板倉聖宣著「死んだらどうなるか」を読む③
◆身体と心は一つ
人間の身体と心は一つです。そして、身体は、自然の法則=科学の法則通りに動きます。そのこちをよく承知していないと、科学の問題を正しく考えることができなくなることがあります。
たとえば、「体重をはかったすぐ後に2キログラムのものを飲み食いして、またすぐに体重をはかったら、体重はどのくらいになるか」という問題を考えてみましょう。
こういうとある人は、「2キログラムのものを食べたら、ちょうどその分だけ重さがふえる」と考える人がますが、他の人々はそうは考えません。
「いくら食べ物を食べたって、それはすぐには自分の身体にならない。だから、食べた直後に体重をはかっても体重はまったく変わらない」と考える人もいます。
また、「食べると、その飲食物の重さの半分くらいだけの重さが増える。いくら食べても、その一部は人間の生命活動や精神活動に使われるから」という人もいます。
しかし、この問題は、「その飲食物を袋に入れて、身体に結びつけたどうなるか」とまったく同じに考えていいのです。人間はいくら生命活動をしていると言っても、重さの変化の仕方は、物体の法則と全く変わることがないからです。
人間がいくら活発に生命活動をしてても、うんこやおしっこをしたり、汗をかいたり、息を吐き出さなければ、その体重は減らないのです。そいて、飲み食いすれば、ちょうどその飲食物の重さ分だけ体重が増えることになるのです。
人間が死ぬと、焼き場というところで燃やしてしまうのが普通です。焼き場では、それまでその人の身体を作っていた器官も燃えてしまいます。<遺骨>と言って、骨を作っていた原子の一部と気体にならない原子だけは灰となって残りますが、その他の原資はみな、空気中の酸素原子と結びついて、期待となって煙突から出ていってしまいます。ふつうはその<遺骨>だけを、瀬戸物の入れ物の中に入れてお墓の中に納めるのです。
人間が死んだら、遺骨と一部の灰にのほかは何も残らないのです。
しかし、何も残らなくても、その人を知っていた人々の心には、いろいろな思い出が残ります。その人と一緒に経験した楽しい思い出や苦しい思い出、なつかしい思い出が残ります。夢にも見ることでしょう。だから、その人は後に残された人々の頭の中だけに残り続けることになります。
そこである人々は、自分たちの思い出に残るものをその人の<霊>と考えました。そして、その人の<霊>は何時までも生き続けると考えてきました。そういう意味では「その人の思い出が生き残る限り、その人の霊は生き残る」ということも言えるのです。
それだけではないかもしれません。人間が死ぬと、それまで身体を作っていた原子がばらばらになってしまいますが、気体になって飛び散った原子のうち、二酸化炭素になった原子は植物の葉の中に入って、植物の栄養になることもあるでしょう。その植物をほかの人が食べると、それはまた人間の身体に入ることになります。また死んだ身体が燃えたときに水蒸気になった原子は、冷えて水になり、また誰かの身体の中に吸収されるかもしれません。こうして、世界中の原子は、あちこちに移動して「生き返っている」とも言えます。
◆二種類の真実
この世には、二種類の「真実」があります。その一つは「科学の世界」で、もう一つは「心の世界」です。
科学は、たくましい創造の上に実験を重ねて、この世の真実を発見してきました。その科学の世界では、地獄も極楽も天国もありません。霊魂などというものもないのです。
しかし、科学の世界だけで満足しない人びともいます。「心の世界では、死んだ人もその思い出をもった人びとの心の中に生き続ける」ということもできるのです。そういう意味では、その人びととの霊は、肉体とは別に生き続けることになります。とくにそのような「心の世界」のことが気になる人びとは、「信仰の世界=宗教の世界」を求めます。
科学の世界では死んだら何も残らなくても、宗教の世界では、多くの人びとの霊は生き続けると言っていいのです。
信仰の世界では、「人間は神様がお作りになったものだ」と信じてもいいし、「人間は死んだら神様のいる天国に召されるのだ」と信じてもかまいません。
しかし、その反対に、宗教の政界では何と言おうと、科学の世界では、「人間が死んだらただの原子になってしまう」というのが正しいことになるのです。
この二つのことをごっちゃにしてはいけません。
(おわり)
注)
この文章は、雑誌「たのしい授業」1993年3月号に掲載されたものです。
板倉氏は、2018年に、87歳で、亡くなられました。その葬儀が、東京都府中市で行われました。自分の葬儀の参考にしようとの思いもあり、参列してきました。
お坊さんも呼ばない、まったく「独自の形式」の葬儀となりました。
2人の司会のもと、多くの方々が、「板倉氏の思い出」を語り合うというものです。勿論、香典もありません。参列者は、花1本を献花しました。参列者が多すぎて、花が足りなくなり、花は、何回も回し使われていました。
この葬儀で、配られたのが、「死んだららどうなるか」と「板倉氏の経歴・著書を書いた年譜」でした。
その後、私は、板倉氏の遺骨が入っている「科学の碑」(新潟県魚沼市=旧湯之谷村・東養寺にある)の友の会に、妻・節子とともに入会しました。
伊豆に住んでいる節子の姉から、「私が先に死ぬとは思うが、死ぬ前に、あなたたちの墓を見てみたい」との話があり、私ら夫婦・義姉・次女の4人で、新潟県魚沼市に、科学の碑を見にいてきました。雪が多いので、冬に亡くなった時には、納骨は、春でいいと言ってあります。
