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佐倉郵便局を左手に見て、通りを進んで行くと、まもなく同じく左手に丘陵が見えてきます。この左手の丘陵へと上がっていく大きな通りがあり、その道沿いに佐倉市役所がありますが、この通りが旧成田街道ということになる。
旧成田街道に入ってそのまま道なりに進むと、また大きな丘陵が現れ、そして左手に堀が見えてきます。
この堀が佐倉城のお堀であり、左手の丘陵が佐倉城址公園であって、国立歴史民俗博物館はこの中にあるということは、堀際にあった案内マップ(案内板)からわかりましたが、かつて妻と訪れた時の記憶も蘇ってきました。
京成佐倉駅から、今たどってきた道筋を二人で歩いたからです。
この案内マップは新しいもので、かつてはなかったものでしょう。
このマップを見ると、国立歴史民俗博物館の向こう側に佐倉城址公園があり、その右奥に佐倉城址があって、その右側にやはり堀が残っています。かつてはお堀は、お城のある丘陵の下に張り巡らされていた(丘陵の部分にはない)ものと思われますが、一部、埋め立てられた模様。
「ちばグリーンバス」の「国立博物館入口」バス停を過ぎると、じきに「歴博←」の標示が現れ、それにしたがって左折すると、いきなり「企画展示 風景の記録─写真資料を考える─ 2011年11月8日(火)~2012年1月15日(日)」と記された大きな立て看板が目に入ってきました。
このような企画展示が行われているとは、ここへ来るまで全く知らず、かねて「写真資料」に関心を持ち続けていただけに、これはまさに「どんぴしゃ」の出会いだと思いました。取材旅行をしていくと、時々、こういう「どんぴしゃ」の出会いがあるのです。
そして次に現れたのが「佐倉連隊案内図」。古写真や地図も掲載されています。その説明文によると、明治7年(1874年)に、日本最初の軍隊歩兵第二連隊が佐倉に駐屯し、多くの部隊が編制・訓練され、西南戦争、日清・日露戦争においてはこの地から出征されたという。明治42年(1909年)には、第二連隊にかわって歩兵第五十七連隊が移転し、昭和19年(1944年)のフィリピン戦で多くの命が失われ、壊滅したとのこと。
「壊滅」という言葉が、この歩兵第五十七連隊の過酷さを示しています。
かつての佐倉連隊のあった佐倉城址を上空から撮影した古写真は、いつ写されたものかはこの案内図からはわかりません。今、国立歴史民俗博物館があるあたりは、この写真で見てみると、広い運動場のようになっており、その奥(本丸側)右手にある建物が佐倉陸軍病院。三の丸付近には佐倉兵営跡となっています。弾薬庫や車道(くるまみち)、訓練用の12階段もあったようです。
運動場のまわりに建つ建物が何であったかは、この「案内図」からはわかりませんが、他の資料を調べてみればわかってくるものと思われます。
この「案内図」からは、佐倉城のようす(構造)がより詳細にわかってきます。大手門の方から入っていくと、「三の門」→「三の丸」→「二の門」→「二の丸」→「一の門」→「本丸」とあり、「本丸」へはもう一つ、「台所門」があったこともわかります。そして「本丸」には、「角櫓(すみやぐら)」や「銅櫓」があり、そしてその「本丸」のもっとも右側(西南部)、丘陵の端っこのところに「天守閣」がありました。
上空写真や地図からは、この佐倉城は、平地に張り出した丘陵を上手く活用したお城であったことがわかり、そしてその城下町は、そのお城へと続く丘陵上(台地の上)に形成されたものであることがわかってきます。
成田山新勝寺も、一つの丘陵を境内地として利用しているものでしたが、この佐倉城や佐倉の城下町は、もっと大々的にその丘陵および丘陵上を利用したもの、と言えそうです。
そして本丸や天守閣は、その丘陵のもっとも端っこにあり、周囲の水田や農村から眺めれば、丘陵の木々が茂る緑の斜面上に聳えていたことになります。
そういった佐倉城の立地的なことに関しては、「国立歴史民俗博物館」の「城址公園案内」板で確認することになりました。
それには、以下のように記されていました。
「佐倉城は台地と沼・川など自然の地形を巧みに生かして、近世の初め徳川氏の命により老中土井利勝が完成したといわれます。佐倉城址は、印旛沼の南岸に注ぐ鹿島川の河口近くの小高い台地上にあり、昭和39年に佐倉城址公園として計画決定されました。」
先ほどの「旧成田街道」から国立歴史民俗博物館へと入るところにかつてあった城門は、「田町門」といい、そこから丘陵上へと上がっていく坂は「愛宕坂」という。
その「愛宕坂」の登り口右手奥に「臼杵磨崖仏」のレプリカがあり、それを眺めてから、愛宕坂を上ると、左手に「円勝寺・愛宕神社跡」の案内板がありました。円勝寺は城内にあった真言宗のお寺。愛宕神社は田町の氏神でもあったが、連隊建設後は立ち入り禁止となり、移転したといったことが記されています。「愛宕坂」はその「愛宕神社」へと上がっていく坂道でもある。
その次に現れた案内板が「椎木曲輪(しいのきくるわ)(侍屋敷)」というものであり、それによると、歴博があるところは「椎木曲輪」と呼ばれる侍屋敷地区であり、連隊時代には兵舎があったとのこと。歴博の駐車場も侍屋敷の跡であり、小倉連隊の運動場や兵舎などは、かつての佐倉城の侍屋敷があったところ(椎木曲輪)に造られたものであることがわかってきました。
おそらく「田町門」は、佐倉城の表門である「大手門」に対して、裏門のようなものであったのでしょう。
