鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

松本逸也さんの『幕末漂流』について その3

2008-11-13 06:44:02 | Weblog
 『幕末漂流』には、F.ベアトについて、「第六章 写真師ベアトの魅力」としてP281~P327まで47ページにわたって記されています。

 それによれば、ベアトは、社交性があって、身だしなみはどこか貴族的で、いつも黒服に蝶ネクタイ。時にはモーニングも着用していたという。ボーリングが大好きで、どの大会にも必ず参加していました。当時、横浜居留地内のホテルには、ビリヤード場やボーリング場があって、居留民たちの社交場・遊戯場として賑わっていました。

 また「スフィンクス写真の謎」については、こう記されています。

 「これは筆者の推測だが、横浜港の再閉鎖交渉で二回目の使節がパリに派遣される、と聞いたフェリックス(フェリーチェ・ベアトのこと─鮎川)が、カイロにいたアントニオに手紙を書いた。『頭上にピストルを乗せたような恰好の日本の侍が、そちらへ行く。スフィンクスを前に一枚撮ったら、きっと売れるぞ』と。当時は、まだスエズ運河は完成していないからカイロで網を張っていれば、彼らをつかまえることが出来た。フェリックスからの情報でアントニオは思い通りの写真が撮れた。」

 使節一行が帰国してからのある日、ベアトは、使節一行の外国奉行組頭田辺太一(1831~1915)を訪ねたらしい。そして田辺から、彼が丸めて持ち帰ってきた「スフィンクス写真」を見せられたという。この田辺が持ち帰ってきた「スフィンクス写真」は、アントニオ・ベアトが田辺にプレゼントしたもので、合わせてアントニオは弟ベアト宛ての手紙を田辺に託したというのです。この時の「スフィンクス写真」が、現在、唯一日本に残っているものだという。

 ベアトの唯一の日本人弟子に日下部(くさかべ)金兵衛(1841~1932)がいましたが、その孫にあたる内田たまさんによると、ベアトはなかなか陽気な人であったらしい、と松本さんは記しています。

 この日下部金兵衛とベアトはきわめて緊密な関係で、慶応3年(1867年)には一緒に上海に出かけています。

 松本さんは、あの有名な「生麦事件の現場」写真についても考察をしています。ベアトがその写真を撮影した地点に立った松本さんは、ベアトはどっちから撮ったのかを考えます。すなわち、江戸の方から横浜方面を撮ったのか、それとも横浜の方から江戸方面を撮ったのか。そして、横浜の方から撮影したものであるようだ、と判断しています。

 写真の左手に延びている東海道の道路上には三人の男が立っています。その背後には藁葺き屋根の民家が並んでいます。真ん中の大木(松の木)の向こう側、東海道の右側には茶屋があって、そこから竹ぼうきを持った女性と男性が写真を撮るベアトの方を見詰めています。

 東海道の左手の空き地には、旅姿の一人の男が立っています。

 写真の陰からして、撮影時間は、朝ではなく午後だろう、それも夕方に近い、と松本さんは推定します。

 「そうしたら、この写真は、南西の方向から写されたことになる。つまり、ベアトが生麦の現場に到着するのが午後になった。逆光は、写真にとって、禁物だから、横浜を背にした順光の南西方向から写したという訳だ。」

 さすが、「朝日新聞東京本社写真部」に入社して活躍した「新聞カメラマン」。

 松本さんは、この『幕末漂流』の冒頭の部分でも、この「生麦事件の現場」の写真に言及していますが、それは「最近になって分かった」ことで、「この写真に意外な情報が写り込まれていた」ということ。その「意外な情報」とは、茶屋とその周りの家々の屋根に「イチハツ」の草が生えているということ。「イチハツ」というのは、あやめ科菖蒲の一種で、草葺き屋根の水分を適度に保たせるものであるという。専門家によれば、今までの研究では日本に渡来したのはもっと後のことだと言われていたらしい。

 この「イチハツ」については、私は、保土ヶ谷宿を歩いていたときの記憶があります。

 保土ヶ谷宿の今井川を「元町橋」で渡ったところに、「保土ヶ谷宿の『いちはつの花』」の案内板があり、そこには、江戸時代から昭和30年代頃まで、民家の萱葺屋根の上には、いちはつの花が咲き、それが保土ヶ谷の名物であったと記されていたのです。
 ※2007.5.25の記事─「東海道保土ヶ谷宿」取材旅行 その2─

 辞典には、「五月頃花茎を出し、紫・白の花をつける。火災を防ぐという俗信から、時に藁屋根の棟に植えられる」とあります。

 保土ヶ谷宿ばかりでなく、生麦村など東海道の沿道の民家の屋根にも、「いちはつ」が植えられていたということになります。

 私にとって面白かったのは、このことから、松本さんが思ったことでした。

 それは「写真に対する見方」ということ。

 松本さんは次のように記しています。

 「私が驚いたのは、その事実だけではなく、むしろ写真に対する見方の方だった。一枚の写真をどう「読む」かだ。すべての人に平等な情報を与えるはずの写真が、見る側、いや読む側の資質によってまったく別個の写真になってしまう。撮ったカメラマンの意図と離れて写真が一人歩きした好例である。」

 考えてみると、この「生麦事件の現場」写真が、厳密に言うと、現場写真ではない。
リチャードソンら女性を含む4人のイギリス人が薩摩藩士に襲撃された(斬りつけられた)現場は、この写真に写る東海道の奥(江戸方面)のところ。道の両側には、この写真の場所とは違って家々が密集していました。斬られたリチャードソンは、腸がはみ出て血がしたたる腹部を片手で押さえながら馬に乗ったままここまで逃げてきて、ついにこの場所付近で落馬。追いかけてきた薩摩藩士らにより道から少し離れたところに運ばれ、そこでとどめを刺されたのです。

 つまりベアトが写した「生麦事件の現場」とは、リチャードソンが落馬して殺された場所の写真ということになるわけです。

 歴史小説家の吉村昭さんは、この写真から見て、生麦事件の起こったところは村外れの寂しい場所であったろうと、当初は思い込んでいました。しかし現場に赴いた時に、それが写真を見ての思い込みであることを知りました。現場を歩くことがいかに大事であるかを痛感した、吉村さんにとっての記憶に残る出来事でした。

 一枚の写真を、どう「読む」か。

 これは、写真だけにとどまらないことのように思われます。



○参考文献
・『幕末漂流』松本逸也(人間と歴史社)
・『F.ベアト幕末日本写真集』(横浜開港資料館)
・『F.ベアト写真集2 外国人カメラマンが撮った幕末日本』横浜開港資料館編(明石書店)
・『幕末明治 横浜写真館物語』斎藤多喜夫(吉川弘文館)


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