鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013.6月取材旅行「大麻生~三ヶ尻」 その2

2013-07-08 05:43:03 | Weblog
崋山が桐生新町を出立して大麻生村へと向かったのは天保2年(1831年)の11月7日(旧暦)のこととされる。ではどういうルートを辿ったのだろうか。まず『渡辺崋山集 第2巻』の『訪瓺録』(ほうちょうろく)の解説によれば、深谷を経由して大麻生の名主古沢喜兵衛家まで一日で歩いたと考えられる、とあり、大麻生村到着は11月7日ということになる。また『毛武游記』の解説では、桐生を出発して再び前小屋を渡り三ヶ尻に向かったと思われる、とあり、崋山は、桐生新町→前小屋の渡し(利根川)→深谷→大麻生というルートで三ヶ尻方面に向かったということになります。一方『熊谷市郷土文化会誌 第65号』の「渡辺崋山訪瓺の道すじ」(井上善治郎)によれば、崋山が桐生を出立したのは11月6日で、その日は深谷の旅籠屋土屋万右衛門に泊まり、翌7日一路武州大麻生へと向かったとある。深谷からの道筋は、深谷→中山道→新堀→久保島→大麻生というもの。また『渡辺崋山と(訪瓺録)三ヶ尻』(熊谷市立図書館)の「渡辺崋山の足跡」(馬場國夫)によれば、馬場さんの推測は、7日は深谷に泊まり8日に古沢家に到着したのではないかというもの。さらに馬場さんは8日は新堀の森田家に泊まり、9日に古沢家に到着したという可能性も示されています。ということで、今のところ大麻生村到着の日は確定されていないようですが、そのルートはほぼ確定できる。それは桐生新町→赤岩→藪塚→尾島→前小屋→明戸→深谷→新堀→久保島→大麻生というものであり、前小屋まではすでに前小屋天神社の書画会に赴いた時に歩いたことがあるコースということになります。前小屋からは中山道深谷宿へと入り、そこから大麻生村(古沢家)へと向かったのです。 . . . 本文を読む

2013.6月取材旅行「大麻生~三ヶ尻」 その1

2013-07-07 06:06:50 | Weblog
天保2年(1831年)10月(旧暦)に『毛武游記』の旅に出掛けた崋山の最大の目的は、中山道熊谷宿の近くにある三ヶ尻という土地について調査をすることにありました。この年5月4日(旧暦)、崋山は藩主三宅康直から「御系譜取調」のための「他出勝手次第」という許可を得ており、妹茂登(もと)の嫁ぎ先である桐生新町の岩本茂兵衛宅に滞在しながら交際関係を広げていったのも、その三ヶ尻調査のための手づるを得るためでした。まず崋山に三ヶ尻調査の協力を固く約束してくれたのは足利五十部村(よべむら)代官(丹南藩)の岡田立助(東塢〔とうう〕)でした。その東塢は、崋山を前小屋村天神社の書画会に誘い、そこで崋山は東塢に再会するとともに島村の金井烏洲(うじゅう)と出会います。この烏洲の案内で、書画会の夜、崋山は東塢らとともに高島村の伊丹新左衛門宅に泊まるのですが、その新左衛門の弟唯右衛門(渓斎)が俳諧を嗜む人物でした。この伊丹渓斎(唯右衛門)が崋山に大麻生村の古沢喜兵衛(槐市〔かいち〕)への紹介状を書いてくれたようだ。11月7日(旧暦)、桐生新町の岩本家を出立した崋山は、その紹介状をもって中山道深谷宿経由で大麻生村へと向かい、その古沢槐市から今度は三ヶ尻村の蓮沼忠兵衛や黒田平蔵(観流亭幽鳥)を紹介されます。このような書画や俳諧を仲立ちにした人脈のつながりによって、崋山は三ヶ尻の調査を行うことができたのです。では、なぜ三ヶ尻の調査が必要だったのか。それは藩祖康貞が徳川家康から最初に賜った土地が武州三ヶ尻であったからでした(受領期間は天正18年〔1590年〕の8月から慶長9年〔1604年〕の10月まで)。6月の取材旅行では、大麻生から三ヶ尻までを初めて歩いてみました。以下、その報告です。 . . . 本文を読む

