★ Serena ★

カナダ暮らしのエスペランチスト、自然愛好家。
エスペラントやカナダの野草、ネーチャークラブの活動など思いつくままに。

ちょっと嬉しかったこと

2006-11-30 14:25:28 | Weblog
                                                                
昨夜TVを付けたら、「Jeopardy」というゲーム・ショーをやっていました。このショーは広範囲の分野に亘って豊富な知識を持っていないと参加できません。ちょっと捻くれたルールで、質問は「解答」の形で、答えは必ず「What is..」「who is...」と質問の形にしなければなりません。
昨夜は接戦で、参加者三人はほぼ同点で最期に来ました。最期は質問のカテゴリーを知らされ、そこで参加者たちは自分の賭ける点数を決めます。それが決まってから質問が公表されるのですが、自信が無く僅かしか賭けず、又は過信して大きく賭けすぎ、シマッタ!という現象も起るのが面白いところなのです。カテゴリーは「言語」でした。「…この言語は名詞に性別が無く語尾はOで終わる…」というのが質問です。3人とも正解でした。3人とも正解と言う所が嬉しかったのです。
常日頃色々な分野にわたって勉強している人たちなのですから当然かも知れませんが。。聴視者の中にはエスペラントって何?と言う人だって居たかもしれませんけれど、ネ。
因みにエスペラント"語"と最後に『語』をつけないのが常識です。

                              

携帯電話今昔

2006-11-29 13:08:40 | Weblog
<関係ない写真、あっはっはっ。。>
マウスオーヴァーで一秒待つ

1999年この携帯電話を買った時、このサイズでも決して大きい方ではありませんでした。便宜上持つ必要があって買ったもので、絶対必要な物でもなかったのですから、普段はOFF状態にしておくのですが、ツアーなどではハイウエーを走っている時でも連絡が取れるという利点があったのです。
ツアーのオフシーズンには電話の使用もオフにしてもらい経費を節約したりしていました。その後この電話会社が身売りし、名前も変わって規則も少し変わりました。
色々な「プラン」があり、その中でも最も安い「スモール・トーク」は月々基本は$15に税金という程度なので、何回か長距離電話をかけても$20前後ですからこれを使っていました。
ところが最近バッテリーのリチャージが思わしくなく、電話が通じなかったことがあり、万一に備え新調の必要が出て来たのです。
調べてみると、二年契約だと電話機は無料になるのですが、その場合「スモール・トーク」は諦めなければなりません。その上月々の支払いが最低でも$31。
売り子のお姉さんは「スモール・トーク」を維持したかったら、電話機代を払っても15ヶ月で元取れるわよ、と言います。確かに。
「スモール・トーク」の良さの一つは他の町へ行ってそこで市内の電話に掛けた時はエリアコードが異なっても市内電話扱いになることです。そして今持っている人は継続出来るけれど新しく買う人には存在しないプランなのです。
得難いとなればなおのこと惜しくなります。そしてこれに決めました。
最近の携帯電話はカメラだなんだと色々余分な物が付いていますが私は出来るだけシンプルな方が良いのです。それでもマニュアルを読むと全部使いこなすには。。。と言う感じ。
この小さい電話機は最新のもので市場に出てまだ2ヶ月とか。あまり小さいので失くす可能性充分です。カメラのようにリスト・ストラップが付いていれば良いのに、とちょっと意見を言ってきました。

つららパンジー

2006-11-26 08:43:05 | 季 節

<>
マウスオーヴァー、ワン・クリックです。

どなたか、「アイス・パンジー」と教えてくれましたが、正しくはアイシクル(氷柱)パンジーなのですね。
我が家から東に7軒目のお宅の庭先に咲いています。ご丁寧に名札もつけて。
霜の朝撮りに行きましたが、相変わらずドジってマクロを使うのを忘れ、ピンボケも甚だしい写真にビックリ。ナンダ、このカメラは!
で、カメラの間違いではなく私の頓馬サが原因と気付き撮り直しに行きました。
その朝も霜がしっかり花を覆っていましたが朝日を受けて刻々と霜は融けていきます。花びらにまだ残る氷にむしろ活き活きとしている花でした。
検索すると、極寒の真冬まで咲き続けるそうです。そして翌年もまた蘇るとのこと。

