鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

長崎の済美館学頭・平井義十郎について その2

2007-03-11 06:15:23 | Weblog
 「済美館」の前身をずっとたどっていくと、安政5年(1858年)7月、館山町の長崎奉行所内、岩原屋敷の長崎奉行支配組頭永持亨次郎(ながもちこうじろう)の官舎に設けられた「英語伝習所」に行き着きます。
 その頭取(とうどり)となったのは、オランダ通詞の楢林(ならばやし)栄左衛門と西吉十郎。
 オランダ人のウィッヘルスとデ・フォーゲル、イギリス人のフレッチェルが教鞭をとりましたが、ここではフランス語は教えられてはいません。

この「英語伝習所」は文久2年(1862年)に、片淵町の組屋敷である「乃武館(ないぶかん)」に移って「英語稽古所」と名を改め、翌文久3年(1863年)には江戸町に移転して「洋学所」と改称しました。学頭には、唐通詞(通事)の平井義十郎と何(が)礼之助(あやのすけ)が任命されました。何は英語、義十郎はフランス語の初歩を教えました。
 
 そして元治元年(1864年)、大村町に「語学所」が設けられ、そこでは英語・ロシア語、さらにフランス語が教えられました。

 この大村町の「語学所」が、慶応元年(1865年)の8月に、新町の旧長州藩蔵屋敷に移り(幕府によって没収された屋敷が利用される)、「済美館(せいびかん)」と改称され、そこでは英語・フランス語・ロシア語・ドイツ語・清国語(中国語)のほか、世界史・地理・算術・物理・化学・天文・経済などの諸科学が教授されることとなりました。

 ここで英語を教授した外国人は、オランダ生まれのアメリカ人宣教師フルベッキ。フルベッキは、すでに「語学所」において英語を教えていました。
 元冶元年(1864年)6月、時の長崎奉行服部長門守常純は、長崎のアメリカ領事ジョン・G・ウォルシュに、フルベッキの「語学所」の英語教師就任を依頼しています。
 ウォルシュからその話を聞いたフルベッキは、長崎奉行の申し入れを快諾。年俸は1200ドル(1ドル=1両)という大変な高給でした。

 「語学所」において、フルベッキは一週間のうち、土・日以外は毎日出勤し、午前9時から11時までの2時間を教えました(ドイツ語も担当していたらしい)。フルベッキは上級生を受け持ち、初級生は何礼之助や柴田大介が受け持ちました。
 生徒は長崎や九州ばかりでなく、遠く北陸の加賀藩や福井藩などからも藩派遣留学生として100名余が集まり、その中には、後にフルベッキと深い関係になる佐賀藩の大隈八太郎(重信)などもいました。

 「済美館」の教師は、英語がこのフルベッキと、何礼之助、それに柴田大介。

 そしてフランス語が、平井義十郎と志筑(しつき)龍三郎、それにフランス人宣教師のベルナール・タデ・プティジャンとフィーゲでした。 

 土佐の高知から藩派遣の留学生として長崎にやってきた中江兆民(篤助)が、この平井・志筑・プティジャンらからフランス語を学んでいるのは確実です。

 さて、このフランス人宣教師プティジャンのことになりますが、この人は日本キリスト教史(幕末・明治初期)において極めて重要な人物なのですが、吉川弘文館の『日本近現代人名辞典』には名前が出てきません。

 この人物について詳しい記述があるのは、『日本キリスト教復活史』フランシスク・マルナス/久野桂一郎訳(みすず書房)。

 この本の冒頭の写真の中に、プティジャンの肖像写真が掲載されています。額(ひたい)がいたって広く、耳から顎(あご)にかけて濃く長い髭がふさふさと伸びています。目鼻立ちは、いわゆる「彫りが深い」という感じ。この写真では鋭い眼をしています。黒い衣服(宣教師としての衣服でしょう)を着て、首からは大きな十字架を垂らし、左手は聖書に触れています。

 この本の著者フランシスク・マルナスは、1859年にフランスのリヨンで生まれ、リヨン大学神学部で哲学を、ローマで神学を学び、1881年にリヨンで司祭となりました。マルナスは日本に深い興味を持ち、1889年・1892年・1908年の3回来日し、滞日は通算数年に及び、第2回の滞日中に大阪の名誉司教総代理に任命され、1921年にクレルモン・フェランの司教となり、1932年に亡くなったということです。
 
