鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2007.3月の「東海道品川宿」取材旅行 その3

2007-03-24 06:39:55 | Weblog
 目黒川に架かる「鎮守橋」を渡ると「荏原神社」。ここには、明治元年(1868年)10月12日の朝、神奈川宿を出立した明治天皇一行が、川崎梅屋敷で小憩の後、午後3時頃に立ち寄り、その後北品川宿の本陣に入りました。翌明治2年(1869年)の3月27日にも、京都に向かう途中の明治天皇はここに立ち寄っています。

 街道筋に出ると、そこは北品川商店街。

 「東海道北品川」の交差点を渡ると、右側に「品川本陣跡聖蹟(せいせき)公園」。「聖蹟」というのは、「蒲田梅屋敷公園」のところでも触れましたが、明治天皇の「行在(あんざい)所」(天皇が外出した時の仮の御所)であったことを示しています。

 この公園の入口(東海道に面したところ)には、滋賀県甲賀郡土山町(東海道第49次の土山宿)から寄贈された「街道松」が植わっていました。

 公園内には、「東海道品川宿本陣跡」のガイドパネルがありました。それには、

 品川宿は江戸四宿の一つ。品川本陣は、品川三宿の中央に位置する。現在、公園となる。明治元年に明治天皇の行幸の際の行在所(あんざいしょ)となったことに因(ちな)み、聖蹟公園と命名されている。

 とありました。

 跡地に、公園のほかに「北品川児童センター 品川区立北品川保育園」などがあり、相当広い敷地であったようです。

 少し行った右側に一心寺。由緒の書かれた案内板がありましたが、やや文意不明。要するに、大老井伊直弼(1815~1860)が、開国に際し、品川宿の安全と繁栄を祈願して創らせたもののようです。

 その向かいに「丸屋」という古い履き物の店。慶応元年(1865年)の創業とのこと。その隣にこれも古い「菅沼書店」。

 左手に臨海山浄土宗法禅寺。門の左手前に「品川小学校発祥之地」の碑があり、門を潜って左手に入ると「流民叢塚碑」がありました。

 案内板によると、この碑は、天保の大飢饉で亡くなった人たちを供養するもの。天保の大飢饉の時、農村などから流浪して来るものが多く、この付近で病気や飢餓で倒れる人が891人を数えたそうです。これらの死者は法禅寺と海蔵寺に葬られましたが、法禅寺には五百余人が埋葬されました。初めは円墳状の塚でしたが、コンクリート製の納骨堂の上に碑が置かれることになったとのこと。

 境内には大きなイチョウの木があり、推定樹齢は400年。この木も、品川(ほんせん)寺のイチョウと同様に、江戸時代以後の品川宿の変遷を見下ろし続けてきたことになります。

 右手に、日本橋より二里とあり「品川宿の松」がありました。品川宿から海岸には下り坂になっていて、海岸線は護岸のために石垣が築かれていました。右側に入る横道はどれも、確かにゆるやかな坂になっており、その坂が終わったところが海岸線だったのでしょう。

 左に時宗善福寺。

 同じく左に「星野金物店」。

 同じく左手の「お休み処」で、「東海道品川宿まち歩きマップ」を10円で購入。「品川歴史館」のパンフももらいました。現在「品川歴史館」は空調設備の工事のため閉館中とのこと。次回は是非訪れたい。

 お店のおばさんたちとしばらく話を交わして、外に出ました。

 そこから八ツ山橋手前まで来た時、「土蔵相模」の跡を見過ごしたのに気付き、道を戻りました。

 戻って街道左側に「土蔵相模跡」を見つけました。現在は「NICハイム北品川」というマンションになっており、その1階は「ファミリーマート」でした。

 この「土蔵相模」は、幕末の2つの大きな事件に関係しています。

 一つは「桜田門外の変」。そしてもう一つは「御殿山英国公使館焼き討ち事件」。

 「桜田門外の変」は安政7年(1860年)3月3日に、水戸脱藩浪士たちによって引き起こされた事件で、大老井伊直弼(なおすけ)が殺される有名な事件です。この事件の前日、水戸浪士たちは歩行新宿の「稲葉屋」に集合し、その後、この「土蔵相模」で最後の打ち合わせをしています。

 そして翌3月3日の朝、「八重桜の如き大房雪」がほとほとと降る中、水戸脱藩浪士17名と薩摩脱藩浪士1名が芝の愛宕山(あたごやま)に集結。

 彼らは五ツ(午前八時頃)過ぎには、桜田門外の、杵築(きつき)藩松平大隅守江戸屋敷の門前に集結し、やがてやってきた井伊直弼の行列(総勢60余人の行列)を襲撃しました。襲撃側の主力は井伊直弼の乗る駕籠に殺到し、駕籠の中の井伊直弼を引きずり出して、その首を斬り落とします。

