満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

Miles Davis Septet 『Live in Poland 1983』

2009-03-18 | 新規投稿

私は以前、このブログでマイルスデイビスの80年代復帰後の未発表ライブ音源によるボックスが出ないかなと期待した。つまりマイルスのエレクトリックジャズが再認識される昨今、70年代の音源アーカイブ作業が一段落を終え、次は80年代音源だろうと予想したのであるが、今回、GAMBITというマイナーな会社から『Live in Poland 1983』が二枚組でリリースされた。6年に及んだ沈黙を経て復活したいわゆる‘80年代マイルス’の正規のライブアルバムは『we want miles』(82)が名高いが、この『Live in Poland 1983』が嬉しいのは『decoy』(84)の収録ナンバーが多数、含まれている事だ。1983年11月というこのライブは正しく『decoy』を録音し、リリースされる直前に行われた演奏なのだ。とまるで宣伝マンのような興奮口調で書き連ねているが、ジョンスコフィールド(g)、ビルエバンス(sax)、アルフォスター(ds)、ダリルジョーンズ(b)、ロバートアーヴィングⅢ(syn)、ミノシネル(per)、という強力なメンバーによる至高のエレクトリクジャズはその後のマイルス晩年期の音楽性に照らし合わせても貴重であろう。しかもラスト3曲はマーカスミラー(b)、マイクスターン(g)を擁した81年のニューヨークでのライブがボーナス的に収録されている。つまり、この80年代前半とはマイルスのキャリアにとって最後の輝きを放った時期だったのだ。

『man with the horn』(81)で復帰したマイルスが過去人脈で唯一、起用したのはアルフォスターであり、これが効いた。当時のジャズシーンに於いてエレクトリックジャズがフュージョンというコンポージングの退化現象によって、楽曲の力が消え失せると共に、リズムの重層化を放棄し、平坦な直線的リズムに無用なキメを無数に設置する事で、ミニマル的昂揚感を喪失したのはシーン全体の悪しき習慣のようなものであった。70年代にマイルスが提示した複合リズムのマーチ的反復演奏は結局、マイルス独自の方法論として、他へ影響を及ぼさなかった。と言うかあそこまで徹底されたリズムアプローチを採る者は現れなかった(むしろその影響が顕在化するのは90年代以降のアヴァン/ジャムシーンに於いてであろうか)。ウェザーもライフタイムも、マハヴィシュヌもリターントウーフォーエヴァーもヘッドハンターズも実はマイルスには似ていない。彼の門下生はいずれも、リズムによるソングをマイルスほど大胆に全面的に創造する事よりもむしろ、メロディとの妥協的共存によるエンターティメント性を採用した。

メロディに合わせてリズムが追随するような一つの型が象徴するのが当時のジャズ/フュージョンシーンではなかったか。そんな表層テクニカル至上主義めいた演奏が蔓延する中、非=テクニカル系のアルフォスターが創造するリズムの独自性が今となっては際立つ個性と映る。そしてマイルスの吹くテーマや楽曲構成にも70年代の無機質/ノイズ空間とは違う、ソング/ブルースへの回帰をベースにしたモダンな作風への変化が認められ、そんな‘新しい歌’が従来の怒濤系リズムと合体したのが、ニューマイルスのフォーマットの姿であった。『man with the horn』やそれに続く『star people』(82)ではミニマルなビートの上にテーマ、メロを立体的に配置し、70年代のパルス的な細分化されたフレーズの断片のようなテーマではなく、明快で雄弁なメロディーを置く事にこだわりを見せた。そして、そのメロディ=テーマを際立たせたのが、アルフォスターによる反復怒濤のリズムだったのだと思う。アルフォスターのシンプルな反復ビートはうわものの向上感覚を下からプッシュアップする装置だったのだ。

若き日のジョンスコフィールドの変幻自在な奇抜フレーズに酔う。
釣り上げられた魚がビチビチはねるようなギター。この時期の超個性がその後、失われていくのは、やはり、マイルスマジックの成せる業だったのか。いや、訂正しよう。私が言いたいのは最近のジョンスコの創造性の復活にマイルス時代の記憶に対するレスポンスが彼の中に起こったのではないかと想起させる部分が少なくないのだ。マイルスグループ脱退以後のフュージョンへの埋没とその反動からくる4ビートジャズとの気楽な往来はもはや、ギターの第一人者としての職人としての活動であった。私に言わせれば、スコフィールドほどの変態ギタリストはあくまで‘探求者’であって欲しい。そんな資質が失われたのがマイルスグループ脱退後であった。しかし、そんなジョンスコが90年代後半の所属レーベルの移籍以降、メデスキ、マーティン&ウッド等との競演を経て、アヴァン/ジャムバンドシーンへ合流する事で嘗ての創造性が甦るに及び、私はマイルスグループ時代の自由度に対する感覚を再認識した事によるリズム回帰が彼の中に起こったのだと考えている。
果たしてマイルスの創造したリズムアプローチは有効であった。80年代に実践したメロディへの触手とリズムフォーマットのバランス感覚はその後のシーンが失ったものであっただろう。フュージョンに於けるリズムの欠落とジャムシーンに於けるテーマの欠如は表裏一体であり、それはマイルスデイビスの創造性からの後退と映る。