「菊池伸浩・節子の年譜」も作ってあります。
◆身体と心は一つ
人間の身体と心は一つです。そして、身体は、自然の法則=科学の法則通りに動きます。そのこちをよく承知していないと、科学の問題を正しく考えることができなくなることがあります。
たとえば、「体重をはかったすぐ後に2キログラムのものを飲み食いして、またすぐに体重をはかったら、体重はどのくらいになるか」という問題を考えてみましょう。
こういうとある人は、「2キログラムのものを食べたら、ちょうどその分だけ重さがふえる」と考える人がますが、他の人々はそうは考えません。
「いくら食べ物を食べたって、それはすぐには自分の身体にならない。だから、食べた直後に体重をはかっても体重はまったく変わらない」と考える人もいます。
また、「食べると、その飲食物の重さの半分くらいだけの重さが増える。いくら食べても、その一部は人間の生命活動や精神活動に使われるから」という人もいます。
しかし、この問題は、「その飲食物を袋に入れて、身体に結びつけたどうなるか」とまったく同じに考えていいのです。人間はいくら生命活動をしていると言っても、重さの変化の仕方は、物体の法則と全く変わることがないからです。
人間がいくら活発に生命活動をしてても、うんこやおしっこをしたり、汗をかいたり、息を吐き出さなければ、その体重は減らないのです。そいて、飲み食いすれば、ちょうどその飲食物の重さ分だけ体重が増えることになるのです。
人間が死ぬと、焼き場というところで燃やしてしまうのが普通です。焼き場では、それまでその人の身体を作っていた器官も燃えてしまいます。<遺骨>と言って、骨を作っていた原子の一部と気体にならない原子だけは灰となって残りますが、その他の原資はみな、空気中の酸素原子と結びついて、期待となって煙突から出ていってしまいます。ふつうはその<遺骨>だけを、瀬戸物の入れ物の中に入れてお墓の中に納めるのです。
人間が死んだら、遺骨と一部の灰にのほかは何も残らないのです。
しかし、何も残らなくても、その人を知っていた人々の心には、いろいろな思い出が残ります。その人と一緒に経験した楽しい思い出や苦しい思い出、なつかしい思い出が残ります。夢にも見ることでしょう。だから、その人は後に残された人々の頭の中だけに残り続けることになります。
そこである人々は、自分たちの思い出に残るものをその人の<霊>と考えました。そして、その人の<霊>は何時までも生き続けると考えてきました。そういう意味では「その人の思い出が生き残る限り、その人の霊は生き残る」ということも言えるのです。
それだけではないかもしれません。人間が死ぬと、それまで身体を作っていた原子がばらばらになってしまいますが、気体になって飛び散った原子のうち、二酸化炭素になった原子は植物の葉の中に入って、植物の栄養になることもあるでしょう。その植物をほかの人が食べると、それはまた人間の身体に入ることになります。また死んだ身体が燃えたときに水蒸気になった原子は、冷えて水になり、また誰かの身体の中に吸収されるかもしれません。こうして、世界中の原子は、あちこちに移動して「生き返っている」とも言えます。
◆二種類の真実
この世には、二種類の「真実」があります。その一つは「科学の世界」で、もう一つは「心の世界」です。
科学は、たくましい創造の上に実験を重ねて、この世の真実を発見してきました。その科学の世界では、地獄も極楽も天国もありません。霊魂などというものもないのです。
しかし、科学の世界だけで満足しない人びともいます。「心の世界では、死んだ人もその思い出をもった人びとの心の中に生き続ける」ということもできるのです。そういう意味では、その人びととの霊は、肉体とは別に生き続けることになります。とくにそのような「心の世界」のことが気になる人びとは、「信仰の世界=宗教の世界」を求めます。
科学の世界では死んだら何も残らなくても、宗教の世界では、多くの人びとの霊は生き続けると言っていいのです。
信仰の世界では、「人間は神様がお作りになったものだ」と信じてもいいし、「人間は死んだら神様のいる天国に召されるのだ」と信じてもかまいません。
しかし、その反対に、宗教の政界では何と言おうと、科学の世界では、「人間が死んだらただの原子になってしまう」というのが正しいことになるのです。
この二つのことをごっちゃにしてはいけません。
(おわり)
注)
この文章は、雑誌「たのしい授業」1993年3月号に掲載されたものです。
板倉氏は、2018年に、87歳で、亡くなられました。その葬儀が、東京都府中市で行われました。自分の葬儀の参考にしようとの思いもあり、参列してきました。
お坊さんも呼ばない、まったく「独自の形式」の葬儀となりました。
2人の司会のもと、多くの方々が、「板倉氏の思い出」を語り合うというものです。勿論、香典もありません。参列者は、花1本を献花しました。参列者が多すぎて、花が足りなくなり、花は、何回も回し使われていました。
この葬儀で、配られたのが、「死んだららどうなるか」と「板倉氏の経歴・著書を書いた年譜」でした。
その後、私は、板倉氏の遺骨が入っている「科学の碑」(新潟県魚沼市=旧湯之谷村・東養寺にある)の友の会に、妻・節子とともに入会しました。
伊豆に住んでいる節子の姉から、「私が先に死ぬとは思うが、死ぬ前に、あなたたちの墓を見てみたい」との話があり、私ら夫婦・義姉・次女の4人で、新潟県魚沼市に、科学の碑を見にいてきました。雪が多いので、冬に亡くなった時には、納骨は、春でいいと言ってあります。
「菊池伸浩・節子の年譜」も作ってあります。