小田急町田駅に到着。待ち合わせ時間の11:00にはまだ時間があるので、小田急百貨店8Fの久美堂(ひさみどう)書店に足を向け、『脚本家・橋本忍の世界』村井淳志(集英社新書)と『明治の職業往来 名作に描かれた明治人の生活』池田功・上田博編(世界思想社)の2冊を購入。
ちょうど一年前、やはり「露研」の待ち合わせまでの時間に、ここ久美堂で『医師がすすめるウオーキング』泉嗣彦(集英社新書)を購入し、私が朝のウォーキングを始めるきっかけになったことを、懐かしく思い出しました。この本はウォーキングを始めてみようかと思っている人にとって、とてもいい本だと思いますよ。
10:50に、待ち合わせ場所である小田急線町田駅JR方面改札口に。改札口の外に出て、小田原までの普通乗車券のみを購入。ロマンスカー特急券は、Y・Iさんの方でまとめて購入してくれているので。
すぐにY・Iさんがやってくる。H・TさんとN・Mさんは、家庭のよんどころない事情で今回は出席できないとのこと。6名の予定が今回は4名となりました。
間もなくT・TさんとT・Aさんが到着。
再会の握手をした後、早速小田急線のプラットホームに出て、11:10発のロマンスカー(箱根湯本行き)に乗り込みました。2階建て車両で、我々は1階。
途中、オン・ザ・ロックの水割りウィスキーを飲み、近況を語り合いながら、小田原駅到着。
東口から徒歩3分で「小田原城下 らーめん宿場町」。東海道五十三次の第九番目(日本橋から)の宿場町である小田原宿をモチーフとした「らーめんフードテーマパーク」。3周年記念祭の開催中(3/21~4/4)でした。「テーマパーク」といっても、ラーメン店の出店は4店舗。「山形らーめん 天童」・「九州筑豊ラーメン 山小屋」・「池袋麺匠 福助」・「らーめんやほんぽ 白虎」。
そのうち、4人一致で「山形ラーメン 天童」に入りました。
「天童中華そば」の麺は中細ちぢれ麺でこしがあり、スープもおいしい。多摩センター付近に「山形ラーメン 天童総本店」が開店しているそうです。多摩センターは比較的近くなので、機会があったら行ってみよう。調べてみると、山形県は日本一の中華麺消費量を誇る県らしい。
舌鼓(したつづみ)を打った後、歩いて小田原城址公園へ。昨年は桜が満開でしたが、今年はまだ開いていませんでした。しかし花見をしようとやってきた人たちがたくさん歩いていました。
ということで、熱海に行ってしまおう、ということになり、小田原駅からJR普通で熱海駅まで。向かいの席に大きなキャリーバッグを手元に置いた西洋人の夫婦連れがいましたが、私たちと同じく熱海駅で下りました。
駅前に出て、「足湯」に入ろうとしましたが、びっしりと「足湯」をしている人が座っていたため断念。
「足湯」の向こうに鉄製の黒い小さな機関車が見えたので、その南側に回ってみると、この機関車は「熱海軽便鉄道7機関車」というものでした。
ガイドパネルには次のようにありました。
この機関車は、明治40年から大正12年まで、熱海=小田原間の25キロメートルを2時間40分かかって走っていたものです。
この鉄道は関東大震災により廃止されましたが、その後、各地の鉄道建設工事に活躍した後、神戸市の国鉄鷹取工場内に標本車として展示されていたものを熱海市が払い下げをうけ修復して、ゆかり深い故郷に貴重な交通記念物としてかえってきたものです。
機関車の規格 車両の長さ3.36メートル 高さ2.14メートル 幅1.39メートル 重さ3.6トン
時速9.7km 乗車定員40名~50名