『Live in Poland 1983』はエレクトリックジャズの最高レベルの音楽性を誇る。
しかし、このような音楽を聴くと、いよいよ、それ以前の6年間の空白期の謎が思い起こされるのだが。

「俺はキンキーセックスというやつも楽しんだ」
マイルスデイビスが自叙伝で75年からの6年間に及ぶ沈黙期について公に明かした記述を読んだ時、私は‘なーんだ’と変に納得した。当時、マイルスの隠遁は神秘のベールに包まれ、様々な憶測を呼んでいた。実際、マイルスは公の場に姿を現さず、殆ど引きこもり状態であった事は事実だったのだから。体調のリハビリ、足の治療に専念している。いや、次のバンドに関する準備に没頭している。絵画制作に打ち込んでいる。等々、色んな情報が錯綜し、正確な事は何一つ、伝えられない。ジャズの革新を一人で牽引し、全音楽シーンに多大な影響を与え続けてきたイノヴェイターの長き沈黙は神秘めいた謎を世間にイメージさせ、‘意味ある引退’として流布されていた事を思い出す。しかし、その事実は、音楽から離れ、ドラッグとセックス三昧の日々を自堕落に過ごしているうちに6年もの歳月をいたずらに費やしていたというのがその実相であったのだ。神秘性とは程遠い、悦楽的日常。いや、さすがマイルスデイビス。彼は、やはり、快楽を追求していたのだ。

思えばマイルスの音楽性に一貫して在り続けたエロスという要素。それは永年の音楽スタイルの変遷に係わらず不変の原理として最上位に置かれていたであろう。
エロスは音楽技法によってではなく、人間的資質やライフスタイル、アーティストの言わば、人生そのものがダイレクトに反映される。ビバップ、モード、フリー、エスニック、エレクトリック。時代毎に目まぐるしく変わるマイルスのそのフォーマットの変遷の中で、トランペットの音だけが、変わらず屹立した。‘周り’を変える事は果たしてマイルスの場合、トランペットのボイシングの純化を図る道程であったか。マイルスのトランペットの音の感触だけが不変であった。楽器による発声そのものだったその音は、あらゆる感情表現を内包しながら、それを超え、エロスの宇宙的合体観とでも言うべき、満たされた感覚を表現していた。
マイルスミュージックの神髄。音楽で酔わす。その快楽の奥底へ。

『Live in Poland 1983』で興味深いもう一つの点はこのライブがポーランド、ワルシャワで行われた事であろうか。1983年と言えば、未だ東西冷戦の最中であり、ポーランドを含む東欧はソ連の管理下に置かれる社会主義陣営に与していた。ベルリンの壁崩壊はまだ先であり、ワレサ委員長の連帯が民主化の動きへ向けてソ連への抵抗運動を静かに進行中であった頃だ。私は年表をチェックして納得した。1982年11月に拘束中だったワレサ委員長が釈放され、戒厳令が解除されたのが、12月。なるほど1983年とは東欧での民主化への動きが活発化される第一歩となった年だったのだ。民主化へ大きく梶を切ったポーランドへマイルスがやってきた。それは自由という至高価値の特命大使であったか。はたまた快楽至上主義という西側資本主義の頽廃の象徴としてであったか。

「speak」を幾分、モーダルに演奏し終わった後の観客による「we want miles! we want miles!」の終わらない合唱。すごい。大合唱だ。‘市民’のエネルギーが爆発したかのような正にワルシャワ蜂起。いやいや。しかし、このオーディエンスの歓喜はどうだ。この歓声は自由賛歌への宣言のような圧倒的なこれは観客による‘音楽’だ。抑圧され続けた未知への欲望がマイルスによって開放された。そしてマイルスはもう一度、「speak」を開始する。それもイントロに強烈なブヒョー!という一発をかまして。アンコールは止まない。
ソ連の圧政はロックやジャズを‘資本主義的頽廃’の堕落の形態として長く禁じてきた。マイルスに狂喜したワルシャワの観衆の歓声に自由への渇望が聞こえる。マイルスの快楽至上主義、自由の体現は圧政への抵抗の象徴と映ったかどうか。まあ、当のマイルスはいつもと同じ演奏を自分に向けてやっただけだった。この日も自らの快楽に忙しいだけだっただろう。

『Live in Poland 1983』はマイルス作品の変わらぬ充実度を誇るアルバムだった。そして、音楽とジャケ写真の年代が違うのも毎度の事。このチリ毛かつらは88年あたりだ。83年のマイルスはハゲを隠す帽子姿だっただろ。佐藤孝信のド派手ファッションもまだ着ていない。インナージャケのジョンスコの写真もこれ、83年どころか90年代以降の写真だよな。10年以上開きがあるぞ。マイナーレーベルだからって許される事じゃあないよ。

2009.3.18

コメント
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