鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

松本逸也さんの『幕末漂流』について その3

2008-11-13 06:44:02 | Weblog
『幕末漂流』の見開きページには、スフィンクスをバックにしての侍集団の記念写真が掲載されていますが、これについては本文に、「1864年(文久四年、元治元年)は、彼にとって忙しい年になった。池田長発をリーダーとする第二回遣欧使節の取材である」とあります。この写真の左下にはA.Beatoのサインがあるという。日程的に厳しいことと、この写真一枚だけということなどから、松本さんは、「この疾風のような行動力について、A.Beatoは別人ではなかったかという説すらあるほどだ」と新聞の記事に記していたことがありましたが、これはやはり別人でした。といってもベアトの兄であるアントニオ・ベアト。このことがわかったのは、横浜開港資料館の斎藤多喜夫さんの『F.ベアト写真集2』の解説篇および『幕末明治 横浜写真館物語』によれば、フランスの『モニトゥール・ド・ラ・フォトグラフィー』の1886年6月1日号の記事。そこには「ルクソール在住の写真家アントニオ・ベアト氏は、イギリス通信欄で語られている写真の実験とその発表に本人がまったく関わりがないことを報道するよう本誌に求めている。この写真コレクションは、かれの弟である日本在住のフェリーチェ・ベアト氏の手になるものであるとのことである」と書かれていました。この「スフィンクスと侍」として有名な写真は、フェリーチェ・ベアトの兄であるアントニオ・ベアトが、1864年4月4日(陽暦)の午後に、スフィンクスをバックにした侍集団(遣欧使節のメンバーたち)を撮影したものでした。松本さんによれば、1986年の段階では、次第にベールがはがされてきたとはいえまだまだベアトは「ナゾの写真師」であり、また「A.Beato」と「F.Beato」は、長い間、同一人物であると信じられていたようです。斎藤多喜夫さんによると、ベアトの写真が世に知られるきっかけとなったのは、昭和34年(1959年)に刊行された『横浜市史・第二巻』の口絵として「生麦事件現場」が収録されたことにあるという。その後『市民グラフ・ヨコハマ』24号(昭和53年)や『週間読売』(昭和56年)でイギリスの貿易商バロウズ氏のアルバムが紹介されたことにより、ベアトの存在が広く知られるようになり、時をほぼ同じくしてベアトについての伝記的研究も進んでいくことになったのです。 . . . 本文を読む