満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

『銀巴里セッションJUNE 26,1963』 / 高柳昌行と新世紀音楽研究所

2007-05-22 | 新規投稿
    
 1963年、日本ジャズ勃興期における当時の先鋭ジャズメンによるライブセッション。
相当、古い録音だが、単なる資料的作品に終わらないのは高柳昌行のギターの鋭角な響きと菊地雅章の唸り声のせいであろうか。こんな昔から唸っていたんだな。プーさんは。

新世紀音楽研究所は高柳昌行、金井英人、菊地雅章、富樫雅彦、日野皓正、山下洋輔などが結集した集団だ。今でこそ皆が大物だが、当時はマイナーだった。彼等の表現は世間への認知と芸術表現の純化、先鋭さの闘いだったのだろう。

しかし<新世紀音楽研究所>とはすごいネーミングだ。意気込みと生真面目さが感じられる。そう言えば現代音楽の武満徹や湯浅譲二が初期において活動の拠点にしていたのは滝口修造が命名した芸術集団<実験工房>であった。当時の意識的、開明的な表現者は集団を組織し切磋琢磨、協力する事で、閉塞的状況の打破を試みる事が多かったのだろう。個ではなく団体を組む事で拡がりを図るケースはよくある事だ。後年の<東京ロッカーズ>もまたしかりだろうか。

外来文化が流入した日本でのアーティストが欧米文化の摂取とそこからの脱却を目指す時、国内の土壌、その不毛との対峙がまず、ある。先駆者達はいわばモダニズムの超克を外来先鋭文化を吸収する事で目指す。そして本物に対するコンセプトを微妙にズラしながら、自らのルーツアイデンティティーとのミックス(あるいはカムフラージュ)を志向しオリジナルを完成させるに至る。

日本のフリージャズや即興音楽、ノイズミュージック、或いは暗黒舞踏などが、海外で認知される程のレベルの高さを見せるのは、身体性の万能主義を本来的に持つ欧米ジャズやダンスには敵わないものを精神性に向かう事で補いながら創造できるアナザーウェイを発見できた事によると思う。リズム感で黒人に負けても、観念で勝てばそれなりの表現ができる。そして独自のリズム話法と身体性を獲得すれば、超克も可能だ。
高柳、菊地、富樫、日野達はそれをやったのだと思う。彼等の仲間、渡辺貞夫は渡米中で不在だったという事実もなにかその後の活動の分岐点になっているようにも感じる。

フリージャズではない演奏の高柳昌行を私はここで初めて聴いた。有名な「greensleeves」だ。テーマは割と端正に、ソロはじわじわと逸脱してゆく。しかし私はテーマの弾き方にこそ、後の高柳が見せる爆発的即興演奏の発芽を見る。ダイナミクスがすごい。ンパ!ンパッ!と響く弦の鋭い音。弱く弾くその繊細さとの対比を見せる。ここに後年の彼の音楽に通じるもの、静と動の対比を一貫した持ち味にした独自の即興世界に連なる原初を見る事ができるだろう。

菊地雅章にとって音数とは表現上のテクニックではなく、もはや思想、内的なもののようだ。ここに僅か二十歳すぎのプーさんがいる。若気の至りでもっとガンガン弾くのかと思いきや、もう既に優雅さや風格さえ漂うフレーズの大人びた音を聴かせる。音の間がいい。何故みんな、こうゆう風にピアノを弾かないのか。音数少なく、情熱や優雅を感じさせるのは年の功じゃないみたいだ。マイルスのバラッド「nardis」を究極のリリシズムで表現しながら「ウェイ!ウェイ!ウェ!ウィ!」というカエルのような唸り声を被せる菊地雅章のパンクジャズ。

中古レコード店でたまに見かけていたこのアルバム。高かったから買わなかったのだと思う。いつも気にはなっていた。よって今回のCD再発は嬉しかった。何回も聴かないとは思うが、聴けて良かった。私にとってそんな好作品である。

2007.05.1

  

コメント
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