Our World Time

男はつらいよ、発信もつらいよ

2011年04月06日 | Weblog
▼いまは4月6日水曜の午前4時になるところです。夜明けが近づいてきます。
 トリスタンとイゾルデの前奏曲を片耳で聴きながら、この未明も、会員制レポートの仕上げに取り組んでいます。いま朝に昼、それに夜のふつうの時間帯も、書く時間がありませぬ。
 時間は、平時よりもさらに、ほんとうにどんどん飛び去りますね。原子力災害の鎮静も、被災地の復興も、まだくぐるべき入り口すらくぐり抜けていません。
 窓から、明かりの消された暗い、異様な首都高速を、いつもよりずっと少ない車が行き来するのが遠くに見えています。

 きのうの昼、ネットテレビの「青山繁晴.TV」(あおやましげはる・ドット・ティーヴィー)に、3月20日の日曜に行われた講演会の模様の一部をアップしました。
どなたでもご覧になれます。

 3月11日午後2時46分に、運命の大震災が発生して以来、「震災や原子力災害をどう考えているか、会員制レポート以外にも広く発信してほしい」という声を多くいただきました。
 しかし関西テレビの報道番組「アンカー」は、フジテレビの特別番組のために放送中止となり、講演会などもほとんどが中止となり、またぼく自身が大腸癌の手術後に起きた腸閉塞のためにまだ入院中だったこともあって、なかなか思うに任せませんでした。

 そうしたなか、前代議士の西村眞悟さんが、みずから企画された講演会について中止するか開催するか、じっくり考慮されたうえで開催を決意され、ぼくも予定通りに大阪・堺の会場ホールに向かいました。
 3月19日の土曜に最終的に退院した、その翌日のことです。

 西村さん、そして前航空幕僚長の田母神俊雄閣下がそれぞれ憂国の講演をなさったあと、ぼくも,つたない講演をいたしました。
 ふだん講演では、平均2時間半ほど話しますが、この日は、西村眞悟事務所から「40分間で」と告げられていました。
 そして、ぼくの講演のあとに、ぼくが不肖ながらコーディネイターを務めて西村さん、田母神さん、元海上保安官の一色正春さんによる討論会も予定されていましたから、たいへんに時間が限られた講演だったとは言えます。
 実際の講演は、すこし延びてしまって小一時間あったかもしれません。
「青山繁晴、時事インタビュー with 田母神俊雄、一色正春、西村眞悟」という、ちょっと不思議な講演会の名称になっていますが、これは、上記の討論会のことを指しているのでしょうね。西村眞悟事務所の命名です。

 一色さんからはその後、「講演中に舞台から飛び降りるというような無茶をしないでほしい」という、あたたかな気持ちのこもった手紙が思いがけず届きました。
 あのホールの舞台には、一見したところ階段がなく、しかし時間が短くてもいつものように聴衆のなかに一緒に入って、聴衆を見おろすのではなく同じ立場で話したかったから、ごく自然に飛び降り、また舞台に飛び上がり、また降りることをしました。
 一色さん、大丈夫ですよ、手術の傷は、さして痛んでいません。すこし痒いぐらいのものです。ふひ。

 この講演を、いつも「青山繁晴.TV」の動画編集をしてくれるプロデューサー集団が、YouTubeに収まるように編集してくれました。
 今回のアップは「その1」です。


▼これは3月20日の講演ですから、大震災が起きてまだ、9日目です。視てみようかな、というかたは、あくまでもその段階での講演であることを踏まえていただいて、もしもよろしければご覧ください。

 西村さんの講演などは、西村眞悟さんの公式HPにアップされています。


▼きょう水曜日は、日帰りで大阪に行き、関西テレビの報道番組「アンカー」の生放送に参加(出演)します。
 このアンカーは、震災発生後の最初の週、3月16日水曜は前述のように放送されませんでした。
 その翌週3月23日水曜は、放送はされたものの放送時間がふだんとまったく異なっていて、視てくれた方は、いつもの放送では考えられないぐらい少なく、「青山のニュースDEズバリ」コーナーはありませんでした。
 その翌週3月30日水曜も、ふだんと異なる時間に放送され、視てくれた方は、さらに少なく、コーナーもありませんでした。
 この番組のための情報の収集は、ふだんに増して膨大な時間を費やす作業となっていましたから、3月30日放送の翌日に視聴者のあまりの少なさが分かったとき、さすがに、いくらかは、がっくりときました。

