鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2007.3月の「東海道品川宿」取材旅行 その2

2007-03-22 21:37:01 | Weblog
青物横丁商店街に入ってすぐに、左に折れる道があり、そこに「贈太政大臣岩倉公御墓参拝道」と刻まれた碑があり、その土台石に「海晏寺」とありました。ということは、「海晏寺」には松平春嶽〈松平慶永・1828~1890〉の墓ばかりか岩倉具視〈ともみ・1825~1883〉の墓もあったのです。

 2人とも、幕末・明治の歴史を考える際には避けては通れない人で、松平春嶽は坂本龍馬と相識っていますし、中江兆民は横浜からサンフランシスコまで岩倉具視と同じ船に乗って太平洋を渡っています。

 明治4年(1871年)11月、兆民は岩倉遣欧使節団に付属する政府派遣留学生の一員として、横浜を出港していますから、船内で岩倉の姿を見る機会があったはずです。この船には、大久保利通(1830~1878)も木戸孝允(たかよし・1833~1877)も、そして兆民が死ぬまで敵愾(てきがい)心を燃やした(厳しく批判し続けた)伊藤博文(1841~1909)も副使として乗っていました。

 この太平洋の船上の場面は、私の『波濤の果て 中江兆民のフランス』(第4巻)の冒頭に出てくる予定です。

 岩倉具視が死んだのは、明治16年(1883年)7月20日。
 死ぬ直前に、岩倉は参議井上馨(かおる)を枕元に呼び、「寸刻を死と争いながら」(ベルツ)、井上に遺言を伝えます。佐々木克(すぐる)さんは、「遺言は天皇にかんするものだったように、私は思う」と推測され、次のように述べています。

 岩倉が構想していた立憲君主天皇は、立憲制というわくのなかでも天皇親政に近いような、あるいは天皇親政の精神を尊重するようなものを考えていたように思われる。…しかし伊藤は違っていた。立憲政治の根本の意味は、君主制の制限にあること、したがって天皇が国家を統治する大権は、憲法の規定する範囲内のみにあること、そして行政の中心は、天皇ではなく、総理大臣であること、これが伊藤の憲法の基本的主張であった。…岩倉が思い描いていた理想の明治天皇は、未完成のままで終わってしまった。しかし明治天皇を支えた明治国家の基礎を築いたのは、まぎれもなく岩倉具視その人であった。

 兆民に対置させる必要がある人物としては、この岩倉具視や大久保利通、そして伊藤博文や山県有朋(ありとも・1838~1922)、さらに井上毅(こわし・1843~1895)を欠かすことは出来ないと、私は思っています。そしておそらくは福沢諭吉(1834~1901)も…。

 と、思わず固い話になってしまいました。

 「参拝道」とありながら、我々一般人は岩倉具視の、そして松平春嶽の墓所には近づくことは出来ないのです(墓所の門扉には厳重に錠がかかっている)。

 渥美半島の城下町田原市では、渡辺崋山の墓も田原藩主代々の墓も気軽に参拝出来ました。

 少し進んだ左に、龍吟山海雲寺。ここには「平蔵地蔵の由来」が記された大きな石碑があり、ひときわ目に付きました。

 鈴ケ森刑場の番人をしていた三人連れの乞食の一人に平蔵というものがいて、ある時、多額の金を拾うのですが、正直者の平蔵は金を返し、お礼の小判も断わってしまいます。それを怒った他の二人が平蔵を小屋から追い出し、そのために平蔵は凍死します。そのことを聞いた金の落とし主の仙台藩士が、平蔵の遺体を引き取り、青物横丁の松並木に手厚く葬って、その地に石の地蔵尊を立てた

 というのです。

 その地蔵尊の前には、きれいな供花がありました。

 千躰(せんたい)荒神堂(こうじんどう)の中には、スリッパが置いてあって中に入ることが出来ました。この荒神堂はけっこう古そう。中には、信徒が奉納した全部で27面の扁額が掛けられ、また格天井の中央には龍の図が描かれていて、それを中心としてさまざまな意匠の纏(まとい)図が80枚ほどもあって、なかなか壮観でした。