「特別展 江戸時代かながわの旅─『道中記』の世界─」について その最終回

2013-07-03 05:10:38 | Weblog
幕末における庶民の旅というと、歌川広重の『天保十二丑とし卯月、日々の記』に印象深いエピソードがある。それは四月四日のこと。ちなみに「天保十二丑とし」とは、西暦で言えば1841年のことになる。広重は甲州街道の上初狩宿から天神坂を越えて白野宿へと入りますが、そこから「よしが窪」というところで「毒蛇済度の旧地」の石碑を見て、石碑から一丁ほど登ったところにあった百姓勝右衛門という者の家に立ち寄って休息しています。奥から出て来た老婆から広重はその「毒蛇済度の旧地」の碑のいわれを聞きました。その老婆は年の頃77、8と高齢にも関わらず、話を聞いてみると、昨年信州善光寺を参詣してから江戸に出て江戸見物をし、それから江の島、鎌倉、大山と回って帰ってきたのだという。しかも驚いたことに一人で出掛けて帰ってきたとのこと。この日、広重が泊まったところは黒野田宿。白野宿と黒野田宿の間にある山奥の百姓家(勝右衛門家)にたまたま立ち寄ったところが、そこの高齢の老婆が昨年(天保11年)一人で大旅行をしていることを広重は知り、わざわざ日記に書き留めたのです。最低でも10日はかかる旅ではなかったか。それを高齢の女性がたった一人で歩いて旅している。善光寺を参詣してからわざわざ江戸に出て、それから江の島・鎌倉などを回って大山詣をしているというのが面白い。普通なら女性の親しい仲間とともに行くのだろうが、この老婆はたった一人で出掛けています。その健脚やおそるべし。また当時、高齢女性の長期の一人旅でも安心・安全であったということでもある。彼女を、その一人旅に駆り立てたものはいったい何であったのか。そういう興味・関心をも感じさせるエピソードです。 . . . 本文を読む

「特別展 江戸時代かながわの旅─『道中記』の世界─」について その4

2013-07-02 05:02:40 | Weblog
『百姓たちの江戸時代』渡辺尚志(ちくまプリマー新書/筑摩書房)という本があり、その第四章「百姓の育ち・学び・遊び」で一人の少年が登場してきます。名前は藤乗節之佐(とうじょうせつのすけ)。文政6年(1823年)に上総国長柄(ながら)郡本小轡(ほんこぐつわ)村に生まれています。この藤乗家には、今も、節之佐が幼少時に使った手習いの教科書が数十点残されているという。その教科書類で興味がひかれるのは、『洛陽往来』『隅田川往来』『松島往来』『江戸方角』などの往来物や地理書が含まれていること。『洛陽往来』は京都周辺の名所を書き連ねたもの、『隅田川往来』は隅田川とその周辺の名所について記したもの、『松島往来』は、松島をはじめ日光や東北各地の情景を記した紀行文、『江戸方角』は、日比谷・八丁堀・新橋などの江戸の地名や寺社名を列挙したもの。彼の父勘解由(かげゆ)は本小轡村で寺小屋の師匠もしており、他の子どもたちも同様な教科書を使っていたのかも知れない。これら少年時に寺子屋で学んだ往来物や紀行文、地理書などによって、子どもたちの地理感覚は養われていったものと思われる。特に江戸および江戸周辺の地理や名所については、江戸地廻り経済圏内にあるということもあって子どもたちの関心は深く、いつかは行ってみたいところであった(まわりには行ったことがある大人たちがたくさんいた)に違いありません。ではどうしたらてっとり早く行けるか。それはたとえば地元の「大山講」に入って少額のお金を積み立て「代参講」をすることでした。それにより江戸→大山→藤沢→江の島→鎌倉→金沢八景という順序で、寺社参詣や名所見学をすることができたのです。 . . . 本文を読む

「特別展 江戸時代かながわの旅─『道中記』の世界─」について その3

2013-07-01 04:57:39 | Weblog
展示資料およびその解説で興味・関心を持ったこと。「東海道分間絵図」で菱川師宣が街道風景を描いていること。初版は元禄3年(1690年)であるとのこと。「東海道名所記」という仮名草子。作者は浅井了意で、二人連れの滑稽道中記。「東海道中膝栗毛」に先行するもの。「江戸名所図会」は言わずもがな。広重も大きくその影響を受けている。「玉蘭亭写真五十三次勝景」。作者は「空飛ぶ絵師」五雲亭貞秀。お得意の鳥瞰図による東海道行程図」。四冊で総計は30mを超すという。「名勝八景大山夜雨」。歌川国芳や五雲亭貞秀らによって描かれたもの。大山は広重や歌川国芳、五雲亭貞秀らによってよく描かれる。彼らは大山に登ったのではないか。広重による「金沢八景」の肉筆画。嘉永6年(1853年─ペリー艦隊来航の年)の秋に能見堂で描かれたもの。能見堂や野島を中心に金沢の勝景が、浮世絵よりもよりリアルに描かれていて、当時における能見堂付近からの眺望がどのようなものであったかがよくわかる作品。現在の眺望とはまるで違うことに愕然とします。 . . . 本文を読む