帰宅後、インターネットで調べてみると、この鉄道の前身は「豆相(ずそう)人車鉄道」。国府津(こうづ)駅前から小田原町内まで開通していた「小田原馬車鉄道」と連絡する形で、事業家雨宮(あめみや)敬次郎(1846~1911・甲斐国山梨郡牛奥村の百姓の生まれ・甲州財閥の一翼をなした明治時代の実業家)の発案により、明治27年(1894年)~明治33年(1900年)にかけて漸次開通されたものだそうです。
「人車」とは「人が押す車」。定員6名あるいは8名の客車を3名の人夫が押すのです。
しかしこの「豆相人車鉄道」は、原始的であり、押し手の賃金も高額となることから、社名を「熱海鉄道」と改めて、明治40年(1907年)に小型蒸気機関車(7機関車)牽引の軽便鉄道に切り替えられ、翌年には営業不振のため、雨宮が設立した「大日本軌道」に買収されました。
この軽便鉄道の敷設工事を見物に行った少年「良平」を主人公にした小説が、芥川龍之介(1892~1927)の短編「トロッコ」です。トロッコは、古い印袢天(しるしばんてん)に、季節外れの小さい黄色の麦藁帽(むぎわらぼう)を被(かぶ)った土工たちにより、土や枕木を運ぶものでした。良平は、ある日、そのトロッコ押しを手伝います。
「おじさん。押してやろうか?」
(中略)
「おお、押してくよう」
(中略)
「何時(いつ)までも押していて好(い)い?」
「好いとも」
黄色い実がいくつも日を受けている蜜柑(みかん)畑の間を登りつめると、土工は、良平に
「やい、乗れ」
と言います。
喜んで乗ったものの、やがてどんどん遠くへ来てしまったことに、良平は不安に襲われます。日暮れに近くなったところで、土工たちは、良平に無造作に「われはもう帰んな」と言われます。良平は無我夢中に夕闇迫る線路の側を走り続け、家に駆け込み、わっと泣き出します。
「あの遠い路(みち)を駈け通して来た、今までの心細さをふり返ると、いくら大声に泣き続けても、足りない気もちに迫られながら、…」
この小説は、教科書(高校時代?)に載っていて読んだ記憶があります。
良平の、念願のトロッコに乗り、そしてまた土工たちとともにそれを押す喜び。 遠くへ来過ぎてしまったことによって高まる不安。
家を目指して夕闇の中を無我夢中で走る心持ち。
そして家に着いて両親の前で大声で泣き叫ぶ時の心持ち。
子ども時代に一度は感じたことのあるような心持ち(内容・場面は人それぞれでしょうが)が巧みに描かれていて、強い印象を受けた覚えがあります。
この「トロッコ」の舞台になったのが、小田原~熱海間の軽便鉄道の鉄道敷設現場だったのです。
主人公の良平は、やがてこの鉄道を煙を上げて走る大きなおもちゃのような「7機関車」と、それが牽引する小さなマッチ箱のような車両を眺めたことでしょう。
「トロッコ」の良平が、軽便鉄道敷設工事現場の「トロッコ」に乗ったのはいつごろのことなのか。この「熱海鉄道」の沿革を調べてみると、明治39年(1906年)に、人車鉄道から軽便鉄道への切り替えのため、610mmから762mmへの軌間工事が開始され、翌明治40年(1907年)にその工事が完成、蒸気運転を開始、とあり、「トロッコ」文中には「或(ある)夕方、─それは二月の初旬だった。…その後十日余りたってから」とありますから、明治40年(1907年)の2月中旬(午後3時頃)だったことになります。
「7機関車」のガイドパネルを読んでいるうちに、上空からポツポツと雨が降ってきたので、早速「ニューフジヤホテル」の送迎バスに乗車(14:05)。
送迎バスは14:15の出発時までに、通路席も含めてほとんど満席状態になりました。
14:19にホテル到着。15:00までロビーで小憩。ロビーは宿泊客で混んでいました。家族連れも目立ちます。4月の第一週は、平日でも満室の状況でした。15:00過ぎにチェック・インを済ませて、別館「アネックス」の6階の部屋に。途中の通路脇に、インターネット通信が可能なパソコンが7台ほど並んでいました。
