鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008.11月「根岸~能見台」取材旅行 その3

2008-11-21 05:54:26 | Weblog
『F.ベアト幕末日本写真集』のP42とP43には、金沢八景を遠望した写真が掲載されています。P42の写真には、「能見堂からの眺めであろう」とあり、写真には木々の密生する丘陵越しに、左手から夏島、烏帽子島、それに野島が写っています。野島はP43の中央左端にも写っています。この「能見堂」というのは、現在は存在しませんが、京浜急行金沢文庫駅の北北西、旧保土ヶ谷道に面したところにあった仏堂で、金沢の入海(いりうみ)をもっとも内陸部から見晴るかすことができる景勝地でした。「旧保土ヶ谷道」というのは、東海道保土ヶ谷宿から、蒔田(まきた)→上大岡→中里→称名寺→瀬戸→朝比奈の切り通しを経て鎌倉に至る道で、「金沢道」とも言いました。この中里と称名寺間の道筋にあったのが能見堂で、金沢八景を遠望できる絶好のビューポイントであったのです。ベアトが写したこのP42の写真は、その能見堂からのもので、おそらく金沢八景を写した写真としてもっとも古いものであると思われます。では、ベアトはこの写真をいつ写したのか。私はその年を1864年(元治元年)と推定しています。この年の11月18日の金曜日(旧暦では10月19日)の朝、ベアトは親友である『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』誌の通信員であって画家でもあるワーグマンらとともに、鎌倉・江の島方面へのスケッチおよび写真撮影旅行のため横浜居留地を出発しています。同行するのはヴェッキィ少佐、ボネェ侯爵、ルーサン、ド・ヴェッキィ少佐の下僕のフランシスコ、さらにベアトの下僕やそれぞれが乗る馬の別当(馬丁・日本人の馬曳き)など。すなわち外国人6名と日本人数名。総勢15名ほどであったと思われます。彼らは18日の夜は金沢で泊まり、19日(土曜日)と20日(日曜日)は鎌倉に泊まり、そして21日(月曜日)には東海道藤沢宿に泊まりました。そして東海道経由で横浜へ戻るのですが、P42~57にかけての一連の写真は、このスケッチおよび写真撮影旅行の時に撮影された可能性が高い。もしそうであるならば、ベアトらの一行は、横浜から保土ヶ谷道または横浜道を通って保土ヶ谷宿に出て、そこから今度は「金沢道」に入り、蒔田→上大岡→中里を過ぎたところで能見堂に立ち寄り、金沢八景の遠景を撮影(ないしスケッチ)。それから金沢に入り、そこで第一泊目の宿をとったということになります。 . . . 本文を読む