鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2010年・夏の山行─竹久夢二の登った須走口登山道 その5

2010-08-10 06:46:58 | Weblog
 古御嶽神社から上の登山道は、黒褐色の地面に小高い潅木がところどころに群生するところをしばらく登っていくことになります。

 9:03に丸太を組み立てたような鳥居を過ぎ、視界が大きく広がりました。左手下の方には山小屋が見え、そこには多数の下山者が休憩をしている姿があります。登山途中にはなかった山小屋だから、下山客専門の山小屋であるようだ。

 その山小屋を取り囲んでいる潅木はこのあたりまで登ってくるとなくなって、黒い地肌が露わになったところに腰の高さほどの高山植物が広がっている風景が広がります。砂礫に混じって、ところどころ腰掛けるにふさわしいような大きめの岩もあちこちに散らばっており、その一つに腰掛けて少々長めの休憩を取ったのが9:35頃。

 目の前を、五合目から山頂を目指す登山客がいろいろな装いで次々と通り過ぎていきます。前に御殿場口から登山した時も思ったことですが、富士山の登山客には若い人たちの占める割合が圧倒的に多い。若い男女の集団が、カラフルな装いで登っていくのです。大学生のようでもあり、職場の仲間のようでもある。もちろん「山男」といったふうの男だけの集団もある。五合目でバスから下りて、若さにまかせて勢いよく登ってきたために、このあたりで早くもバテ顔の人もいます。

 かなり周囲の視界はひろがっていますが、雲のために頂上付近は見えません。

 しばらく休憩して、歩むこと20分ほどで、須走口新六合目の長田山荘に到着。看板には標高2450Mとある(10:01)。須走登山口(宮上駐車場)が標高300mちょっとであるから、2100mほどの標高差を登ってきたことになります。かかった時間は4時間余。

 そこから、木々が山頂から強風に吹かれたように斜めに生えている潅木地帯を抜けて、本六合目の瀬戸館の前に出ました。ここの標高は2700m。ここには、生ビール、缶ビール、ホットコーヒー、甘酒、各種ペットボトル飲料、冷凍バナナ、牛丼、カレー、とん汁、おでん、カップヌードルなどいろいろなものが売っています。

 下方が見えるベンチでふたたび小憩をとり、さらに上へと登っていくことにしましたが、さすがに潅木地帯は完全になくなったものの、まだ緑は黒褐色の地肌を覆い続けています。これは御殿場口登山道とは大きく異なるところで、緑のある斜面が上へ上へと続いているところが、この登山道の好ましいところ。その緑の斜面の向こうの砂礫地帯を、砂煙を上げながら下っていく人たちの姿が見えますが、あれが「砂走り」。

 瀬戸館を出発して、40分近く登ったところで、材木がまるで骨のように白く集まった山小屋の残骸に出くわしました(11:17)。この上は七合目で「大陽館」があったから、本六合目とその七合目の途中にあった山小屋であったのでしょう。

 古御嶽神社から上の山小屋は、かつては小屋といっても石室(いしむろ)でした。

 その三合目(旧)や五合目(旧)の石室のようすがうかがえる古写真が、『絵葉書にみる富士登山』のP63の写真。頭大の石が石垣のように積み上げてあり、高さは2m以上はある。窓には木枠があり、板窓で開閉できるようになっています。入口も板戸。屋根は板葺きで、強風で飛ばされないように石が重しとして乗せてある。石室の前には、強い日ざしの時には葦(よしず)を張ったであろう四角い木の枠があり、その下に休憩用の縁台が並べられています。

 この三合目(旧)まではまだ緑があるようですが、その次のページの六合目(旧)石室になると、周囲にはもうまったく緑はなく、石室は斜面にまったく同化したような造りになっています。


 続く


○参考文献
・「富士へ」竹久夢二
・『絵葉書にみる富士登山』


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