部屋は、西側の窓の下にお寺(翌日、それが「温泉寺」と「誓欣(せいきん)院」であることが判明)が見える角部屋で、大人4人には十分過ぎるほどの広さ。室内もいたってきれい。蒲団がすでに敷いてあるのがうれしい。トイレも浴室も、あたりまえのことでしょうがとても清潔です。
浴衣(ゆかた)の上に丹前を羽織って、さっそく露天風呂「家康の湯」に。「家康の湯」は、源泉の「大湯」から引湯している泉質が自慢の露天風呂。入ってみると、熱からず、ぬるからず、ちょうどいい泉温。後で、ほかのお風呂にも入りましたが、ここが一番良かったように思います。
なぜ、名前が「家康の湯」か。それについては、あとで説明することにしましょう。
夕食は17:30から。ここの夕食は、朝食もそうですがバイキング。で、1泊2日9800円。バイキングは、刺身がもう少しあれば、と思いましたが、和洋中の多種多様な料理が出ていて不満はありません。驚いたのは、日本酒・ビール・各種サワー・ワインなどアルコール類もバイキングであったこと。
アルコールがバイキング(お替り自由)というのは、長年の私の旅行の歴史の中で初めてのこと。思わず係の女性に、
「これもお替り自由なんですか」
と聞いてしまいました。
部屋に戻って、積もる話に花を咲かせました。最近の教育現場の状況についての話には、慨嘆することばかりです。
亀田興起のボクシングの試合、フィギュアスケートの女子の演技(浅田真央と安藤美姫の演技には感動)、オシム監督率いる日本とペルーのサッカーの試合、そして女子のシンクロナイズドスィミングのロシアの精密機械のような演技を観ているうちに、いつのまにか寝入ってしまいました(23:00過ぎ)。
翌日の予定は、かつての別荘であり高級旅館であった「起雲閣」と「芸妓見番(けんばん)歌舞練場」の見学です。
○参考文献
インターネット
・「ラーメンデータベース」
・「芥川龍之介 トロッコ」
・「熱海鉄道」Wikipedia
ちょうど一年前、やはり「露研」の待ち合わせまでの時間に、ここ久美堂で『医師がすすめるウオーキング』泉嗣彦(集英社新書)を購入し、私が朝のウォーキングを始めるきっかけになったことを、懐かしく思い出しました。この本はウォーキングを始めてみようかと思っている人にとって、とてもいい本だと思いますよ。
10:50に、待ち合わせ場所である小田急線町田駅JR方面改札口に。改札口の外に出て、小田原までの普通乗車券のみを購入。ロマンスカー特急券は、Y・Iさんの方でまとめて購入してくれているので。
すぐにY・Iさんがやってくる。H・TさんとN・Mさんは、家庭のよんどころない事情で今回は出席できないとのこと。6名の予定が今回は4名となりました。
間もなくT・TさんとT・Aさんが到着。
再会の握手をした後、早速小田急線のプラットホームに出て、11:10発のロマンスカー(箱根湯本行き)に乗り込みました。2階建て車両で、我々は1階。
途中、オン・ザ・ロックの水割りウィスキーを飲み、近況を語り合いながら、小田原駅到着。
東口から徒歩3分で「小田原城下 らーめん宿場町」。東海道五十三次の第九番目(日本橋から)の宿場町である小田原宿をモチーフとした「らーめんフードテーマパーク」。3周年記念祭の開催中(3/21~4/4)でした。「テーマパーク」といっても、ラーメン店の出店は4店舗。「山形らーめん 天童」・「九州筑豊ラーメン 山小屋」・「池袋麺匠 福助」・「らーめんやほんぽ 白虎」。
そのうち、4人一致で「山形ラーメン 天童」に入りました。