続く
○参考文献
・『日本近現代人名辞典』(吉川弘文館)
・『日本洋学人名事典』(柏書房)
旧成田街道に入ってそのまま道なりに進むと、また大きな丘陵が現れ、そして左手に堀が見えてきます。
この堀が佐倉城のお堀であり、左手の丘陵が佐倉城址公園であって、国立歴史民俗博物館はこの中にあるということは、堀際にあった案内マップ(案内板)からわかりましたが、かつて妻と訪れた時の記憶も蘇ってきました。
京成佐倉駅から、今たどってきた道筋を二人で歩いたからです。
この案内マップは新しいもので、かつてはなかったものでしょう。
このマップを見ると、国立歴史民俗博物館の向こう側に佐倉城址公園があり、その右奥に佐倉城址があって、その右側にやはり堀が残っています。かつてはお堀は、お城のある丘陵の下に張り巡らされていた(丘陵の部分にはない)ものと思われますが、一部、埋め立てられた模様。
「ちばグリーンバス」の「国立博物館入口」バス停を過ぎると、じきに「歴博←」の標示が現れ、それにしたがって左折すると、いきなり「企画展示 風景の記録─写真資料を考える─ 2011年11月8日(火)~2012年1月15日(日)」と記された大きな立て看板が目に入ってきました。
このような企画展示が行われているとは、ここへ来るまで全く知らず、かねて「写真資料」に関心を持ち続けていただけに、これはまさに「どんぴしゃ」の出会いだと思いました。取材旅行をしていくと、時々、こういう「どんぴしゃ」の出会いがあるのです。
そして次に現れたのが「佐倉連隊案内図」。古写真や地図も掲載されています。その説明文によると、明治7年(1874年)に、日本最初の軍隊歩兵第二連隊が佐倉に駐屯し、多くの部隊が編制・訓練され、西南戦争、日清・日露戦争においてはこの地から出征されたという。明治42年(1909年)には、第二連隊にかわって歩兵第五十七連隊が移転し、昭和19年(1944年)のフィリピン戦で多くの命が失われ、壊滅したとのこと。
「壊滅」という言葉が、この歩兵第五十七連隊の過酷さを示しています。
かつての佐倉連隊のあった佐倉城址を上空から撮影した古写真は、いつ写されたものかはこの案内図からはわかりません。今、国立歴史民俗博物館があるあたりは、この写真で見てみると、広い運動場のようになっており、その奥(本丸側)右手にある建物が佐倉陸軍病院。三の丸付近には佐倉兵営跡となっています。弾薬庫や車道(くるまみち)、訓練用の12階段もあったようです。
運動場のまわりに建つ建物が何であったかは、この「案内図」からはわかりませんが、他の資料を調べてみればわかってくるものと思われます。
この「案内図」からは、佐倉城のようす(構造)がより詳細にわかってきます。大手門の方から入っていくと、「三の門」→「三の丸」→「二の門」→「二の丸」→「一の門」→「本丸」とあり、「本丸」へはもう一つ、「台所門」があったこともわかります。そして「本丸」には、「角櫓(すみやぐら)」や「銅櫓」があり、そしてその「本丸」のもっとも右側(西南部)、丘陵の端っこのところに「天守閣」がありました。
上空写真や地図からは、この佐倉城は、平地に張り出した丘陵を上手く活用したお城であったことがわかり、そしてその城下町は、そのお城へと続く丘陵上(台地の上)に形成されたものであることがわかってきます。
成田山新勝寺も、一つの丘陵を境内地として利用しているものでしたが、この佐倉城や佐倉の城下町は、もっと大々的にその丘陵および丘陵上を利用したもの、と言えそうです。
そして本丸や天守閣は、その丘陵のもっとも端っこにあり、周囲の水田や農村から眺めれば、丘陵の木々が茂る緑の斜面上に聳えていたことになります。
そういった佐倉城の立地的なことに関しては、「国立歴史民俗博物館」の「城址公園案内」板で確認することになりました。
それには、以下のように記されていました。
「佐倉城は台地と沼・川など自然の地形を巧みに生かして、近世の初め徳川氏の命により老中土井利勝が完成したといわれます。佐倉城址は、印旛沼の南岸に注ぐ鹿島川の河口近くの小高い台地上にあり、昭和39年に佐倉城址公園として計画決定されました。」
先ほどの「旧成田街道」から国立歴史民俗博物館へと入るところにかつてあった城門は、「田町門」といい、そこから丘陵上へと上がっていく坂は「愛宕坂」という。
その「愛宕坂」の登り口右手奥に「臼杵磨崖仏」のレプリカがあり、それを眺めてから、愛宕坂を上ると、左手に「円勝寺・愛宕神社跡」の案内板がありました。円勝寺は城内にあった真言宗のお寺。愛宕神社は田町の氏神でもあったが、連隊建設後は立ち入り禁止となり、移転したといったことが記されています。「愛宕坂」はその「愛宕神社」へと上がっていく坂道でもある。
その次に現れた案内板が「椎木曲輪(しいのきくるわ)(侍屋敷)」というものであり、それによると、歴博があるところは「椎木曲輪」と呼ばれる侍屋敷地区であり、連隊時代には兵舎があったとのこと。歴博の駐車場も侍屋敷の跡であり、小倉連隊の運動場や兵舎などは、かつての佐倉城の侍屋敷があったところ(椎木曲輪)に造られたものであることがわかってきました。
おそらく「田町門」は、佐倉城の表門である「大手門」に対して、裏門のようなものであったのでしょう。
続く
○参考文献
・『日本近現代人名辞典』(吉川弘文館)
・『日本洋学人名事典』(柏書房)
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