鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

長崎の済美館学頭・平井義十郎について その3

2007-03-17 05:40:43 | Weblog
中江兆民がフランス語を学んだ長崎「済美館」の学頭平井義十郎は、すでに文久3年(1863年)7月、片淵町に「英語稽古所」か設けられた際、何礼之助(があやのすけ)とともにその学頭となっていて、当時の長崎奉行から何とともに異例の抜擢を受け、幕府御家人(長崎奉行支配定役格〔さだめやくかく〕)になりました。「英語稽古所」が江戸町に移転して「洋学所」になり、それがまた大村町に移って「語学所」となり、さらに新町に移って「済美館」となっても、それらの学頭であることは変わりませんでした。義十郎は、この間に、中国語・英語ばかりか、フランス語も学んでいます。フランス語を学んだ相手は、再来日したシーボルト(1859年の夏、長崎到着。彼はフランス語にも通じていました・1796~1866)やフランス人商人ビクネット(さらに長崎駐在フランス領事レオン・デュリー〔1822~91〕であった可能性も)らのようです。義十郎は、慶応元年(1865年)9月に「済美館」学頭となっていますが、おそらくその翌月の10月に、藩により留学を命ぜられて高知から長崎にやって来た中江兆民が「済美館」に入学しました。学頭の義十郎は、志筑龍三郎、フランス人宣教師プティジャン、フィーゲとともに、20人ばかりの学生に対してフランス語を教えました。その学生の中に、若き日の中江兆民や山本松次郎らがいたわけです。 . . . 本文を読む