「天童中華そば」の麺は中細ちぢれ麺でこしがあり、スープもおいしい。多摩センター付近に「山形ラーメン 天童総本店」が開店しているそうです。多摩センターは比較的近くなので、機会があったら行ってみよう。調べてみると、山形県は日本一の中華麺消費量を誇る県らしい。
舌鼓(したつづみ)を打った後、歩いて小田原城址公園へ。昨年は桜が満開でしたが、今年はまだ開いていませんでした。しかし花見をしようとやってきた人たちがたくさん歩いていました。
ということで、熱海に行ってしまおう、ということになり、小田原駅からJR普通で熱海駅まで。向かいの席に大きなキャリーバッグを手元に置いた西洋人の夫婦連れがいましたが、私たちと同じく熱海駅で下りました。
駅前に出て、「足湯」に入ろうとしましたが、びっしりと「足湯」をしている人が座っていたため断念。
「足湯」の向こうに鉄製の黒い小さな機関車が見えたので、その南側に回ってみると、この機関車は「熱海軽便鉄道7機関車」というものでした。
ガイドパネルには次のようにありました。
この機関車は、明治40年から大正12年まで、熱海=小田原間の25キロメートルを2時間40分かかって走っていたものです。
この鉄道は関東大震災により廃止されましたが、その後、各地の鉄道建設工事に活躍した後、神戸市の国鉄鷹取工場内に標本車として展示されていたものを熱海市が払い下げをうけ修復して、ゆかり深い故郷に貴重な交通記念物としてかえってきたものです。
機関車の規格 車両の長さ3.36メートル 高さ2.14メートル 幅1.39メートル 重さ3.6トン
時速9.7km 乗車定員40名~50名
帰宅後、インターネットで調べてみると、この鉄道の前身は「豆相(ずそう)人車鉄道」。国府津(こうづ)駅前から小田原町内まで開通していた「小田原馬車鉄道」と連絡する形で、事業家雨宮(あめみや)敬次郎(1846~1911・甲斐国山梨郡牛奥村の百姓の生まれ・甲州財閥の一翼をなした明治時代の実業家)の発案により、明治27年(1894年)~明治33年(1900年)にかけて漸次開通されたものだそうです。
「人車」とは「人が押す車」。定員6名あるいは8名の客車を3名の人夫が押すのです。
しかしこの「豆相人車鉄道」は、原始的であり、押し手の賃金も高額となることから、社名を「熱海鉄道」と改めて、明治40年(1907年)に小型蒸気機関車(7機関車)牽引の軽便鉄道に切り替えられ、翌年には営業不振のため、雨宮が設立した「大日本軌道」に買収されました。
この軽便鉄道の敷設工事を見物に行った少年「良平」を主人公にした小説が、芥川龍之介(1892~1927)の短編「トロッコ」です。トロッコは、古い印袢天(しるしばんてん)に、季節外れの小さい黄色の麦藁帽(むぎわらぼう)を被(かぶ)った土工たちにより、土や枕木を運ぶものでした。良平は、ある日、そのトロッコ押しを手伝います。
「おじさん。押してやろうか?」
(中略)
「おお、押してくよう」
(中略)
「何時(いつ)までも押していて好(い)い?」
「好いとも」
黄色い実がいくつも日を受けている蜜柑(みかん)畑の間を登りつめると、土工は、良平に
「やい、乗れ」
と言います。
喜んで乗ったものの、やがてどんどん遠くへ来てしまったことに、良平は不安に襲われます。日暮れに近くなったところで、土工たちは、良平に無造作に「われはもう帰んな」と言われます。良平は無我夢中に夕闇迫る線路の側を走り続け、家に駆け込み、わっと泣き出します。
「あの遠い路(みち)を駈け通して来た、今までの心細さをふり返ると、いくら大声に泣き続けても、足りない気もちに迫られながら、…」
この小説は、教科書(高校時代?)に載っていて読んだ記憶があります。
良平の、念願のトロッコに乗り、そしてまた土工たちとともにそれを押す喜び。 遠くへ来過ぎてしまったことによって高まる不安。