 この本に目を通すと、マルナスがいかに膨大な資料にあたったかがよくわかり、その探究心に一驚させられます。

 内容の詳細については、また別の機会にすることにして、「済美館」に関係するところを中心にまとめてみます。

 プティジャンは、宣教師として1860年10月26日(西暦)に、琉球国那覇に到着しています。プティジャンが同じく宣教師のフュウレとともにデュプレックス号で那覇から横浜に到着したのは、1862年の夏頃。プティジャンは琉球国那覇に2年近く滞在していたことになります。

 1863年1月22日(西暦)にフュウレが横浜から長崎に来着。フュウレは長崎フランス領事レオン・デュリーの住まう長崎の寺院に入ります。そしてこの年8月初めに、プティジャンがモンジュ号で横浜から長崎に到着します。

 1865年1月1日(和暦では、元冶元年12月4日)、プティジャンはフランス領事デュリーに招かれ、そこで長崎奉行服部長門守常純に会い、奉行の要請に応じて、大村町の「語学所」でフランス語を教えることを承諾。
 彼の授業は、1月6日(和暦12月9日)より開始されます。
 彼のフランス語の教授を受ける生徒はおよそ20名でした。

 大浦の天主堂の落成式は、この年2月19日(和暦1月24日)に、プティジャンとローカニュ(宣教師)らが出席して、盛大に行われました。

 大村町の「語学所」が新町の旧長州藩蔵屋敷に移転して「済美館」になっても、プティジャンはフランス語の授業を継続しています。

 そしてその「済美館」に、慶応元年(1865年)10月、土佐の高知からやって来た中江兆民(篤助)が入学し、プティジャンからフランス語を学ぶことになるのです。

 このプティジャンから「済美館」でフランス語を学んだもう一人の青年の名前を、『幕末明治初期 フランス学の研究』(田中貞夫・国書刊行会)に見出すことが出来ました。

 その青年の名前は山本松次郎。弘化2年(1845年)に、長崎の紺屋町で山本晴海(清太郎・高島秋帆の高弟)の三男として生まれています。兆民が弘化4年(1847年)の生まれですから、兆民より2歳の年上。

 山本松次郎は、慶応元年8月15日より慶応3年(1867年)10月下旬まで、この「済美館」でプティジャン、フィーゲ、そして仏語長平井義十郎(希昌)、教員志筑(しつき)龍三郎よりフランス語を学んでいるのです。

 中江兆民は、慶応3年6月頃に、「済美館」を辞めて長崎から海路横浜に向かっていますから、山本松次郎とは、1年と10ケ月近くを済美館で学んだことになります。

 山本松次郎は、「済美館」でどういう教科書で学んでいたかも記しています。

 『メトードフワミリエール』(『尋常教則』)
 『ガラメール・フランセー・エレマンテール』(エフペーべ社編輯〔へんしゅう〕の『仏朗西〔フランス〕文源』)
 『ヌーウェル・ガラメール・フランセー』(ノエル氏シャプサル氏の『仏朗西文典』)
 『ペチー・クール・ズ・ヂョーガラフィーモデルン』(コルタンベル氏の『近世地理小程』)
 
 などでした。

 もちろん兆民も、同じ教科書を使ったはず。

 山本松次郎は、兆民が去った後の慶応3年(1867年)7月に、「済美館」の「教授方助」(助教授)を申し付けられ、明治2年(1869年)4月には「済美館」を改称した「広運館」において「仏語訓導」を申し付けられており、後にフランスで兆民が知り合うことになる西園寺望一郎(公望〔きんもち〕)にフランス語を教えています。

 明治元年(1868年)8月、平井義十郎は「広運館掛(かかり)」を申し付けられ、慶応2年(1869年)の9月にはその「頭取」になっていますから、平井と山本松次郎は師弟の間柄であるばかりか上司と部下の間柄でもあったことになります。

 ところで、『維新の澪標(みおつくし)─通詞平井希昌の生涯─』の中に、慶応2年(1866年)に長崎に届いた輸入書籍の目録が載っています(P79~P81)。その中に、同2年6月18日に届いた書物があり、

