は‘はっ’とするのだ。

'ジョンコルトレーンを呼び出すだろう'
                「♯501」
'今だから割れるコップ'
                「♯502」
'障害を持っている'
                「♯503」
'小便小僧が放尿す’
               「♯504」
’丘の上で滑った 滑って、そして転んだ’
               「♯505」
’股を広げたブッシュの顔だ’
               「♯504」
’塩屋崎の電話ボックスだろう’
               「♯506」

歌詞カードを見ながら聴くような歌ではない。別に意味はない。ただ、その発声にギャグやペーソスをも含んだ高踏なシャーマニズムを視る。しかも、色濃いルーツアイデンティティが誇らしい。

昨今、イギリスやヨーロッパのメディアから頻繁にとり上げられて、海外でのライブが非常に多くなっている三上寛の独自性は、そのユニークな作風とパフォーマンス性による世界性の獲得であろう。次回は果たして、ロンドン公演の記録だろうか。是非、聴きたいものである。

2009.6.17

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