満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

Lee‘scratch’Perry and Adrian Sherwood 『Dub Setter』

2010-02-08 | 新規投稿

その膨大なアルバム数ゆえに、音源をチェックし続ける事を放棄させるアーティストとしてサンラーと並び称されるリーペリー。しかし、そんなペリーのLPやCDを私は一体何十枚、持っているのか。恐らく今まで100枚くらい買って、半分くらい売ったかもしれない。買っては歓喜し、あるいは騙されながら、その魅力にハマっているのも確かで、そこにある感動は他のアーティストでは味わえない、ある‘緩み’の実在感と言うか、リラクゼーションの極みのような必要性さえも感じているのは間違いない。
ずっと以前、『blood vapour』(90)というアルバムが出た時、その内容の素晴らしさをダブに詳しい友人、岡野に告げたところ、「あれ、いいでしょ。でもリーペリーじゃないかもしれない」と言った。「えっ?リーペリーじゃないってどうゆう事や」「ジャマイカがいい加減なのは知ってるでしょ。クレジットは適当だし。」私は岡野の言葉に衝撃を受けた。確かにダブ、レゲエのアルバムで、スライ&ロビーが実際には演奏してないのにクレジットされたりという例が多々、あるようにその手のいい加減な制作は多い。そしてあまたのマニアは‘そんな事くらい、あるよ’といった態度で受け流しているのも事実だ。リーペリーの『blood vapour』はペリーではない?まさか。それはないやろ。確かに音の質感がやや機械っぽく、そのメタルな感覚はペリーよりマッドプロフェッサーに近いと感じていたのも確かなのだが・・・いや、しかし、まさかね。真実は分からないが、私はあの時、呆れて笑ってしまった。しかし、こういったいい加減さも含めた‘緩み’こそがリーペリーやダブの魅力なのだとも思っている。

92年のリーペリー初来日公演はエイドリアンシャーウッドがミキサーで同行した。
そのライブは‘緩み’ならぬ怒涛のサウンドで驚かされたが、それはシャーウッドがON-Uレーベルで展開したエレクトリックダブの具現化でもあったのだ。そのハードエッジなスタイルを私はペリーの再生と見たし、イギリスニューウェーブのメインストリームたる実験精神の体現者であるシャーウッドの導きによって私はペリーに深く入って行ったのだと思う。音楽の快楽主義がそこにあった。その音の効用は弛緩した精神の涵養であったか。

『Dub Setter』は『The Mighty Upsetter』(08)のダブアルバムでペリーとシャーウッド両名の名義となった。『The Mighty Upsetter』(プロデュースしたシャーウッドは‘ここ20数年で最高のリー・ペリーのアルバム’と自画自賛した)は確かに楽曲の良さが光る好アルバムで割と好きだったが、ソングの要素が強かった。そしてサウンドと楽曲に比してペリーのボーカリゼーションが少し大人しかった。従って私が『Dub Setter』に期待したのは大胆に原曲を解体したインストサウンドによるダブの深みであった。それによってリーペリー本来の催眠術的陶酔感覚ともいうべき、‘緩み’の実現を体験したいと思った。

果たして『Dub Setter』に顕われたのは、リズムを抜いたり、ボイスを拡大させる大胆な(よくある)ダブではなく、トラックを温存したまま、リバーブを中心に深さを際立たせる音響的ダブ処理と追加演奏による楽曲アレンジの変化という手法であった。しかし、この絶妙な配分センスは申し分なく、結果的に、‘緩み’の実現に至ったと思う。メランコリーなバイオリンの導入や前作で私が一番、好きだった「Everything Start From Scratch」が、あのデニスボーヴェルによるダビーベースで立体的なサウンドに変貌している。新曲も2曲あり、いずれもダブナンバーとして違和感なく収まった。そして全体の音質感が柔らかく、ロウが効いており、ルーツものに近いナチュラルなオリジナルダブのムードを漂わせている点が、シャーウッドと従来のペリーの持ち味がバランス良くミックスされたと感じる。これはいいね。

リーペリーの無重力な音楽の遊泳に身を任す私はつい日常の時間概念の裂け目に落ちていきそうな錯覚に囚われる。もう仕事に行く時間だぞ。いや、行かなくてもいいか、なんて、まるで猛スピードで突き進む容赦ない時間の進行を笑いながら後ろへ引っ張っているのがペリーであろう。その感覚を私は‘緩さ’と書き、‘不可欠なもの’と認識した。

さて、私は10年前に‘Lee Perry『on the wire』’評を書き、拙書『満月に聴く音楽』に収めたが、その一部をここに再度、書き記して本稿を終えておこうと思う。このリーペリー的なイージーリミックスを許したまえ。

<リーペリーを聴くといつも‘自由さ’を感じる。もっとも自由の度が過ぎて‘いい加減’とみる向きもあるが、それも言えるだろう。大体レゲエ、ダブというのは、時間、空間を後ろへ引っ張るような力がある。容赦なく前へ前へと進む時間、人間を引っ張り続ける現実の時間を遮断するような、あるいは、せかせかとしたムードを笑いながら壊しているような。少なくとも大多数の日本人が持つ時間感覚とは異質な感覚世界である。我々の日常はとにかく忙しい。しかし、ペリーは時間など気にしない。人間がまるで違う。自由を求めるというより、自由な存在としての自分を自然体に置き続ける。あらゆる規制をぐにゃーと溶かしてねじ曲げるリーペリーは何物にも反抗していないし、自分の音楽を何物にも意味付けしない。自然人ここにありか。(2001.1)>

2010.2.8





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