 大老の首を斬り落としたのは、薩摩脱藩浪士の有村次左衛門(1838~1860)。彼は大音声(おんじょう)を発し(おそらく「井伊掃部(かもん)、討ち取ったり!」)、刀の刃先に直弼の首を突き刺したまま、水戸脱藩浪士広岡子之次郎(ねのじろう)とともに濠に沿って走りますが、主君の首を取り返そうと必死に追いすがってきた彦根藩士(御供目付側小姓〔そばこしょう〕)小笠原秀之丞により後頭部を斬られ、辰ノ口の辻番所近くで大老の首を放り出して自害します。

 現場の指揮をとった関鉄之介は、岡部三十郎とともに現場から逃れて、前日宿泊した歩行新宿の「稲葉屋」に泊まっていますが、岡部は文久元年(1861年)7月に死罪、関は文久2年(1862年)に江戸で死罪となっています。

 「御殿山英国公使館焼き討ち事件」は、文久2年(1863年)12月14日未明に起こっています。

 文久元年(1861年)5月の水戸脱藩浪士らによる高輪東禅寺(イギリス公使館)襲撃事件(第一次東禅寺事件)などに手を焼いた幕府は、警備上の問題から各国の公使館を一ヶ所に集めることを立案し、とりあえず、イギリス・アメリカ・フランス・オランダ・ロシア五ヶ国の公使館を、品川御殿山に新築することになりました。

 同年11月にまずイギリス公使館の建設が始められ、それは翌年2月に完成しましたが、長州藩の高杉晋作らは、攘夷の先鋒としてそのイギリス公使館を襲撃することを計画。この計画には、志道(しじ)聞多(後の井上馨〈1835~1915〉)・伊藤俊輔(後の博文〈1841~1909〉)・寺島忠三郎・福原乙之進・堀真五郎ら合わせて15,6人が参加しました。

 彼らは、文久2年(1862年)12月13日に歩行新宿の「土蔵相模」に集まると、真夜中過ぎまで酒宴を開き、その後に、いくつかのグループに分かれて「土蔵相模」を出て御殿山に赴き、イギリス公使館を焼き討ちします。

 イギリス公使館の周りを囲む木の柵を、持参したノコギリで切ったのは伊藤俊輔(博文)。本館内に入り、焼玉(やきだま)の上に障子や建具などを積み重ねて、導火線を点火したのも伊藤俊輔と、それに堀真五郎や志道聞多(井上馨)でした。

 伊藤と志道(井上)は、後に明治時代の代表的な政治家になりますが、この時は、急進的な攘夷派の「志士」(長州藩士)だったのです。

 このような事件に関わりを持つ「土蔵相模」の跡地をしっかりと確認。

 折角なので、中に入って「ダカラ」を購入し、往時を偲(しの)びながら店先で飲み干しました。

 ここからとって返して、再びJR品川駅方面へ。

 八ツ山橋手前左手に「品川宿」の案内板がありました。それによれば、戦国期より北品川と南品川の両宿がすでにあったのを、江戸幕府が新しく宿場として設定し、享保7年(1722年)に歩行新宿が成立したとのこと。

 右手に「問答河岸(かし)跡」の碑。

 右下に見える線路に沿って歩きます。第一京浜を隔てて左側に「品川プリンスホテル」が聳(そび)えています。

 JR品川駅の、大通りを隔てた西側に、場違いのような古色蒼然たる神社が見えたので、横断歩道を渡って左折して、石段を上がってその神社の境内に入りました。神社の名前は「高山稲荷神社」。高輪南町と下高輪町(旧中町)の鎮守の神だとのこと。狛犬には「慶応元年九月吉日」とあり、左の狛犬の基石には「高輪中町鳶頭(とびがしら) 寺沢庄五郎」とあり、右の狛犬のそれには「倅(せがれ) 久米八 力松 熊治郎 角治郎」と刻まれていました。彼ら親子は、鳶職として、激動の幕末・維新期をここ高輪で過ごしたのです。

 ちなみに「鳶職」とは、土木・建築工事の人夫。足場の組み立てや杭(くい)打ち、木材・石材の運搬などに従事する。江戸時代は町火消し人足(消防夫)を兼ねた。「鳶の者」とも。

