鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.12月取材旅行「成田および佐倉」 その3

2011-12-13 05:44:34 | Weblog
利根川の堤防上を歩いて、「なんじゃもんじゃ」の御神木のある神崎(こうざき)神社に立ち寄って、そこからJR成田線の下総神崎駅に向かった時、遠回りしてしまったこともあるが、駅へ出るまでの距離が長かったこと。あとで下総神崎駅から神崎本宿を通って神崎神社から利根川の堤防へと出たこともありますが、駅から神崎神社までは30分は歩く。この下総神崎駅の周辺はほとんど田んぼであり、田んぼの上を吹き渡ってきた風が、駅構内に入り込んでくるといった風情。周囲の水田の広がりの向こうに丘陵があって、その丘陵と水田が接するところに人家が連なっています。この下総神崎駅の立地を見ると、水田の真ん中に、水田を突っ切るように鉄道が敷設されたことがわかります。そして農家は、かつての場所にそのままに所在し続け、駅のまわりに人家が集まることはなかったのです。つまり水田がつぶされたのは鉄道と駅、駅に通ずる道路のためだけで、それ以外の田んぼはごく最近まで大事に保全されてきたということがわかってきます。田んぼの広がりの中にポツンと駅舎だけが建っているという、まるで映画のワンシーンに出てきそうな景観が、ごく最近までここにはあったのではないか。首都圏からそれほど遠く離れたところではないところに、こういう景観が今でも残っているというのが感動的でした。しかし考えてみると、こういう駅周辺の景観は、鉄道敷設時から戦後しばらくまでは、首都圏においてさえも至るところで見られたものではないか、とも思われてきます。たとえば小田急線沿線。多摩丘陵を走っていく小田急線の沿線風景は、その今昔の写真を見比べてみると、特に戦後、激変していったことがわかりますが、そのような状況はもちろん小田急線のみにとどまらない。大都市東京近郊鉄道沿線の膨張的市街化は、それほどにすさまじかったということです。 . . . 本文を読む