満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

『WHEN WE WERE THERE』  藤井郷子4

2007-05-25 | 新規投稿
 
研ぎ澄まされた音が飛び交う空間。
静と動が交錯しながら場面展開を繰り返す物語性。
音が生き物のように現われ出て、消えてゆく。聴く耳を集中せざるを得ない状態に誘い込むような音楽。この引力とための安定感、それに連なる開放的感覚の連続は音楽への感性による参加という概念を想起させるものだ。よく即興演奏は演ってる方こそが楽しいものだという考えを耳にするが、そうとは言いきれない。自己満足的じゃない即興演奏は聴いていて本当に気持ちいい。そして楽しい。しかも自分の未知なる感性が鍛えられていく実感を伴うものとしての意義もあるだろう。

藤井郷子(p)田村夏樹(tp)マークドレッサー(b)ジムブラック(ds)の四人による藤井郷子4は彼女の数あるユニットの中でもメインの活動と言って良いのかもしれない。作曲されたものと即興演奏がブレンドされ、各演奏者の想像力が凝縮される。響きを見届け、音の入口に責任を持つ高い意識の持ち主達。この四人の演奏から私はそんな事を感じる。仮にフリージャズや即興演奏を鑑賞する為の力が必要だとすれば、藤井郷子4はそんな感性の領域を強引にではなく、必然的に開いてくれるだろう。それを可能にするイマジネーションが半端ではない。

ハービーハンコックが最近、「I-podは音楽を聴いた事にならない」と言っていた。私もそう思う。いや、正確に言えばI-podでは聴けない音楽がある。ダイナミクスがふんだんにある音楽だ。静かな音楽やうるさい音楽は聴きやすい。ボリュームレベルを設定し易いから。しかし場面によって音量が激変する音楽(即ちダイナミクスがふんだんにある音楽)は、それが容易ではない。私はI-podは持ってないがアイリバースのデジタルオーディオプレイヤーを愛用している。しかしショスタコーヴィッチ等を聴いていて「これは無理やな」と悟った。音の細部に聴き入る必要がある場面を持つ音楽にこんな装置は基本的に不向きなのだ。しかも急にバカみたいなフルボリュームになる局面あるし。家で聴いている時と違い、ぎょっとしてしまう事があった。もっともハンコックが言ってるのはもっと音楽の作品性、トータルなものとしての扱いがI-podのリスニング環境では軽減されてしまう事への危惧であり、それは実は深刻な問題なのだが、その議論はまたの機会にしたい。

藤井郷子の音楽はダイナミクスの極地である。海底から天上へ。それくらいの振幅がある。これは気軽な装置では充分には楽しめない。気合いを入れて音にこっちから向かって行かねばならない。そこに快楽がある。リズムの豊饒さ。それを自分の体で追いかけてみよう。リフの一つ一つを噛みしめながら自分の頭で反駁してみよう。この音楽、四人のリアルな演奏が自分と一体化するまで。この音楽を我がものにするまで聴き尽くし、演奏のイメージに参加しよう。そんな事を誘発させるような音の世界である。これは最高だ。

嘗てジャコパストリアスは渡辺香津美に「もっとダイナミクスをつけなきゃダメだ」とアドバイスしたらしいが、ああゆう上手い演奏者の音はハイテンションで一本調子が多い。音圧もずっと同じだ。私にとって渡辺香津美はダイナミックをダイナミクスとはき違えているのではないかと感じさせるほど、その演奏はつまらない。ピアノで言えば小曽根真なんかもそうだ。同じタイプだ。
藤井郷子の音楽に感心するのは勿論、その天才的な作曲能力や即興のバランス、音の間なのだが、演奏に貫かれるダイナミクスこそ、やはり際立つ素晴らしさなのである。
深い精神性を感じる。いやそれよりも純粋な職人気質か。心の安定をも感じる。苦悩や不安を内面から表出する負の表現ではなく、むしろ生活での心身の充実からくる音楽表現の喜びを私は彼女の繊細且つ激越な音楽から感じている。

個人的には前作『live in japan 2004』は日本ジャズ史上の傑作だと思っている。あのアルバムは恐ろしい位、凄い音楽だった。同時代の世界のジャズシーンでも際立ったものだっただろう。そして彼女は忙しいミュージシャンだ。この藤井郷子4の他に吉田達也(ds)、早川岳晴(b)を擁した藤井郷子クァルテット(これがまた凄い)に夫、田村夏樹とのデュオ、トリオ。オーケストラも四つ(NY版、東京版、関西版、名古屋版)やっている。毎年、何枚もアルバムをリリースしている。とんでもなく働き者だ。真面目な日本人の典型だ。

私は岐阜のドラマー、近藤君に電話して「藤井郷子ってどんな人?」と訊いた。近藤君は羨ましい事に藤井郷子オーケストラ名古屋版<NAGOYANIAN>の正ドラマーなのだ。
曰く「すごい人ですよ」と。そんな事は解ってる。しかも入手困難な名古屋版CDを送ってくれると言って、ずっと送ってこない。そんな奴だ。まあいいが。

ジャズは回顧のジャンルではない。ジャズライフやスイングジャーナル等の雑誌は古き良きジャズ、名盤を過剰喧伝する商売荷担の企業の片棒を担ぐ騙し屋だ。現在をもっとダイレクトに伝えるべきだ。もうオスカーピーターソンは記事にしなくていい。名人芸はほっていてもファンがいる。それより今を伝えるべきだ。今起こっている動きを直接、感じ、今、在る音を真剣に探し、先端を亜流と見ず、水先案内と捉えるべきだ。それをしないからDJ人種などにジャズをネタにされるのだ。ジョンコルトレーンを聴かないくせにアリスやファラオを‘スピリチュアル’等と言って、倒錯したマイナー探しで悦に入っているあの連中。そんなジャズを取り巻く末期的状況を脱するにはDJ人種からジャズを奪還して、本物を提示するべきだ。藤井郷子のようなアーティストこそジャズ雑誌は大きくページを割いて取り上げなくてはならない。

何の話か解らなくなってしまった。
とにかく藤井郷子。圧倒的に好きである。

2007.5.20

  

コメント
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