家を目指して夕闇の中を無我夢中で走る心持ち。
そして家に着いて両親の前で大声で泣き叫ぶ時の心持ち。
子ども時代に一度は感じたことのあるような心持ち(内容・場面は人それぞれでしょうが)が巧みに描かれていて、強い印象を受けた覚えがあります。
この「トロッコ」の舞台になったのが、小田原~熱海間の軽便鉄道の鉄道敷設現場だったのです。
主人公の良平は、やがてこの鉄道を煙を上げて走る大きなおもちゃのような「7機関車」と、それが牽引する小さなマッチ箱のような車両を眺めたことでしょう。
「トロッコ」の良平が、軽便鉄道敷設工事現場の「トロッコ」に乗ったのはいつごろのことなのか。この「熱海鉄道」の沿革を調べてみると、明治39年(1906年)に、人車鉄道から軽便鉄道への切り替えのため、610mmから762mmへの軌間工事が開始され、翌明治40年(1907年)にその工事が完成、蒸気運転を開始、とあり、「トロッコ」文中には「或(ある)夕方、─それは二月の初旬だった。…その後十日余りたってから」とありますから、明治40年(1907年)の2月中旬(午後3時頃)だったことになります。
「7機関車」のガイドパネルを読んでいるうちに、上空からポツポツと雨が降ってきたので、早速「ニューフジヤホテル」の送迎バスに乗車(14:05)。
送迎バスは14:15の出発時までに、通路席も含めてほとんど満席状態になりました。
14:19にホテル到着。15:00までロビーで小憩。ロビーは宿泊客で混んでいました。家族連れも目立ちます。4月の第一週は、平日でも満室の状況でした。15:00過ぎにチェック・インを済ませて、別館「アネックス」の6階の部屋に。途中の通路脇に、インターネット通信が可能なパソコンが7台ほど並んでいました。
部屋は、西側の窓の下にお寺(翌日、それが「温泉寺」と「誓欣(せいきん)院」であることが判明)が見える角部屋で、大人4人には十分過ぎるほどの広さ。室内もいたってきれい。蒲団がすでに敷いてあるのがうれしい。トイレも浴室も、あたりまえのことでしょうがとても清潔です。
浴衣(ゆかた)の上に丹前を羽織って、さっそく露天風呂「家康の湯」に。「家康の湯」は、源泉の「大湯」から引湯している泉質が自慢の露天風呂。入ってみると、熱からず、ぬるからず、ちょうどいい泉温。後で、ほかのお風呂にも入りましたが、ここが一番良かったように思います。
なぜ、名前が「家康の湯」か。それについては、あとで説明することにしましょう。
夕食は17:30から。ここの夕食は、朝食もそうですがバイキング。で、1泊2日9800円。バイキングは、刺身がもう少しあれば、と思いましたが、和洋中の多種多様な料理が出ていて不満はありません。驚いたのは、日本酒・ビール・各種サワー・ワインなどアルコール類もバイキングであったこと。
アルコールがバイキング(お替り自由)というのは、長年の私の旅行の歴史の中で初めてのこと。思わず係の女性に、
「これもお替り自由なんですか」
と聞いてしまいました。
部屋に戻って、積もる話に花を咲かせました。最近の教育現場の状況についての話には、慨嘆することばかりです。
亀田興起のボクシングの試合、フィギュアスケートの女子の演技(浅田真央と安藤美姫の演技には感動)、オシム監督率いる日本とペルーのサッカーの試合、そして女子のシンクロナイズドスィミングのロシアの精密機械のような演技を観ているうちに、いつのまにか寝入ってしまいました(23:00過ぎ)。
翌日の予定は、かつての別荘であり高級旅館であった「起雲閣」と「芸妓見番(けんばん)歌舞練場」の見学です。
○参考文献
インターネット
・「ラーメンデータベース」
・「芥川龍之介 トロッコ」
・「熱海鉄道」Wikipedia