 仏語字典 二十五部 代七十七フランク
 仏文典  二十五部 代十七フランク
 反切書  二十五部 代十五フランク
 
 「反切書(はんきりしょ)」というのは、西洋の帳面、すなわち横書きの「ノート」のことでしょうか。

 この「仏語字典」・「仏文典」・「反切書」は、「済美館」でフランス語を学ぶ学生たちのために輸入されたものであると思われます。

 というのも、マルナスの『日本キリスト教復活史』のP288に、次のような記述があるからです。

 彼(プティジャン)は1866年3月10日にこう書いている:「私の生徒は少なく、それも二〇歳かそれ以上の者である。彼らはヨーロッパ人について知っているのは欠点だけで、先生である宣教師の教えに対し警戒している。それにもかかわらず、彼らはカトリック教から健全な教えを得、また政府自身もあまり疑い深くないようである。」事実、政府は彼にフランス語の本を取り寄せてくれと頼んだので、彼はパリに絵入り初等読本・文法書・辞書を二ダースと弟子の好みに応じて〈艦上での射撃〉という書物三部を注文した。

 このプティジャンが注文した本が、慶応2年〈1866年〉6月18日に、はるばるフランスのパリから長崎に船便で届き、それはただちに平井義十郎や、プティジャン、志筑龍三郎ら教員の手に渡り、さらに中江兆民や山本松次郎らフランス語を学ぶ生徒らの教科書として使われることになった、と考えてよさそうです。

 中江兆民側からは、「済美館」におけるフランス語の学習は、懐かしさを込めた文章で次のように記されています。

 「今を距(へだた)る事三十許年余長崎に在(あ)り…文法書の如きも、其(その)始(はじめ)て臨読するや、天主教僧侶に就(つい)て質疑す。彼れ日本語を能(よ)くせず、我れ仏蘭西(フランス)語に通ぜず。目、察し、口、吟じ、手、形し、苦辛惨憺(くしんさんたん)として、其終(そのおわり)は、則(すなわ)ち相共(あいとも)に洒然(せんぜん)一笑して、要領を得る事能(あた)わざるもの、日に幾度なるを知らず」
 (『中江兆民全集 17』「福田富冶『初学実用仏蘭西文典』序)

 この兆民が、「文法書」について質疑した「天主教僧侶」とは、フランス人宣教師ベルナール・タデ・プティジャンに他なりません。

※この「天主教僧侶」は実はプティジャンではなく、おそらくフュウレという人物であることが後に判明しました。先の「フィーゲ」は「フュウレ」の間違いということになる。

 そして手にした「文法書」とは、プティジャンがパリから船便で取り寄せた、『ヌーウェル・ガラメール・フランセー』(ノエル氏シャプサル氏の『仏朗西文典』)のことだと言ってよいでしょう。

 以上、まとめてみると、

 中江兆民が「済美館」でフランス語を教わった相手は、フランス人宣教師プティジャン、それにフィーゲ(この人物については不明)、平井義十郎、志筑龍三郎。

 ※「フィーゲ」とは実は「フュウレ」のこと。フュウレもプティジャンと同じく、パリ外国宣教会から派遣された宣教師。

 使用した教科書は(慶応2年〔1866年〕6月以後のことになりますが)『メトード・フワミリエール』・『ガラメール・フランセー・エレマンテール』・『ヌーウェル・ガラメール・フランセー』・『ペチー・クール・ズ・ヂョーガラフィーモデルン』など。

 それらの教科書は、プティジャンが、政府(幕府・長崎奉行〔おそらく服部長門守常純〕)より依頼されて、パリから船便で取り寄せたもの。

 ということになります。

 中江兆民が長崎に滞在している間に、このプティジャンが深く関わる「浦上四番崩れ」(長崎奉行所による、浦上村の隠れキリシタンの摘発事件)が起きるのですが、これについても、また別の機会に触れたいと思います。

 では、また。


○参考文献

・『日本キリスト教復活史』フランシスク・マルナス/久野桂一郎訳(みすず書房)
・『幕末明治初期 フランス学の研究』田中貞夫(国書刊行会)
・『維新の澪標─通詞平井希昌の生涯』平井洋(新人物往来社)
・『長崎県史 対外交渉編』長崎県(吉川弘文館)
・『日本史のなかのフランス語』宮永孝(白水社)
・『明治維新とあるお雇い外国人 フルベッキの生涯』大橋昭夫/平野日出雄(新人物往来社)
・『中江兆民全集 17』(岩波書店)


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