 「ホテルパシフィック」前を通過。

 歩道右手に、「日本橋まで7km」の標示。

 やがて、左手に入る道のはるか奥に「東禅寺」の門が見えました。港区道標に「最初のイギリス公使館跡」とあります。

 まっすぐな、人通りのない閑静な参道を進むと、途中左手に「港区立高輪公園」。

 東禅寺の門(立派な門の左右に仁王像)のところには、「都旧跡 最初のイギリス公使宿館跡」と刻まれた石碑があります。

 ガイドパネルには次のように記されていました。

 安政5年(1858)7月に締結された日英通商条約により、翌6年6月6日、イギリス初代公使オールコック(1809~1897)らがここに駐在し、最初のイギリス公使館となる。
 文久元年(1861)5月28日夜、水戸浪士の襲撃事件、同2年5月29日夜、警固士のイギリス人殺傷事件があったが、明治6年(1873)頃まで使用される。
 公使館に使用されたのは、大玄関および書院と奥書院であったが、現在その一部である奥書院と玄関が旧事のままよく保有されている。
 その他は昭和初年に改築された。

 この文中の水戸浪士による襲撃事件が「第一次東禅寺事件」としてよく知られ、警固士によるイギリス人殺傷事件が「第二次東禅寺事件」。後者はそれほど知られていないかも知れません。

 門を入ると、まっすぐ続く道の突き当たりに三重塔。なんと立派な塔があるのです。そして本堂があり、その正面上部には「海上禅林」と大書された扁額。その右隣に玄関。本堂も玄関も固く閉まっています。本堂の右前には大きな石灯籠(とうろう)があり、北東角には鐘楼があります。

 鐘楼から、玄関、本堂、三重塔にかけての景色を、連続してデジカメで撮りました。

 ここで起きた2つの事件、および、安政7年(1860年)の1月7日、東禅寺の門前で1人の「イギリス臣民」(実はもとは日本人漂流民)伝吉が殺された事件については、また別の機会に詳しく触れたいと思います。

 東禅寺の門を出たのは16:30。

 JR品川駅に戻り、山手線で新宿駅に。新宿駅で小田急線の本厚木行きの普通に乗りました。土曜日にも関わらず意外と空いていて、鶴川駅辺りでは1車両に6人を数えるばかり。町田と相模大野でまたまた乗客が増え、駐車場のある座間駅に着いたのは18:28でした。

 品川宿はさすがに歴史の蓄積を感じました(他の宿場町もそうなんですが)。江戸時代の面影を残しているのは、他の宿場町と同様、お寺や神社。街道筋には、明治以前の面影はほとんど残されてはいませんが、大正から昭和30年代にかけての雰囲気を残す建物があちこちに見られたのが印象的でした。空襲の被害が比較的少なかったことによるのでしょう。

 この品川宿の商店街は、シャッターの下りている商店も少なく、それなりに地域のお店として定着しているように思われました。また他とも共通しますが、それほど多くはありませんが高層マンションが進出しています。

 近くに計画されている高層マンション建設の反対ビラが店先に張ってあり、それを読んでみると、私が予想していたような景観の破壊や日照権の問題を訴えたものではなく、マンションが出来た場合、そこに子どもが連れ込まれて犯罪が起こる不安を訴えるものでした。今までは、地域住民の目の届くところにいた子どもたちが、マンションという、「得体の知れない」住民が住む閉ざされた空間に連れ込まれ、何をされるかわからないといったような不安を訴えているのは、何か現代というものを象徴しているようにも思われ、心に痛く残りました。

 長い歴史の中で成立したコミュニティ(地域のまとまり)が、学校(小学校)間格差や高層マンションの進出などによって崩れつつあることの不安を、代々そこに住む人たちは皮膚感覚とでもいうものによって感じ取っているように思われました。

 そう言えば、土曜日というのに、品川を歩いていて見かけた子どもは、「手水処(ちょうずどころ)品川宿」のミニ公園で、遊具に座って黙々とテレビゲームをしていた小学校3,4年生らしき子ども2人だけ。

 私が注意して見ていなかったから、「いた」のに視界には入らなかったのでしょうか。

 でも思い返してみると、神社にもお寺の境内にも、やっぱりいなかったなあ。


 以上で品川宿の報告は終わります。

 次回は、高輪から日本橋までのおよそ7キロを歩きます。


○参考文献

・『日本とイギリス 日英交流の400年』宮永孝(山川出版社)
・『史実を歩く』吉村昭(文春文庫)
・『茨城県の歴史』(山川出版社)
・『「東海道」読本』(川崎市市民ミュージアム)


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