鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2007.3月の「東海道品川宿」取材旅行 その1

2007-03-18 14:15:17 | Weblog
 六郷土手駅で、品川までの駅を確認。雑色(ぞうしき)→京急蒲田→梅屋敷→大森町→平和島→大森海岸→立会川(たちあいがわ)→鮫洲(さめず)→青物横丁→新馬場→北品川→品川となります。駅12個分を歩くことになります。ちなみに、品川駅より先は、泉岳寺→三田→大門→新橋→東銀座→宝町→日本橋。京浜急行は、大体が東海道に沿って走っていることになります。
 
 駅の数にやや怖気(おじけ)づきましたが、駅前商店街にあるうどん屋さんで、熱々の天ぷらうどん(生卵が付いている)を食べて体を温め、意を決して歩き始めました。
 といっても、日々のウォーキングのおかげで足取りは軽く、「取材旅行に何より大事なのはやっぱり健康であり、丈夫な足腰である」ことを再確認。

 第一京浜はいつものことながら車通りが激しい。上り線の道路標識には「日本橋・品川」とあります。日蓮宗観乗寺の前を通り、回転寿司「魚敬」のところで第一京浜を渡って進むと、右手に六郷神社の参道が伸びています。鳥居右前に「六郷神社由緒」が記された案内があり、それによると、六郷神社は、六郷一円の総鎮守。慶長5年(1600年)に六郷大橋が竣功した際には、徳川家康が、その神威をたたえて祝文をたてまつり、六郷神社の神輿(みこし)をもって、渡初式を挙げたとのこと。
 この六郷神社は、江戸時代には「六郷八幡宮」とも呼ばれていたそうですが、明治9年(1876年)より「六郷神社」と改称して今に至っているとのこと。
 天保7年(1836年)に刊行された『江戸名所図会』に描かれた六郷八幡宮の絵によれば、脇参道の鳥居やや南寄りに一里塚(日本橋から四里)と、その前に高札場がありました。神社の周囲は一面の水田になっています。

 参道を進むと、突き当たりに社務所が見え、その屋根の向こうに「大田区立六郷図書館」の文字が見えます。

 境内に入ると、さすが六郷の総鎮守だけあってかなり立派な神社。
 忠魂碑があり、その文字は「元帥伯爵 東郷平八郎」が書いたものでした。その裏面を見ると、明治27、8年戦役戦病死者3名、明治37、8年戦役戦病死者6名の名前が刻まれていました。帝国在郷軍人会六郷村分会が、大正14年(1925年)7月に建立したもの。

 境内には、ユーモラスな造りの狛犬一対(大田区文化財)も。

 本殿は、享保4年(1719年)建立の三間社(さんげんしゃ)流れ造り。

 脇参道を東海道に戻ると、鳥居の手前左側に「東海道跡」の碑があるのに気付きました。それには、

 六郷は東海道における江戸の出入口で、多摩川をわたる「六郷の渡(わたし)」として活気があり有名でした

 とありました。

 付属の六郷幼稚園では、午前10時より第四十一回卒業式があるとのことで、紅白の幕が入口やグランドの周囲に張り巡らされていました。

 幼稚園と隣の六郷小学校の間は、かつて「六郷用水」が流れていたそうで、小さな案内パネル(「六郷用水物語」)がありました。それによれば、六郷用水は、六郷領の灌漑を目的として、江戸時代初期に幕府代官小泉次太夫により開削された農業用水だったとのことですが、現在は埋め立てられ細道になっています。

 六郷図書館の公園内に「六郷の渡」のガイドがありましたが、有名な安藤広重の「六郷の渡」の絵は、八幡塚村から対岸の川崎宿に渡る渡舟の様子を描いたものだそうです。
 ちなみに、図書館前の道は古い東海道(いわゆる「東海道」の前の東海道)であり、古老たちからは「古街道(ふるかいどう)」と呼ばれていたとのこと。思わぬ発見でした。

 古い東海道(「古東海道」)というと、昨年10月(25日)に歩いた綾瀬市の小園(こぞの)を思い出します。「お伊勢宮」に向かって斜めに登る幅1メートルほどの道でしたが、あの道とこの図書館前の道が通じていたわけです。

 東海道(第一京浜)に戻り、東京都立六郷工科高等学校の前を通過。おそらく、東海道は田んぼの中の一本道だったのでしょう。目ぼしいものは何もない。

 やがて左にモダンな蒲田消防署、右にテクノポートカマタ。

 9:05に、環八通りを渡り、京急蒲田駅前に。
 蒲田駅付近は、「京急蒲田駅付近連続立体交差事業」が進捗(しんちょく)中で、さらに京急高架化工事も行われていて、殺風景で乱雑としていました。

