品川宿は、初めは「南品川宿」と「北品川宿」の両宿で成り立っていましたが、享保7年(1722年)に「北品川宿」のさらに北の「歩行(かち)新宿」が宿場として認められ、全部で3宿となりました。この「歩行新宿」のさらに北側は「高輪」で、JR品川駅は「品川宿」の北に位置することになります。「南品川宿」と「北品川宿」を隔てている川は目黒川(江戸時代は「境川」とも言われる)。この目黒川の河口辺りは品川の湊(みなと)であり、江戸の外港としてかつては夥(おびただ)しい数の船が出入りして賑わったところ。品川宿には、本陣1軒と脇本陣2軒があり、その本陣は「北品川宿」に、脇本陣は「南品川宿」と「歩行新宿」にありました(人馬の継ぎ立てをする問屋場は「南品川宿」にありました)。「歩行新宿」には、「食売(めしうり)旅籠(はたご)」(「飯盛旅籠」ともいい、客に春を売る「飯盛女」がいる)や水茶屋が集中し、遊郭が集中した江戸北部の吉原(よしわら)に次ぐ繁栄を見せました。この旅籠の中に「相模屋」という大きな旅籠がありました。ここは1階外壁が「土蔵」のように海鼠(なまこ)壁であったために「土蔵相模」とも言われた旅籠で、幕末の、水戸脱藩浪士による大老井伊直弼襲撃事件(「桜田門外の変」)や長州藩士による御殿山の英国公使館の焼き討ち事件に関係するところです。この「土蔵相模」の2階の大広間からは、品川の波静かな海を見晴るかすことができました。今の様子からは想像が出来ませんが、この品川宿のすぐ東側には、江戸湾が広がっていたのです。西側には、桜の名所として知られた御殿山があったのですが、品川台場築造のために土砂が採取されたり、東海道本線の敷設工事で切り通しとなったりして、現在はその姿をまったく留(とど)めてはいません。と、全体を概観したところで、早速目黒川を渡りましょう。 . . . 本文を読む