鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008.11月「根岸~能見台」取材旅行 その3

2008-11-21 05:54:26 | Weblog
 このあたりは「西町(にしちょう)」という。「東町(ひがしちょう)」に対する「西町」です。ここから狭い路地に入って西へ西へと進みました。「不動道」(旧道)がどこかはもうわからなくなっています。やがて大きな通りへ出たと思ったところが、それは先ほど歩いた「根岸疎開道路」でした。

 その通りに出たところで左折。間もなく信号があり、その向こうは左右に流れる川でした。この川が堀割川。この掘割川に架かる橋が磯子橋。その左隣に磯子人道橋があり、まずそこを通って堀割川を渡りました。この堀割川は幅は20mほど。まっすぐに流れていますから、かなり人工的に整備された川であるらしい(名前も「堀割川)。

 この川については、『F.ベアト写真集2』のP31(下)にその川が写った古写真が出てきます。根岸の丘から富士山を望んだもので、富士山をバックにした横浜近郊の農村風景が写し撮られています。「眼下は根岸村の耕地、その向こうは八幡川(現在の堀割川)、滝頭山、丘の上は岡村」とあります。

 写した地点は今のところ確定できませんが、根岸台の尽きるところあたりから撮影されたものであると考えると、根岸八幡神社や旧柳下邸(根岸なつかし公園)付近(そのあたりよりやや北側か)ということになる。

 眼下の耕地は現在は人家が密集しています。この写真には富士山が写っているはずですが、このP31の写真ではまったく見えません。堀割川はかつては八幡川と言ったことがわかります。

 『100年前の港町風景 横浜アーカイブス』(林宏樹監修・服部一景構成・文/生活情報センター)という本があります。このP174に「根岸堀割の桜」という写真が掲載されていますが、これを見ると掘割川は桜の名所でもあったらしい。堀割川は1874年(明治7年)に完成、とありますから、もともとの八幡川が改修されたものであるのでしょう。

 滝頭を眺める車夫が写っていますから、これは磯子橋あたりの堀割川を写したもの。

 磯子人道橋でこの堀割川を渡り、今度は隣りの磯子橋を渡って、下流に向かって歩きました。左手にこんもりとした森がありますが、これが八幡橋八幡神社。大通りを左折し、八幡神社の境内に入りました。入ってすぐ両側に「名木古木指定(横浜市)」のケヤキの大木があり、社殿前の両側にも「名木古木指定」のイチョウの木がありました。さらに同じく「名木古木指定」のタブノキなどもある。

 境内地は、細かい砂地。かつては海岸であったことを思わせる。

 この八幡神社は、かつては八幡大神といいましたが、明治29年(1896年)に八幡神社と改称したとのこと。

 入口の石鳥居の左手には、「敬神」と刻まれた大きな石碑がありましたが、それには「伯爵東郷平八郎書」とありました。東郷平八郎揮毫による石碑というのは、今まで歩いた範囲でも何ヶ所かで見た記憶があります。ということは、全国各地にあるのでは、という推測が成り立ちます。きっといろいろなところから揮毫を求められた人物であるのでしょう。

 社前の通りに出て右折。堀割川に架かる八幡橋を渡ります。左手河口付近には大きなガスタンクがいくつか見える。堀割川を、JR根岸線が渡り、そして首都高速湾岸線が渡ります。かつては海であったところ。

 八幡橋を渡った向こうの大通り(堀割川に沿って右折していきます)は、なんと国道16号線でした。このあたりは中浜町。左手には「マリコム磯子」という巨大集合店舗がありました。

 八幡橋陸橋で国道16号線を渡り、16号線に沿ってしばらく進みます。左手に磯子警察署・磯子消防署を見て、やがて右手に現れたローソンに入ってあつあつの「はちみつゆず」を購入。少し風邪っ気がある体をあたためました。

 バス停は「浜」。文字通り、かつてはこのあたりは「浜」であったに違いない。

 まもなく「磯子旧道入口」交差点が見えてきたので、迷うことなく右側の旧道の方に入りました。



 続く


○参考文献
・『F.ベアト幕末日本写真集』(横浜開港資料館)
・『鎌倉 英人殺害一件』岡田章雄(有隣新書/有隣堂)
・『金沢八景』(神奈川県立金沢文庫)
・『かねざわの歴史事典』(金沢区生涯学習“わ”の会)
・『F.ベアト写真集2 外国人カメラマンが撮った幕末日本』横浜開港資料館編(明石書店)
・『100年前の港町風景 横浜アーカイブス』林宏樹監修 服部一景構成・文(生活情報センター)


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