 さらに進んで左に入ると、海照山品川(ほんせん)寺。
 門を入って左手に、都重宝の銅像地蔵菩薩坐像。境内に入ると、年配の男性が多数。少ないですが女性も交じっています。ざっと60名。寺の境内にこんなに多くの人がいるのは、この取材旅行を始めてから初めてのこと。ほとんどの人たちがみんな帽子を被(かぶ)り、リュックを背負うかバックを肩に掛けている。同じ恰好です。厚めのパンフを持っているので覗いてみると、「品川宿 史跡めぐり図」とありました。ガイドの説明を受けながら、史跡めぐりをしている人たちでした。若い人(女性)は、母親の付き添いかと思われる方が1人いるだけ。京浜急行を利用して移動しているようです。それにしても向学心旺盛な世代の方たちです。

 境内には、「品川区指定天然記念物」の大イチョウが聳(そび)えています。推定樹齢約600年。戦国時代や江戸時代、またそれ以後の品川の人々の暮らしを見下ろし続けたことになります。

 門の右手にまだ小ぶりな「街道松」があり、それには保土ヶ谷宿から寄贈されたものとの説明がありました。説明文には「旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会」とありました。この「街道松」は、これからも次々と出てきます。

 門の手前右側に古い「たばこ屋」があり、またジュネーブ大通りに出る手前右側にはやはり趣のある「竹内外科医院」がありました。

 この「竹内外科医院」は、帰宅して私のブログのトラックバック欄にある「旧東海道品川宿」を開いてみると、そこに美しい水彩画で描かれていました。

 このホームページは、「小さな画室 一人の名も無い絵描きの画集」というもの。「東京下町はしり描き」や「スケッチ山手線一周」など、これから参考になるであろう味わい深い水彩画がたくさん載っています。神田須田町甘味処「竹むら」、月島佃町(つくだまち)、神楽坂の「ちょうちん屋」…。品川では、他に泉岳寺の山門や東品川の船溜まり、伊皿子(いさらござか)、品川プリンスホテルのチャペル。

 東京には、まだまだ古い東京を偲(しの)べる所があるのですね。

 ゆっくりと、腰を据えて対象をじっくりと見て絵筆を走らせる「旅」。うらやましい。

 ジュネーブ通りを渡って左手に入ると諏訪神社。30メートルほどの見事な杉の大木がありました。

 「街道松」2本目。大磯宿から寄贈されたもの。案内板に、「この他にも六つの宿場から寄贈された街道松が植えられる」とありました。まだまだ小ぶりなもの。

 左手に「畳 松岡」。これも大正・昭和にタイムスリップしたようなお店。引き戸のガラスには「畳 上敷 ござ 松岡」とある。後で知りましたが、大正4年(1915年)に建てられたお店だとのこと。90年以上、この東海道で生業(なりわい)を続けてきたことになります。

 日蓮宗の天妙国寺、同真了寺が並びます。

 右に「袋井の松」(「街道松」の1つ)。

 左に時宗(じしゅう)長徳寺。背後は小学校。

 この品川宿、やたらと寺が多い。神奈川宿も多かったのですが、ここはその神奈川宿を圧倒する。『復元 江戸情報地図』(朝日新聞社)を見ても、江戸時代はもっとお寺が多かったようです。なぜだろう。神奈川宿と品川宿に共通するのは、宿場町である以外にすぐ側が海で、多数の船が出入りする湊があったこと。また周辺の村々とも深い交流がありました。つまり海・陸とつながりが深いところ。それらが関係しているのかも知れませんが、よくはわかりません。「将軍のお膝元」である江戸を防衛するための政策から出たもの(城下町の寺町のように)とも考えられます。ご存知の方がおられたら教えて頂けると幸甚です。

 道筋に旧東海道の道路改修工事についての看板がありました。それによると、

 東海道沿いを車線部分3mを特殊アスファルト舗装し、車線の両脇路側を石畳で整備する本線整備と参道・路地を石畳で整備する

 というものでした。発注者は品川区まちづくり事業部管理工事課。区間は、品川区南品川1-3から南品川2-16番先 外5路線。

 左に天台宗常行寺。門の手前右手に「城南小学校創立之地 開校明治七年十二月五日」と刻まれた碑。

 南品川2-10-5のお店も古い建物です。

 左に「手水処品川宿」。「手水処(ちょうずどころ)」とはトイレのこと。三島宿の「街道松」が植えられていました。そこはミニ公園となっており、奥の遊具の中では、小学生が2人、座って黙々とテレビゲームに興じていました。

