鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008.11月「根岸~能見台」取材旅行 その6

2008-11-26 05:45:43 | Weblog
一方、ボールドウィン少佐とバード中尉は、この元治元年(1864年)の10月21日(西暦では11月20日で日曜日)の朝、馬に乗って横浜の外国人居留地あるいは山手の駐屯地を出発しました。元治元年、横浜の外国人居留地に居住していた外国人は300名余。横浜の山手に駐屯する英仏軍は1800名を超えていました。横浜に英仏軍がやってくるのは前年の夏頃から。1863年の7月中旬(西暦・以下同じ)には、フランス軍艦モンジュ号が、中国上海からアフリカ大隊の増援軍を乗せて日本に到着。1864年1月後半には、イギリス正規軍200名がオールコック護衛のために上陸。その年3月2日にオールコックが帰任した時には、アプリン中尉率いる護衛隊と騎兵隊がオールコックを出迎えています。同5月28日の午後には、イギリス海兵隊1大隊530名余がコンケラー号で横浜に到着。そして7月9日には、第20連隊第2大隊が増強部隊としてカンチクリール号とクイーン・オブ・イングランド号で中国香港から横浜に到着しました。これで、横浜港の沖合いには、英蘭仏米四ヶ国の連合艦隊23隻が碇泊することになりました。この四ヶ国連合艦隊が、8月27日から28日にかけて次々と長州下関に向けて横浜を出港し、四ヶ国連合艦隊の下関砲撃事件が起きるのですが、この時、長州に向かったイギリス軍は海兵隊1個大隊であり、イギリス軍の主力をなした第20連隊と、第67連隊分遣隊などは横浜の居留民を保護(防衛)するために横浜に残留しています。四ヶ国連合艦隊が横浜に「凱旋」したのは9月30日。10月20日には、第20連隊や第67連隊などイギリス駐屯軍が、海軍の戦勝(下関戦争の勝利)を祝して、居留地背後の埋立地において大閲兵式を挙行しました。これには、野毛に駐屯して洋式訓練を受けていた幕府兵約2000名も参加していたという。ボールドウィン少佐もバード中尉も第20連隊に所属する。ということは2人とも下関砲撃には参加していないことになる。しかもボールドウィン少佐は10数日前に日本に着いたばかりというから、バード中尉が案内して鎌倉・江の島に向かったと考えられます。警護や案内の武士がいた形跡はないから、バード中尉はかつて鎌倉・江の島方面へ行ったことがあり、来日したばかりのボールドウィン少佐(バード中尉にとっては上官にあたる)の道案内をしたと考えられるのです。 . . . 本文を読む