台地の下の平地部においては荒川から引水した用水路が流れていて、集落の人々の生活用水や田畑の灌漑用水として利用されていたことがわかりましたが、では台地の上の集落の場合はどうだったのだろうかという疑問が湧いてきました。また用水路が引かれる以前においては生活用水はどうしていたのだろうかという疑問。台地上においてはまず飲用水が得られやすいところに人々は居住し始めたはずです。沢があったり湧き水があったりするようなところです。「奈良堰」は慶長年間(1600年前後)に、関東郡代伊奈忠次によって開削された用水路であるから、それ以前においては生活用水や灌漑用水はどのように手に入れていたのだろうかという疑問。そのことを考える上で参考になるのが崋山の描く「清水井」の絵(P110~111)。崋山は「清水」について次のように記しています。「清水ハ馬場ト壌ヲ接シ、南上野二連(つらな)ル 上祖ノヲハシマセシ時ヨリ清水湧出デ、旱魃ノ時モ涸ルヽコトナシ。屋敷ノ溝水ハ此ヨリ引シトゾ。…清水ハ今井戸トナシ林間ニ残リ、土人ノ用ヲ為セリ。」つまり旱魃でも涸れることのない湧き水があって、「藩祖康貞公の屋敷(三宅屋敷)の生活用水はその湧き水を引いて手に入れていたらしい」という土地の人の話を崋山は書き留めているのです。絵を見ると中央に四角い木枠があって、桶を持ってきた村の女性が、井戸の中の水を柄杓状のもので汲み上げています。これが林間に残っている「清水井」(湧き水)であり、そのような湧き水のあるところや沢水が得られるところに人々はまず住みついていって、集落が生まれていったのです。 . . . 本文を読む