鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013.6月取材旅行「大麻生~三ヶ尻」 その最終回

2013-07-23 05:38:31 | Weblog
三ヶ尻には延喜式内社が二つあるという。一つは三ヶ尻八幡社であり、もう一つは田中神社。この延喜式内社二つを崋山は絵図として描いています。それが『渡辺崋山集 第2巻』P96~97の「田中神社」であり、P98~99の「八幡社」。その位置もP82~83の「瓺尻全図」でわかります。「田中神社」は「延命寺」のやや南の水田の中に鎮座し、「八幡社」は「運派ツカ」や「三宅屋敷」跡の北側に位置しています。現在その「八幡社」の南側には三尻小学校があり、その東側には三尻公民館、道路隔てた向こう側(北側)には三尻中学校があります。「田中神社」は現在の国道140号線バイパスの「武体西」(ぶたいにし)交差点の近くに位置しています。中島廸武さんの『やさしい熊谷の歴史』によれば、田中神社の祭神は武甕槌命(たけみかづちのみこと)や建甕尻命(たけみかじりのみこと)などであり、もとは古墳上に祭られた神社であったという。『延喜式』に記載されている古社として、崋山も注目した神社であったと思われる。『平成14年度熊谷市埋蔵文化財調査報告書 三ヶ尻遺跡Ⅲ』(埼玉県熊谷市教育委員会)によれば、三ヶ尻遺跡というのは、荒川左岸櫛挽台地の東縁辺部に位置する、東西約900m、南北約650mに広がる遺跡であり、三ヶ尻古墳群には100基以上の古墳があったという(現在でも61基の所在が確認されるとのこと)。三ヶ尻遺跡は縄文時代前期から中・近世にかけての集落跡および墓地群が検出されるところであり、縄文の太古から人々が住み続けてきた場所であることがわかります。 . . . 本文を読む