この「村山古道」の探索・踏査を通して私が夢想したことをいくつか。
①「村山古道」は、畠堀さんや村山の人たちの手によってかなり整備されてきたとはいうものの、初めて歩く人にとってはまだまだ迷いやすく、また道がえぐれてしまったためと歩く人が少ないために歩きにくい道です。「富士山麓 山の村」の緑陰広場から上は比較的歩きやすい道ですが、それでも「大淵林道」あたりから登ってきたグループが道に迷って、予定時間を大幅に超過して「笹垢離」にたどりついたのを私たちは目撃しています。
「山の村」の緑陰広場より下、とくに「天照教」の駐車場から下の部分が迷いやすく、また一部「涸れ沢」のようなところを「藪漕ぎ」しなければならず、なかなか一般の人(家族連れなど)にお薦めできるルートではありません。
なぜ道が「涸れ沢」のようにえぐれてしまったかと言えば、これは杉やヒノキの大規模な植林によるものでした。「平安時代末から1000年かかって造られた登山道」が、戦後の杉やヒノキの植林によって、「わずか50年で」無惨なほどに荒廃してしまったのです。
ということは「村山古道」を保全・保護するためには、この登山道の沿道(両側)20~30mの杉・ヒノキの植林を伐採し、下草が生えやすい雑木林にすればよい、ということになります。かつてはこの登山道の沿道(標高1000m以下)一帯、いや全域がそうであったのです。そしてそこにはオールコックの記述にもあるように実に多くの生きものが生息していたのです。
そうすればえぐれている道も少しずつもとに戻り、完全に昔のようになるのは難しいけれども、今よりずっと歩きやすい道になっていくことでしょう。
家は人が住まなくなればすぐに荒れ果てていきます。それと同様に、道も人が利用しなければすぐに荒れ果てていきます。登山道も人が歩かなくなれば、あっという間に荒れ果てていきます。江戸時代まで盛んに利用されて来たこの村山口登山道も、廃仏毀釈で吹き荒れた嵐や東海道線・中央線などの開通により利用者は少なくなり、そのかつての賑わいは失われていきました。さらに富士山のすそ野の原生林や豊富な水を利用した製紙工場の進出により木材を切り出すための「木馬道」が設けられたことや、戦後の杉やヒノキの大規模な植林により(林道も縦横に整備されました)、かつての歴史ある登山道は寸断され破壊されていきました。
しかし今、効率や経済優先(もうけ主義)の考え方に大きな反省が生まれてきている状況の中で、スローペースでじっくりと生活を味わおうという気運が生まれています。その方が身心面においても、また大きくは生態系の面(環境問題)においても、ずっとプラスであるということがようやく人々に気付かれ始めているように私には思われます。
今までスカイラインで新五合目まで車で行き、そこから一気に頂上を目指した人々が、そのスカイラインが出来たことによって衰微し、顧みられなくなっていた古い登山道の価値を見出し始めたのです。
考えて見ると、富士山に限ってみても、富士宮口のスカイライン、須走口の登山道路、富士吉田口のスバルラインの終点の下には、その登山口まで古い登山道が続いていたのです。また須山にもあったはず。
「村山古道」を歩いてみて、私はほかのそういった古道(登山道)をも歩いてみたいと思うようになりました。
②私は今回初めて「村山古道」を村山の人たちといっしょに歩く経験をしましたが、その短い「道行き」の中でも、村山の人たちの「村山口登山道」の復活の願いをひしひしと感じ取ることが出来ました。先祖伝来の、「強力」(ごうりき)を始めとした、登山者(道者〔どうじゃ〕)の世話をする仕事で生計を立ててきた人々の、その「血」なり「遺伝子」というものが噴出してきているようにも思われました。
大型バスが連なってやってくる必要はない。
「歴史遺産」としてのかつての信仰の道を、歴史や文化を振り返りながら静かに歩いてみたいという人々を呼び込めるようなところにしたい。
そのためには宿泊施設も休憩施設も、また小ぶりの駐車場や、さらに道案内のガイドも必要。
2人の孫(小学生の兄弟)と、今回いっしょに「笹垢離」から旧四合目まで登った村山のご夫婦の脳裡には、そういう未来図が描かれているのに違いない。
いや、今回「村山古道・中宮八幡道祭り」に参加された人々には、多かれ少なかれ、同じ思いが共有されているに違いない。
帰途、スカイラインの駐車場には多くの車と観光客が密集していました。車のナンバーもいろいろでした。中でも「相模」ナンバーはマナーの悪さで、人々に評判がよくありませんでした。「相模」というと、きのこ取りにやってくるのも「相模」の人が多いらしい。やはり評判がよくありませんでした。同じ「相模」ナンバーで、「相模」の住民としては、それを聞いて肩身が狭い思いをしました。
沈む夕日と広がる夕焼けを眺めながら、肩を抱き合う若いカップルがたくさんいましたが、彼らがやがて子どもの手を引いて、地元のガイドの方の案内のもとに「村山古道」を歩いてくれる日が訪れたら、とまったく勝手ながら私は思っていました。
○参考文献
・『富士山 村山古道を歩く』畠堀操八(風濤社)