 この辺りの街道筋は、お店はたくさんありますが、比較的静かで、穏やかに時間が流れている感があります。

 新馬場駅の周辺にはお寺が集中している。長徳寺・常行寺・願行寺・海蔵寺・心海寺・妙蓮寺・本光寺・海徳寺などなど。

 左に、「旧東海道品川宿 街道松の広場」。案内板には、

 ここは、旧東海道品川宿周辺地区まちづくり事業により、「歴史と文化を活かした憩いの広場」として整備したまちづくりのための広場。草花の手入れや掃除などは町の老人クラブ「南桜真会」の方々によって行われている。

 とありました。

 広場内の「街道松」は、浜松宿より寄贈された樹齢約80年の黒松。この「街道松」が、小ぶりな「街道松」が多い中で一番大きい。「品川宿の松」と命名されているとのこと。縁台が6台置いてあり、そこでしばし休憩(13:58)。猫が三匹、広場の隅っこで気持ち良さそうに日向(ひなた)ぼっこをしています。

 左に、日蓮宗海徳寺。なぜか「明治39年12月9日 軍艦千歳殉難者之碑」がありました。

 気になって帰宅してインターネットで調べてみると、関連記事がいろいろと出てきました。これが、インターネットのすごいところ。百科辞典ではこうはいきません。

 この明治39年(1906年)、年明けに渡英するため品川沖に碇泊していた軍艦「千歳」(初代)への「通船」(陸地と本船を結ぶ連絡船)が突風のため転覆し、その乗組員65名と見送り人ら計83名が亡くなる事故があり、その大法会がここで行われたとのこと。十三回忌の大正8年(1919年)に、のちに「千歳」の艦長を務めた海軍大将山屋他人(やまやたにん)の揮毫(きごう)により、建立されたものだそうです。碑の右手の古びた砲身は、その「千歳」のものでは、と「品川・戸越コアマガジン」には記されていました。

 なお、この「品川・戸越コアマガジン」には、品川区で小中学校が学校選択制になってからの変化が報じられています。たくさん生徒が集まる学校とそうでない学校が生まれ、昔なら同じ学校へ行くはずの子供が交差しながら別々の学校へとランドセルを振って歩いているとのこと。同じ区立の学校なのに、区も親も結果的に格差をつけ、地域と子供が切り離されかねない要素を持つ学校選択制に、疑問を呈されています。

 聞くところによれば、都内には入学者が1人もいなくなった小学校も出てきているらしいし、また政府は「全国学力一斉テスト」を導入しようとしているらしい。選別・格差・ランク付けが生まれるのは必至でしょう。小学校・中学校の時期から、ランク付けされた学校に通う子供たちには、どういう意識が生まれていくのでしょうか。

 『毎日新聞』の朝刊(2007.3.21)の「みんなの広場」に、名古屋市緑区の梶田隆(61)さんの投書が掲載されています。梶田さんは、次のように言われています。

 学力とはなんでしょう。知識は学校以外でも、例えばインターネットなどを通じても得ることが出来ます。知識の多少ではなく学ぶ力をどう身に付けさせるかが問題です。疑問を心の中にいつもとどめ、安易に分かろうとせずにいれば、いつかストンと腑(ふ)に落ちることがあります。疑問を考え続けていると、自分の経験の中から解答のヒントが得られます。つまり、生きていく知識が育つわけで、それが生きる力になると思います。

 私も、学力とは、「学ぶ力」であり、「生きていく知識」・「生きていく力」だと思います。学校とは、そのような学力を身につけるため(学校はそのための1つの大事な場所)に通うところでしょう。知識偏重は、私の体験から言ってももうコリゴリです。

 話が、ひょんなところから飛んでしまいました。

 もとに戻ります。

 ちなみに、この「千歳」とは違いますが、太平洋戦争で沈没した「千歳」のこともインターネットで出て来たので、紹介します。 

 もう1つの「千歳」は、水上機母艦として、昭和9年(1934年)に呉海軍工廠(こうしょう)で起工され、同13年(1938年)に竣工、就役しました。同年、広東(カントン)攻略戦に参加、南洋群島を巡航警備しています。昭和16年(1941年)11月に呉軍港を出港し、同年12月8日、有名なハワイ真珠湾(パールハーバー)攻撃に参加。同16年から17年にかけて、ミッドウェイ海戦やガダルカナル作戦など、南洋における戦いに参加。昭和18年(1943年)1月、佐世保海軍工廠において航空母艦への改装が始まり、昭和19年(1944年)1月に完成、就役。翌年、シンガポール、トラック島、サイパン島輸送作戦に参加し、またマリアナ沖海戦に参加しますが、同年(1944年)10月25日午前9時37分、レイテ沖海戦(フィリピン・エンガノ岬)で、アメリカ空母搭載機180機の爆撃を受け、艦長(岸大佐)以下数百の将兵とともに沈没します。

