鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.12月取材旅行「成田および佐倉」 その3

2011-12-13 05:44:34 | Weblog
 「川豊」という木造3階建てのうなぎ屋さんの店先では、店の方がうなぎをさばいている姿が見られました。時刻はまだ9:00だから、開店前の準備をしているといった風情。

 左手の重厚な木造3階建ての建物には「御中食 梅屋旅館」という看板が掛かっており、「御中食」という文字に歴史を感じさせる。玄関口に、遠目では風鈴のように見える提灯が掛かっており、その提灯の下に「紅葉まつり 仲之町」と記された短冊様のものがぶら下がっています。

 その2階、3階の、表参道に面した部屋(廊下?)のガラス窓には、一面白いカーテンが掛かり、それに朝日が当たっています。

 その右奥に見えるのがやはり木造3階建ての大きな建物ですが、その3階の屋根上に望楼のようなものが付属しています。2階の窓ガラス上の白壁には「天野屋旅館」とあるから、これも旅館であることがわかります。

 現在も宿泊客がいるのかどうかはわからないけれども、かつては成田新勝寺を参詣する多数の人々が宿泊していた旅館であるのでしょう。2階や3階の窓からは、表参道を行き来する人々を眺め下ろす宿泊客の姿が見られたはず。

 かつての温泉宿にも通ずる風情が感じられます。

 あの望楼の窓からは、どういう景観が展開するのだろう。

 通り隔てた対面には、黒漆喰塗りの土蔵造りの店蔵があり、2階の窓が観音開きになっています。その店先には「下総成田山門前 総本家元祖三橋吉兵衛」と記された看板が掛かっています。

 そこからまもなく左手に、「大本山成田山新勝寺」の総門がありました。

 案内板によると、寺号は成田山金剛王院新勝寺。宗派は真言宗智山派。宗祖は弘法大師。

 成田山新勝寺は真言宗であったのです。

 ここで思ったことは、今まで歩いてきて、この房総地方には真言宗のお寺が多いということ。至るところに真言宗のお寺がある。何らかの歴史的理由があると思うのですが、今のところよくわからない。成田山新勝寺も真言宗で、相当にこの地域には真言宗が広がっていたようです。

 同じく、案内文の説明によると、「当山では開山以来今日まで一千有余年 真言密教の教えにもとづき御本尊不動明王の御霊徳を弘めるため日々護摩秘法を修して」おり、「全国に別院 末寺 末教会および講社 奉賛会があり 多数の信徒の尊信を集めています」とあり、「大本山」とあるように、真言宗智山派のお寺の中でも特別な存在であるようです。

 案内板を見てもわかる通り、新勝寺の境内は、「成田道」の左手(坂を成田駅の方から下りてきて)の丘陵に広がっています。右奥には、成田山公園があることも確認しました。

 それらを確認した後、門前を通過して、その先の通りの様子を見てみました。

 「おもてなし」と書かれた看板に、「↑500m ←香取 成田インター 空港 →宗吾霊堂 富里インター 千葉」と記された道路標示があって、「宗吾霊堂」へと通ずる道へとつながることがわかります。

 また右手に幅の広い通りがあり、その両側にも参詣客相手の商店や鉄筋コンクリートのビルなどが並んでいます。そのビルの一つには「旅の駅 海老屋」という看板が見える。

 この通りを見て、これが「電車道」ではないかと思い、近くの商店の店先の人に、尋ねてみることにしました。

 というのも、前にJR成田駅で下りて、観光案内書で成田市の案内マップをもらった時、その地図に「電車道」とあって、それはかつて成田新勝寺山門前と宗吾霊堂を結んでいた電車の鉄道跡(現在は巡回バスの通る道路)だということを知り、興味を抱いていたからでした。


 続く


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