鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013.6月取材旅行「大麻生~三ヶ尻」 その9

2013-07-17 05:45:26 | Weblog
大麻生村中郷の古沢喜兵衛(槐市)宅から三ヶ尻村観音山の龍泉寺まで歩いておよそ30分。途中、武体(ぶたい)村や宮島を経由し、奈良堰を小橋で渡れば、そこが三ヶ尻村の上宿でした。現在は国道140号線や国道140号線のバイパスが東西に走っていて、それに沿って人家なども建ち並んでいますが、かつてはいくつかの集落が点在するだけであとは一面の田んぼや畑地の広がりではなかったか。崋山は大麻生村から三ヶ尻村まで、田んぼの中の一本道のようなところを、三ヶ尻観音山を目当てに歩いたものと思われる。崋山が初めて三ヶ尻村の黒田平蔵(幽鳥)宅を訪れた時は、古沢喜兵衛(槐市)が道案内したのではないか。上宿からさらに西へと進めば龍泉寺のある観音山の麓に至り、上宿から東へと進めば中宿を経て下宿へと至り、その道をずっと進んで行けば熊谷宿に至ります。上宿から北へと道をとれば深谷宿へと至る深谷道が延びています。三ヶ尻観音山は「狭山」または「沙山」とも呼ばれていたらしい。その観音山の南を東西に走る小道を西へと進めば「狭山ヶ池」という池もありました。それらのことがわかるのが「瓺尻全図」。ただし嶋野義智さんによれば、この絵図の「下宿」と「上宿」の位置は反対であるらしい。本来は三ヶ尻の「上宿」は秩父寄りであり、「下宿」は熊谷寄りであるというのです。「中宿」には「三宅屋敷」跡があり、その「堀ノ内」には「笠原清七宅」があって、崋山は幸安寺住職・黒田平蔵・下宿の岩次郎・高木梧庵とともに、その笠原清七宅を訪れています。それがわかるのが「三宅屋敷堀ノ内笠原清七宅」の絵図です。 . . . 本文を読む