「ネットではいつものように、みんな視ているんですよ」というメールや書き込みもいただきました。感謝しています。
 ただ、ネットには無縁の、たとえばふだんはTVニュースも新聞も見ないというおばあさんが「あのコーナーは楽しみに視てるんですよ」という、ご家族からのメールや手紙をいただくことが、ぼくの支えのひとつでしたからね。

 そして今週4月6日水曜は、生放送の開始時刻は、午後4時48分です。
 ディレクターからの電話によると、4月から、番組開始が従来の午後4時53分から5分早まることになっていた(番組の終了はこれまでと同じ午後5時54分)そうですから、つまり今週からやっと、ほんらいの放送時刻に戻るわけですね。
 しかし、なぜか、コーナーは今週も無いそうです。

 いつも申しているように、番組の構成は、一参加者に過ぎないぼくが干渉することでは全くありません。
 ただ、きのう夜は、ディレクターの電話に思わず聞きました。「放送時刻が戻るのに、なぜコーナーは戻らない?」
 ディレクターは、その誠実な人柄のままに、一生懸命にいろいろ語ってくれました。その中身はここに記しません。公開を前提にした会話ではありませんから、それをそのまま記せば、信義に反します。ただ正直、よく分かりませんでした。

 視聴者からは、テレビ局にも「コーナーを早く復活してほしい」というメールが多いそうです。
 同じ内容のメールや書き込みは、ぼくにも、ほんとうに沢山、来ています。
 それと、大震災という非常時だからこそ、ぼくにはコーナーでじっくり話す責務もあると考えます。だから心苦しいです。
 それでも番組にまったく出ないよりは出る方が、視聴者からの問いかけにいくらかは応えることになるのじゃないかと考えるほかありません。

 震災前は、前日に大阪入りして、コーナーのために長時間の議論をしていました。
 ぼくと独研(独立総合研究所)にとっては、それが日帰りであっても、かかる手間はほぼ同じです。前述のように膨大な情報収集をやりますし、放送前日のゆうべは、かなり長時間の「電話打ち合わせ」で拘束されましたから。
 きょう午前中に、もう一度、電話で打ち合わせを、とディレクターはおっしゃいましたが、それはあえてお断りしました。

 父方にも母方にも、ただのひとりも出ていない癌を、発病し、大腸を切り取り、そのほかに尿路結石や重症肺炎や腸閉塞やらをじっくりと味わい、二度ばかり死に直面して、こうやって生還してから、ひとつ決めたことがあるのです。

 それは、「先方のこの依頼は、あまりにも…」と独研の総務部が嘆いたりするような仕事は、こころを鬼にしてでも、もはや断ろう、ということです。
 それはたとえば、長時間の講演の大部(だいぶ)の講演録の修正を、無償で引き受けて何日も何日も、もっと何日も、その完成に費やして、自分の本来の原稿執筆などが、ほとんどできないということです。
 電話は長時間の電話であっても、それよりは当然ずっとマシですが、時には大きな負担になります。


▼もう会員制レポートに戻ります。
 それにしても、震災のあと、独研のメール送受信に不可解な異変が、頻繁に、執拗に続発しています。
 レポートの配信が何度も遅れました。
 捜査機関による法に基づく調べも、あらためて始まりました。

 福島原子力災害などについて記している内容が、それほどに邪魔になるのかなとも考えますが、どうせ負けはしないから、妨害工作者がもしもいるとしても無駄なことです。
 2000年3月30日に第1号を配信していますから、この4月から、足かけ12年目に入りました。いま仕上げているのが、第503号です。
 500号の峠を越えたときは、ちょっとだけ嬉しかった。

 あ、きれいな夜明けの色になってきた。まもなくRKB毎日のラジオ番組への参加です。
 ほんとは…ねむたい、ただただ、ねむったい。