鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008.11月「根岸~能見台」取材旅行 その最終回

2008-11-29 05:38:15 | Weblog
・朝比奈切通は、朝比奈町から鎌倉市十二所に通じる峠道の切通であること。

・六浦の港は、幕府が置かれた鎌倉のいわば外港であり、北関東や房総半島、さらには中国とつながっていたこと。

・歌川広重の8枚連作の大錦版『金沢八景』や『武陽金沢八景夜景』は、金沢八景を題材にした浮世絵の中でも最も代表的なものであること。

・「浦賀道」は、浦賀侍従に架かる諏訪の橋の西側を起点とすること。

・金沢には塩田が各所にあり、塩は金沢の特産品として、江戸時代には江戸まで行き渡っていたこと。

・押送船(おしょくりぶね)は、鮮魚類を急送する船であり、魚を江戸の市場に送り出すために金沢でも使用されていたこと。

・「金沢道」は、浦賀への往還にも盛んに利用された道であり、また金沢八景探勝の主要道路としても栄えたこと。

・冨岡隧道(トンネル)のところは、かつては徒歩で山越えをするか、海から船で行くしかなかったこと。

・富岡海岸の一部である「東浜」は、古くから冨岡漁場の港として栄えたこと。

・冨岡海岸の一部である「長浜」は、鎌倉時代は「長浜千軒」と呼ばれるほどに栄えた漁師村であったこと。

・金沢の野島湊は、古くから安房・上総・品川・神奈川・横須賀・浦賀方面につながる船着場として栄え、幕末には、幕府や諸藩の要員は、東海道→保土ヶ谷道→野島湊→〈船〉→浦賀、というルートで浦賀に向かったこと。

・湾の海水が引くと、澪〈みお〉で掻掘をして、エビ・シャコ・小さいカレイ・ハゼなどを獲ったもので、これを「瀬踏み」と言ったこと。

・東京湾のシャコは、甘いし、色もいいし、こんなにうまいシャコはないと言われたこと。小柴の漁業は、ほとんどがシャコであったらしい。シャコは生きているうちに釜ゆでにするのだが、ゆで方のコツがあったという。死んだシャコは極端に味が落ちてしまうということ。

・土地のお年寄りは、昭和初年頃までは、「六浦」を「ムツラ」と言い、「金沢」を「カネサワ」と言っていたこと。

 などなどを、『かねざわの歴史事典』、『金沢今昔物語』、『私の語る金沢─町の古老に聞く─』の3冊で知りました。

 地方図書館や公民館の図書コーナーなどの郷土資料からは、その土地でないとわからない情報に多々出会うことがあって、やはり現地に赴くものだという思いを新たにします。


 冨岡並木地区センターを14:42に出ました。

 「東浜橋」を渡ると右手に金沢総合高校。また長浜公園も広がる。

 かつてはこの通りから見える右手の丘陵の下あたりが海岸線か砂浜であったのでしょうか。

 右手に「横浜市金沢スポーツセンターを見て右折すると、有料道路である横浜・横須賀道路の「並木入口」にぶつかりました。

 左側は、並木3丁目の集合住宅団地が広がり〈金沢シーサイドタウン〉、右手は長浜公園。

 「横浜・横須賀道路」を利用して「並木入口」で出れば、このあたりには車て来ることも比較的容易であることを知りました。

 広大な長浜公園の中には大きな池がありますが、案内板の説明によると、その池は「汽水池」と言って、明治28年(1895年)に長浜検疫所が開設された時に造られた船たまり(港)の跡であるらしい。現在の公園の敷地のほとんどは、かつては海の中であったという。

 「なぎさ団地前」信号のところで右折。ゆるやかな坂道を進むと、左手に「横浜市長浜ホール」があり、その右隣に「長浜野口記念公園」がありました。「長浜検疫所」と野口英世の深いつながりを示す公園で、また機会を見て訪れてみたいものだと思いました。

 この公園前を過ぎてしばらく行くと、右手が横浜高校のグラウンドで、フェンス越しに野球部員たちの練習を見学している人たちの姿が見られました。

 坂道を上っていくと、やがて「710m 京急能見台駅」の案内標示。このあたりで雨がポツポツと降ってきました。

 右手に「神奈川県立循環器呼吸器病センター」を見て、京急能見台駅方面へ左折。国道16号線に架かる歩道橋を渡って右折すると、そこが京急能見台駅(15:20)。山道を越えた海(かつての)側とは対照的な、駅周辺の街のにぎわいでした。



○参考文献
・『鎌倉英人殺害一件』岡田章雄(有隣堂)
・『かねざわの歴史事典 INDEX金沢』金沢区生涯学習“わ”の会
・『金沢今昔地図』
・『私の語る金沢─町の古老に聞く─』



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