鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013.6月取材旅行「大麻生~三ヶ尻」 その5

2013-07-11 05:34:11 | Weblog
『新編武蔵風土記稿』によれば、文化文政期において、幡羅郡三か尻村は、広さは東西30町、南北16町。人家300軒。小名として、上宿・中宿・下宿・横町・宮島・馬場・久保・小屋・上野・清水・森・林がありました。また『熊谷市郷土文化会誌』第63号の「渡辺崋山と毛武のこと細見」(井上善治郎)によれば、崋山来訪時、三ヶ尻村に領地を持っていたのは次の7人の領主でした。黒田豊前守(279石)・林大学頭(2石)・夏目日向守(1石5斗)・天野亀吉(427石)・小栗忠一郎(240石)・鈴木金之丞(100石)・小栗庄右衛門(290石)。「7人の領主で石高1339石余」の「旗本領の相給(あいきゅう)」でした。7人もの領主が支配する領地の入り混じっていた村であったということになります。しかも人家は300軒ほど。『やさしい熊谷の歴史』(中島迪武)によれば、太古の昔、荒川は三ヶ尻観音山近くを流れており、「三尻村から二町たらず」の近さにあったという。養蚕・野菜・果物・西瓜・瓺尻茆(みしりぬなわ)・木綿織物・絹織物などが特産であったらしく、また鮎が美味であったという。その鮎は近くを流れる荒川で獲れたものであったでしょう。 . . . 本文を読む