幕末における庶民の旅というと、歌川広重の『天保十二丑とし卯月、日々の記』に印象深いエピソードがある。それは四月四日のこと。ちなみに「天保十二丑とし」とは、西暦で言えば1841年のことになる。広重は甲州街道の上初狩宿から天神坂を越えて白野宿へと入りますが、そこから「よしが窪」というところで「毒蛇済度の旧地」の石碑を見て、石碑から一丁ほど登ったところにあった百姓勝右衛門という者の家に立ち寄って休息しています。奥から出て来た老婆から広重はその「毒蛇済度の旧地」の碑のいわれを聞きました。その老婆は年の頃77、8と高齢にも関わらず、話を聞いてみると、昨年信州善光寺を参詣してから江戸に出て江戸見物をし、それから江の島、鎌倉、大山と回って帰ってきたのだという。しかも驚いたことに一人で出掛けて帰ってきたとのこと。この日、広重が泊まったところは黒野田宿。白野宿と黒野田宿の間にある山奥の百姓家(勝右衛門家)にたまたま立ち寄ったところが、そこの高齢の老婆が昨年(天保11年)一人で大旅行をしていることを広重は知り、わざわざ日記に書き留めたのです。最低でも10日はかかる旅ではなかったか。それを高齢の女性がたった一人で歩いて旅している。善光寺を参詣してからわざわざ江戸に出て、それから江の島・鎌倉などを回って大山詣をしているというのが面白い。普通なら女性の親しい仲間とともに行くのだろうが、この老婆はたった一人で出掛けています。その健脚やおそるべし。また当時、高齢女性の長期の一人旅でも安心・安全であったということでもある。彼女を、その一人旅に駆り立てたものはいったい何であったのか。そういう興味・関心をも感じさせるエピソードです。 . . . 本文を読む