①「村山古道」は、畠堀さんや村山の人たちの手によってかなり整備されてきたとはいうものの、初めて歩く人にとってはまだまだ迷いやすく、また道がえぐれてしまったためと歩く人が少ないために歩きにくい道です。「富士山麓 山の村」の緑陰広場から上は比較的歩きやすい道ですが、それでも「大淵林道」あたりから登ってきたグループが道に迷って、予定時間を大幅に超過して「笹垢離」にたどりついたのを私たちは目撃しています。
「山の村」の緑陰広場より下、とくに「天照教」の駐車場から下の部分が迷いやすく、また一部「涸れ沢」のようなところを「藪漕ぎ」しなければならず、なかなか一般の人(家族連れなど)にお薦めできるルートではありません。
なぜ道が「涸れ沢」のようにえぐれてしまったかと言えば、これは杉やヒノキの大規模な植林によるものでした。「平安時代末から1000年かかって造られた登山道」が、戦後の杉やヒノキの植林によって、「わずか50年で」無惨なほどに荒廃してしまったのです。
ということは「村山古道」を保全・保護するためには、この登山道の沿道(両側)20~30mの杉・ヒノキの植林を伐採し、下草が生えやすい雑木林にすればよい、ということになります。かつてはこの登山道の沿道(標高1000m以下)一帯、いや全域がそうであったのです。そしてそこにはオールコックの記述にもあるように実に多くの生きものが生息していたのです。
そうすればえぐれている道も少しずつもとに戻り、完全に昔のようになるのは難しいけれども、今よりずっと歩きやすい道になっていくことでしょう。
家は人が住まなくなればすぐに荒れ果てていきます。それと同様に、道も人が利用しなければすぐに荒れ果てていきます。登山道も人が歩かなくなれば、あっという間に荒れ果てていきます。江戸時代まで盛んに利用されて来たこの村山口登山道も、廃仏毀釈で吹き荒れた嵐や東海道線・中央線などの開通により利用者は少なくなり、そのかつての賑わいは失われていきました。さらに富士山のすそ野の原生林や豊富な水を利用した製紙工場の進出により木材を切り出すための「木馬道」が設けられたことや、戦後の杉やヒノキの大規模な植林により(林道も縦横に整備されました)、かつての歴史ある登山道は寸断され破壊されていきました。
しかし今、効率や経済優先(もうけ主義)の考え方に大きな反省が生まれてきている状況の中で、スローペースでじっくりと生活を味わおうという気運が生まれています。その方が身心面においても、また大きくは生態系の面(環境問題)においても、ずっとプラスであるということがようやく人々に気付かれ始めているように私には思われます。
今までスカイラインで新五合目まで車で行き、そこから一気に頂上を目指した人々が、そのスカイラインが出来たことによって衰微し、顧みられなくなっていた古い登山道の価値を見出し始めたのです。
考えて見ると、富士山に限ってみても、富士宮口のスカイライン、須走口の登山道路、富士吉田口のスバルラインの終点の下には、その登山口まで古い登山道が続いていたのです。また須山にもあったはず。
「村山古道」を歩いてみて、私はほかのそういった古道(登山道)をも歩いてみたいと思うようになりました。
②私は今回初めて「村山古道」を村山の人たちといっしょに歩く経験をしましたが、その短い「道行き」の中でも、村山の人たちの「村山口登山道」の復活の願いをひしひしと感じ取ることが出来ました。先祖伝来の、「強力」(ごうりき)を始めとした、登山者(道者〔どうじゃ〕)の世話をする仕事で生計を立ててきた人々の、その「血」なり「遺伝子」というものが噴出してきているようにも思われました。
大型バスが連なってやってくる必要はない。
「歴史遺産」としてのかつての信仰の道を、歴史や文化を振り返りながら静かに歩いてみたいという人々を呼び込めるようなところにしたい。
そのためには宿泊施設も休憩施設も、また小ぶりの駐車場や、さらに道案内のガイドも必要。
2人の孫(小学生の兄弟)と、今回いっしょに「笹垢離」から旧四合目まで登った村山のご夫婦の脳裡には、そういう未来図が描かれているのに違いない。
いや、今回「村山古道・中宮八幡道祭り」に参加された人々には、多かれ少なかれ、同じ思いが共有されているに違いない。
帰途、スカイラインの駐車場には多くの車と観光客が密集していました。車のナンバーもいろいろでした。中でも「相模」ナンバーはマナーの悪さで、人々に評判がよくありませんでした。「相模」というと、きのこ取りにやってくるのも「相模」の人が多いらしい。やはり評判がよくありませんでした。同じ「相模」ナンバーで、「相模」の住民としては、それを聞いて肩身が狭い思いをしました。
沈む夕日と広がる夕焼けを眺めながら、肩を抱き合う若いカップルがたくさんいましたが、彼らがやがて子どもの手を引いて、地元のガイドの方の案内のもとに「村山古道」を歩いてくれる日が訪れたら、とまったく勝手ながら私は思っていました。
○参考文献
・『富士山 村山古道を歩く』畠堀操八(風濤社)
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