鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008.11月「根岸~能見台」取材旅行 その最終回

2008-11-29 05:38:15 | Weblog
当時のスイス領事にルドルフ・リンドウという者がいましたが、彼は「鎌倉事件」が起きる10日ほど前に、イギリス公使オールコック邸(公使館である高輪の東禅寺か)で日本にやって来たばかりのボールドウィン少佐と会っていました。その時、ボールドウィンが、「近々、バード中尉と鎌倉に行くつもりだ」と話していたことをリンドウは覚えていました。鎌倉で2人の外国人が殺傷されたとの神奈川奉行所からの急報を得たリンドウは、プロシャ領事のフォン・ブラントとともに奉行所に急行。応接間に通されると、そこにはすでに横浜駐屯のイギリス歩兵第20連隊の司令官ブラウン大佐と、通訳書記官ラクラン・フレッチャーが到着していました。ということはすでにこの時までに、鎌倉で殺傷された外国人は第20連隊の者であるらしいことが判明していたのでしょう。リンドウとブラウンは、とりあえず鎌倉まで行ってみることに話がまとまり、22日未明(午前3時15分頃)に横浜を、奉行所から派遣された3、4人の護衛兵とともに出発(彼らとはすぐにはぐれる)。金沢、朝比奈の切り通しを経て、鶴岡八幡宮の参道に沿った大きな茶屋に到着しました。そこにはすでに奉行所の役人が詰めていました。2人はそこから現場に向かいます。すると四辻から右手に折れたところにある掛茶屋の前の松の木の根元に、小さな2枚のむしろが竹で支えられており、その下に2つの死体が仰向けに並べられていました。一人は、リンドウが10日ほど前にオールコック邸で会ったばかりのボールドウィン少佐でした。黒い顎顎が彼であることを示していました。もう一人の若い男は、ボールドウィン少佐が話していた案内役のバード中尉であるのでしょう。やがて日の出直後、ウッド中尉の率いるイギリス駐屯軍の騎馬隊と通訳官ラクラン・フレッチャー、それに外科医助手のヘンスマンが到着し、ヘンスマンの手により2人の死体の検分が行われました。 さて、ボールドウィンやバード(さらにはリンドウやブラントなど)が、鎌倉方面に向かったルートは、どこであったのか。私は、彼ら外国人たちが利用した道は、出来たばかりの外国人遊歩道を使って、根岸経由(根岸湾にほぼ沿った道筋)で金沢に向かい、そこでいったん休憩して、朝比奈切り通しを抜けて鎌倉に至る道であったろうと推測しています。外国人遊歩道を利用すれば。横浜から金沢まで、馬で最短2時間のコースでした。 . . . 本文を読む