 こちらの「千歳」は、太平洋戦争の開戦となる真珠湾攻撃に参加するなどかなり有名な軍艦であったようです。

 右に「東海道品川宿是より南 南品川宿」の看板。

 ここに流れる目黒川を渡ると北品川宿になるのです。

 目の前にある城南信用金庫は、かつての脇本陣。百足(むかで)屋広瀬冶兵衛が営んでいました。説明によると、手前信号の角には問屋場があったそうです(現 製菓実験社)。

 目黒川に架かる橋は品川橋。目黒川は江戸期には「境川」と呼ばれていたとのこと。対岸左手に見えるこんもりとした木々の繁りは、江戸期には「北品川稲荷社」と呼ばれた荏原(えばら)神社(「南の天王さま」とも言われた神社の杜(もり)。対する「北の天王さま」は、北品川の鎮守である「品川神社」。

 川幅のある目黒川に架かる鎮守橋を渡って、荏原神社に向かいました。


 さて、長くなりましたので、今回はここで終わりにします。次回は北品川からJR品川駅の前を通り高輪東禅寺まで。

 では、また。

○参考文献

・『岩倉具視』佐々木克(吉川弘文館)
 
 インターネット
・「品川・戸越コアマガジン あれやこれや」
・「航空母艦千歳」
・「維新後の品川湾」
・「千歳ちとせ 近代世界艦船事典」


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2 コメント

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ご無沙汰しています (A.M(千葉県))
2007-03-23 21:46:18
最近我が家のPCは文字化けすることが多く、先生のブログを読むことができずにいましたが、なぜか今日は文字化けが無いので、慌ててコメントしている次第です。お元気ですか?あれから半年・・・早いものですね。我が家は娘が4月に入園を控えているので、袋物作りや体操着の名前書きなど、な~んとなく慌ただしく過ごしています。高校時代には大嫌いだったミシンを使って、巾着袋なんて作っていると『親になったんだな・・・』なんて実感しますね。私ってすっごく家庭的に見られるのですが、実はものすごく雑なんですよ(先生は知っていたかな?)ミシンとか編み物には全く興味がありませんからね。そんな私がミシンを使うようになるんだから、子供を持つってすごい事だと思います。
もうすぐ桜の季節ですね。お弁当を持ってお花見に行かなくては!
先生!アルコールは解禁になったのでしょうか?次回の同窓会は一緒に楽しみたいですね!
では、暖かくなったと油断して風邪なんてひかないでくださいね。
今日はアルコール解禁 (鮎川俊介)
2007-03-24 07:32:11
 AMさん、お久しぶりです。「親になったんだねー」。お嬢さんの入園、おめでとう。満開の桜の下での入園式になるのでしょう。子どもを持つって、すごいことなのです。家族揃って、目いっぱい花見も楽しんできてください。さて、当方、アルコールもカフェインも解禁になったわけではありませんが、体調はおかげさまですこぶる快調。相模川での朝のウォーキングでは、ジョギングもまじえるようになり、3キロほどてれてれと走っても「ゼイゼイハアハア」言わなくなりました。筋肉と持久力はずいぶんついたように思います。3キロジョギングするなど(しかも仕事前)、しばらく前までは思いもしなかったことです。汗が噴き出てきて、再び体重が減り始め、目標の10キロ減は、ゴールデンウィーク(ウォーキングを始めて1年目)のかなり前に達成しそうです。ということで、体調がよくなったこともあり、今日と明日、露天風呂をこよなく愛する仲間たちと、熱海に行って「忘年度会」を行うのですが、そこではアルコールを解禁しようと思っています。次の同窓会では、一緒に飲んでカラオケなどやりたいね。ご家族そろって、健康第一にお過ごしください。では、また。

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