 さらに進むと大田区体育館の通りを隔てた向かい側に、梅屋敷公園がありました。「梅屋敷と和中散(わちゅうさん)売薬所跡」と記されたガイドパネルによると、「和中散」という薬は、食あたり、暑気あたり等に効き、道中常備薬として旅人に珍重されたとのこと。かつては大森村南原にあった店が、後に北蒲田村の忠左衛門に譲られ、この地に移転。文政年間(1818~1830)の初め、忠左衛門の子の久三郎の代に、庭園に梅の名木を集めて休み茶屋を開きましたが、亀戸(かめいど)の梅村とともに梅の名所「梅屋敷」として有名になり、広重の浮世絵にも描かれるほどになりました。

 公園内には、「距日本橋三里十八丁 蒲田村山本屋」と刻まれた里程標の復元碑がありました。

 「大田区立聖蹟蒲田梅屋敷公園」と、「「聖蹟」とあるのは、明治元年(1868年)に、明治天皇が江戸に向かう時、ここに立ち寄った(行在所〔あんざいしょ〕)から。
「明治天皇行在所蒲田梅屋敷」の碑が通りに面してありました。

 左手に、江戸時代、大森村のうち東海道に面した本宿の鎮守であった「貴舩(きふね)神社」などがありますが、この辺りは、東海道の「痕跡」を探るという感じ。

 大森警察署前で第一京浜を渡ると、道幅の狭い旧東海道に入ります。
 左手に「旧東海道」の小さな碑があり、そこには、

 旧東海道の景観は著(いちじる)しく変ぼうしたが、往時の幅員を比較的残しているのは、本区ではこの付近九00メートルと六郷地区の一部だけになった

 とありました。

 傍らに石の腰掛が2つあり、座面に東海道にまつわる絵が描かれています。以後しばらく、多くの街路樹の下に腰掛石があり、その中には座面に東海道にまつわる絵が描かれているものがあって、休息も出来るし、絵が描かれている腰掛石を探すという楽しみも味わえます。

 内川に架かる内川橋を渡った左手に古そうな洋館。「バーバーいわき」の看板は消えかかっており、店は閉じて久しいように思われました。

 ここからは「ミハラ通り。「祝 浅草海苔のふる里 大森ふるさとの浜辺公園 平成十九年四月開園 ミハラ南商店振興組合」と書かれた旗が並んでいました。

 左手に、「創業享保元年 餅甚」という和菓子屋。享保元年というと1716年。今から290年前になりますから大変な老舗(しにせ)です。「大森名物あべ川餅」「さくら餅」「草餅」などが売られているようで、中に入ると、左側の壁に、「広重の東海道五十三次」のうち「品川」の絵と「京師」の絵が2枚並び、店の奥からはズシンズシンと規則正しい音が聞こえてきます。

 「さくらまんじゅう」(120円)と「さくら餅」(130円)を買い、店先で食べました。どちらも塩味と甘味が微妙に調和し、食べた後に唇の上をなめると塩辛い味がします。餅を食べた指も塩辛い。桜葉のやや強めの塩味が効いて、なかなか美味で印象に残りました。通りの腰掛石に座って、通り界隈を眺めながら食べるといいかも知れない。

 「奥からの音は何ですか」
 「あべ川餅を臼で打っているんですよ」
 「もう出来上がるんですか」
 「もうしばらくです」

 朝搗(つ)いた餅をひとつずつ手で丸めてきな粉をまぶしたものに、秘伝の黒蜜をつけて食べるのです。

 評判の味のようですが、搗いている最中なので、後ろ髪を引かれる思いで店を出ました(10:09)。

 左に「三浦屋提灯店」、右に「ねじの専門店 鈴徳」とタイムスリップしたようなたたずまいの店。

 環七通りに出る手前左には、「海苔とお茶の松尾 創業300年」の看板。これも大変な老舗。

 先にも触れましたが、この「ミハラ通り」には街路樹の下に腰掛石があり、その中には座面に東海道にまつわる絵が描かれているものがあるのですが、それがなかなか興味深い。海苔取り・駕籠かき・麦わら細工屋・釣り船・藁細工のかえる・海から差し上ってくる朝陽…などといった絵柄。こういうちょっとした工夫のしてあるところが面白い。

