鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

村山古道について その2

2008-11-01 05:26:17 | Weblog
『富士山 村山古道を歩く』の著者である畠堀操八さんに誘われて参加した「黄葉の富士山・村山古道」という山行き。類い稀な秋晴れの下、村山浅間神社の登山口から中宮八幡堂を経て旧四合目までの「村山古道」(村山口登山道)のルートをほぼ正確に歩くことができました。畠堀さんや村山から参加された松浦伸夫さんを始めとする人たちからお聞きした話もたいへん有意義なものでした。畠堀さんがこの村山古道に出会ったのは「登山家」としてでした。前にも触れましたが、2003年の1月、雪遊びのため吉田口五合目の佐藤小屋に泊まった際、登山家の篠原豊さんとの会話の中で村山口登山道のことが話題になり、「いっしょに藪漕(やぶこ)ぎをやりましょう」と意気投合。最初は「撃退」されたものの、地元の村山の鯛津勝良さんと松浦伸夫さんの協力を得て、その年の11月から4人による本格的な「道探し」が始まったのです。そして2004年8月、ついに4人は新六合目に到達。この間に畠堀さんは村山の人々との多くの出会いを経験。その交流を通して「当初、自分ひとりが村山古道を通り抜ければいいと思っていた」畠堀さんの考えは大きく変化。「村山口登山道を復活させよう」という思いを抱くようになりました。畠堀さんにとって、「登山をはじめて40数年、山登りが人様のためになるという体験ははじめてのこと」でした。私の場合、村山古道への接近は、幕末の初代駐日公使オールコックの大著『大君の都』によるものでした。最初からその意図が明確にあったわけではありませんが、幕末の東海道の様子はどういうものであったかを実地に歩いて探っていく(神奈川近辺を舞台にした歴史小説を書く上で必須の作業だと思いました)中で、『大君の都』の関係する記述を精読し、それを実地に検証していくうちに当時の富士登山のメインルートの一つである「村山古道」に辿り着いたというわけです。畠堀さんが「登山家」としてのアプローチであったとすると、私の場合は市井(しせい)の「歴史家」(ないし「物書き」)としてのアプローチから、「村山古道」に遭遇したということになる。畠堀さんはその「村山古道」に見事にはまりました。困難を極める実地の踏査ばかりか膨大な歴史的資料等を読み込んだ上での考察を進め、一冊の本としてまとめられたのが『富士山 村山古道を歩く』。私もいつかこの体験を歴史小説としてまとめてみたいと思っています。 . . . 本文を読む