鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.12月取材旅行「成田および佐倉」 その8

2011-12-27 07:41:24 | Weblog
佐倉藩といえば、幕末の幕府老中堀田正睦(まさよし・1810~1864)が藩主であったところ。蘭学や洋学を奨励し、下総小見川の藩医山口甫僊の子であり、佐藤泰然の養子となった佐藤尚中(たかなか・舜海)を登用したのもこの人物。泰然から家督を譲られた尚中は、第二代佐倉順天堂主となり、万延元年(1860年)、藩命により長崎に留学してオランダ人医師ポンぺから西洋外科を中心に学びます。泰然の弟子には上総国山辺郡中村(現在の東金市)出身の関寛斎(1830~1913)がいますが、寛斎は安政3年(1856年)に銚子で開業。銚子の豪商浜口儀兵衛(梧陵)の知遇を得て、浜口の援助により万延元年(1860年)長崎に留学、やはりポンぺから西洋医学を学んでいます。堀田正睦が老中首座となったのは安政2年(1855年)。同3年には外国事務取扱を命ぜられ、下田にいたアメリカ総領事ハリスの江戸出府を許可し、日米通商条約締結の下地を築き上げます。家督を嫡子の正倫に譲った後、元治元年(1864年)3月、佐倉城内で死去。この正睦が佐倉藩主となったのは文政8年(1825年)、わずか16歳の時であり、この頃は藩財政が逼迫していて領内の風儀の退廃も著しく、領内農村の荒廃が進行していた時期であったという。崋山は、その年の夏、銚子からの帰途においてこの佐倉城下を通過しています。 . . . 本文を読む