 右手に「高松屋自転車商会」。映画『三丁目の夕日』に出て来たようなお店。もっとも映画では自動車修理の店でしたが。今はやりの「昭和30年代」を髣髴(ほうふつ)とさせるような店構え。昭和30年代に少年時代を過ごした私としてはとても懐かしい。

 大田区立大森スポーツセンターの前に「旧東海道三原通り 至六郷 至品川」の碑。

 第一京浜に再び合流してしばらく進んで右手に折れると、「平和の森公園・平和島公園」。大田区の「区の花」は梅。「区の木」はクスノキ。「平和の森公園」に入ると、てっぺんに、赤ちゃんを左肩に乗せた母親の像(「愛〈いと〉し子像」)が立つ「平和都市宣言」塔がありました。噴水の音を背に、宣言文を取材ノートに写しました。

 平和って なあに
 しあわせな ことよ
 しあわせって なあに
 自由で楽しいくらしが できること
 だから 世界中の人と 力をあわせて
 大切な平和を守らなければいけないの
 地球上どこへ行っても 笑顔があるように…

  この人類共通の願いをこめて
  大田区は 平和憲法を擁護し
  核兵器のない平和都市であることを宣言する

           昭和五十九年八月十五日 大田区

 第一京浜に戻り、水道局大田北営業所で横断歩道を渡ると、「ロイヤル・ホスト」の隣に磐井(いわい)神社。徳川将軍も参詣したことがある古社であるらしい。
 社内には、「鈴石」や「烏石(からすいし)」があり(非公開とのこと)、その「鈴石」が「鈴ヶ森」の地名の由来になったとのこと。

 京急の大森海岸駅前の辺りで「日本橋12km 品川4km」。横断歩道橋で第一京浜を左手に渡ります。道路の両側はマンションが建ち並んでいます。

 「しながわ水族館入口」前を過ぎると、やがて左手前方に「東京都史蹟鈴ヶ森刑場遺跡」の案内板が見えてきました。

 場違いな一種異様な空間。

 そこには、馬頭観世音・大震火災殃死(おうし)者供養塔・六十六部供養塔・金網が張られた首洗の井・鈴ケ森刑場受刑者之墓・磔(はりつけ)台・火炙(ひあぶり)台・水難供養塔・髭題目の石碑などがびっしりと置かれ、それぞれにきれいな供花が置かれていました。
 
 「都旧跡鈴ケ森遺跡」の碑の前のガイドパネルには、

 慶安四年(1651)に開設された御仕置(おしおき)場。規模は元禄八年(1695)に実施された検地では、間口40間(74メートル)、奥行9間(16.2メートル)。処刑された有名な者は、丸橋忠弥・天一坊・白井権八(正しくは平井権八)・八百屋お七・白木屋お駒。江戸刑制史上、小塚原とともに重要な遺跡。

 などといったことが記されていました。

 印象に残ったのは、磔台とその右隣の火炙台。磔台は四角の石で真ん中に四角い穴。火炙石はまん丸く真ん中に丸い穴。それぞれ次のような説明文がありました。

 磔台 丸橋忠弥を初め罪人がこの台の上で処刑された。真中の穴に丈余の角柱が立てられ、その上部に縛りつけて刺殺したのである。

 火炙台 八百屋お七を初め火炙の処刑者は皆、この石上で生きたまま焼き殺された。真中の穴に鉄柱を立て、足下に薪を積み、縛りつけて処刑されたのである。

 この遺跡は、現在、鈴森山大経寺が管理しているようです。

 この遺跡の右手の通りが旧東海道。

 右に鈴ヶ森中学校。電柱に、黄色く「旧東海道」の文字。この案内は以後しばらく続きます。

 やがて「しながわ区民公園 中央口」(右手)。先の水族館につながっているのです。 
 左右に古い人家。

 信号のある横断歩道を渡ると、右手の街灯に

 「若き日の龍馬がゆく 〔その下に3本マストの外輪蒸気船の絵〕 鮫洲屋敷 はまかわ砲台」

 と白く染め抜かれた紺色の旗。その旗は、ここばかりでなく、後に触れる京急立会川(たちあいがわ)駅前商店街などにも見られました。

 いきなり、坂本龍馬。

 「はまかわ砲台」で思い出したのは、土佐藩の砲術家徳弘孝蔵(1807~1881)のことです。昨年12月1日のこのブログで触れましたが、徳弘孝蔵は、嘉永6年(1853年)のペリー艦隊浦賀沖来航の際、「異国船御手宛御用」として、江戸湾警衛のため江戸に出張。土佐藩が品川に造った砲台の設計をしたのですが、その砲台が「浜川砲台」でした。この砲台が完成したのは嘉永7年(1854年)2月。
 
 このブログ、昨年11月19日にも「浜川砲台」は出てきます。浜川砲台の造営が開始されたのは嘉永7年(1854年)1月21日。足軽ら70人が動員され、29日に大砲の備え付けが終了。2月に入ってほぼ完成を見ていますから、かなりの突貫工事でした。

 そしてこの浜川砲台における警備に、龍馬は参加しているのです。といってもおそらく10日前後のことですが。

 品川には土佐藩の下屋敷があり、そこには多数の藩士が召集されて警備に当たっていました。その中に龍馬もいたはずです。嘉永6年(1853年)の後半と同7年(1854年)の初め、数えで19歳と20歳の龍馬は、確かにこの辺りに出没していたのです。

 この地の鎮守「天祖神社」や「諏訪神社」、「伏見仲町 稲荷神社」、立会川筋、立会川に架かる浜川橋、鮫洲(さめず)の「八幡神社」など、龍馬が着流し姿で散歩したのでは、と思いつつ見て歩いてみると、また特別の感慨があるのではないでしょうか。

 浜川橋を渡って、やがて左に折れると、そこは京急立会川駅に続く賑やかな商店街。
 駅前の小さな広場に、左ふところに右手を入れた有名な龍馬の立ち姿の像がありました。2004年の11月13日に高知市が寄贈したもの。戻る途中、大村庵では「砲台そば」があり、「若き日の坂本龍馬はペリー艦隊を迎え撃つため、ご当地、土佐藩浜川砲台で警備をしていた」とありました。また「11月15日誕生日 龍馬カリー」との看板が出て、入口に龍馬の肖像写真が描かれたお店もありました。そのお店には「復活!! 日本最初のビール 品川縣ビール 幸せな出会い乾杯 日本最古の酵母」と書かれた幟(のぼり)も掲げられていました。

 東海道沿いの鮫洲商店街にはところどころ古い家が見られます。右手の「松本レジン株式会社」や東大井町1-17-4などの家がそう。

 信号のある横断歩道を渡って左へ折れ、第一京浜を渡って海晏(かいあん)寺へ。
 石段を上がった高台に松平慶永(春嶽)の墓所があるのですが、鉄の門扉に鍵がかかっていて立ち入ることは出来ないようになっています。隣の墓地からのぞくと、石の鳥居が立つ広い墓所があり、そこを春嶽の墓所と推測して石段を下りました。ここには、寺の由緒などを記したガイドパネルなど、なぜか全く見当たりません。他の寺とは格が違うということでしょうか。

 近くに山内容堂(豊信)の墓所もあるようですが、そこも同様だろうと考えて、足を向けることを止めました。

 第一京浜を渡って、もとの東海道に戻ると、両側に歩道域がある通りになりました。街灯に「青物横丁商店街 東海道品川宿」の標示。

 さて、いよいよこれからが品川宿になります。

 雲間から陽も差してきて、取材日和になってきました。

 
 というところで、続きは次回以後とします。

 では、また。

○参考文献

・『明治・大正・昭和をめぐる東京散歩』(成美堂出版)
・『東京都の歴史散歩』東京都歴史教育研究会(山川出版社)
・『「東海道」読本』(川崎市市民ミュージアム)


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1 コメント

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俺の子 はーちゃん さんへ (鮎川俊介)
2007-03-18 16:40:33
読んでいて、もう十数年前、初めての子ども(息子)と2番目の子ども(娘)が生まれた時のことを思い出しました。2人とも藤沢の湘南台のF産婦人科で生まれました。
生まれたばかりの娘と、その傍らに立ってこちらを見ている息子の写真(亡くなった母が大事にしていました)が仏壇に飾ってあります。生まれる前、生まれた時、生まれた後、まったく同じような気持ちだったなあ、と思いを新たにしました。「自分のように寂しい思いをさせたくはない」という思いが、行間から伝わってきます。子どもの幼い日々はあっという間に過ぎていきます。一日一日を大切に、いろんな思い出をたくさんつくってあげて下さい。というか、それらを子どもからいっぱいもらってしまうといった方が適切かも知れない。そのためには、やはり愛情をもって関わっていくことが大事だと思います。これからも楽しみに読ませてもらいます。

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