「金魚の糞」が貰ったご褒美

2006-11-23 09:41:13 | Weblog
<>
ご褒美のセット。裏写真は歓談するメンバーたち

昨夜はNPCA(ナイアガラ半島自然保存局とでも訳しましょうか)のヴォランティァ授賞式。。。ということで「木のインヴェントリー」に参加していたクラブのメンバーも出かけました。サンドイッチ、生野菜、チーズにクラッカー、それにクッキー、そしてワインとビールも。
そういうものを頂きながら名前を呼ばれる順番に並んで頂いてきたご褒美です。
家族ぐるみでヴォランティァしている人たちも何組かありました。スピーチが短くて良かったです。ヴォランティァの数は700人とかですから、長々としゃべっていたら夜が明けてしまいますしね。
金魚の糞で、付いて廻っていただけの私としては気が引けましたが、「数は力なり」と言う言い草もあるとか。
「私、散歩について行ってただけなのよ」とジャネットが言ってましたが、彼女も自分を金魚の糞と思っている一人です。
ご褒美の中に小さな万歩計が入っていました。
これを見て「私達のインヴェントリーでは、一時間歩いても10位しか数字は出ないねェ」とジョイス。皆頷きながら苦笑しています。でも、みんな楽しそうでした。新鮮な空気に当たり、散歩して、その上何かしら学んで、それで感謝されご褒美を貰うのだから、こんな良い事無いというのがみんなの本心のようです。
ご褒美を当てにしてしたことではないのだけれど、ありがとうと言われればやはり嬉しいですから。

トロントが見えたので。。

2006-11-21 08:07:17 | Weblog
<>
昨日はナイアガラ・オンザ・レークへ出掛けました。湖畔は風も冷たく指先が痺れます。曇っていたにもかかわらず湖畔に立つとトロントが見えました。ズームを使って写真を撮ってみました。前のカメラでは絶対出来なかったことです。直線距離にして約50km先のトロントのスカイラインです。左側にCNタワーもはっきり見えます。
この湖、オンタリオ湖は広さが四国と同じ位あります。日本一広い琵琶湖の38倍(だったかな?)です。
ナイアガラ・オンザ・レークの町は日本人も含めて観光客がチラホラ歩いていましたが寒々としていました。クリスマスの賑わいにはまだちょっと間があるようです。
追記:
この写真はポートレートの設定で撮っていたことが判ったので(ドジっ!)、雲ひとつ無い快晴の今日もう一度試すべくでかけましたら。。。
アレレ。。。美しい青空に湖水の色も青く映えて、にもかかわらずトロントは影も形も見えませんでした。トロントは曇りなのです。
バーダーたちがスコープを構えて頑張っていました。クラブのメンバーもそこに居たので「What's going on?」と聞いたら「Nothing」という返事。Razerbillという東海岸の水鳥が此処に来ているという情報を聞いてもう何日も頑張っている人たちもいるとか。この「Nothing」は何も居ないという意味だったらしいです。トロントやデトロイトからまで来ている人も居ると聞いて驚きでした。バーダーもここまで来るとちょっと気違いじみてますねェ。

薄っすらと雪

2006-11-20 10:58:16 | 季 節
今朝は薄っすらと。気温は2℃。散歩をちょっと躊躇う寒さです。これがだったら、気分よく散歩できる朝なのですが。
又の休暇で帰省していたも昨夜北に帰ってしまい、家の中はひっそりしています。
裏庭に溜めてあった枝を二人ともすっかり忘れ、土曜日に出しそびれたので来春まで待たなければなりませんが、彼は決められた長さ以内に切り、決められた太さ以内に束ね、昔彼らの遊び場として父親が立ててくれた「イエロー・ハウス」に保管してくれました。
屋根に上って雨樋に溜まった木の葉も掃除してくれたし、その他の細々とした雑用もしてくれました。こんな時、息子が居るってあり難い事だとしみじみ思います。
いつものようにグロッサリ-の買い置きもしてくれました。ちり紙とか缶詰とかなら保存に困りませんが、肉類は冷凍庫が満杯できついから沢山買わないで、と言ってあるにもかかわらず、です。私自身毎回の肉料理は辛いと感じる年齢になったらしく大した量を食べないのですが、彼は自分を基準に考えて買ってくるので、春まで持ちそうです。
鷲掴みで食べる2ヶ月前のウサちゃんあと30分位でから電話が来ます。
鷲掴みで食べていたちゃんがスプーンを使って食べることに成功した、と先日報告がありましたが、今日はどんな報告でしょうか。

猫と二人で暮らす冬は寂しすぎるほど静かです。

          

ローマンのワイン

2006-11-17 08:34:24 | Weblog
昨日の朝『今日の午後家に居る?』とブライアンから電話がありました。『ワインテースティングするから。。。』
何のことか良く判らなかったのだけれど、彼は素人ワイン造りのクラブメンバーで州内及び全国のコンクールで幾つも金賞を貰っている人、彼がワインと言う時は悪いことは無いので『OK』です。
約束の一時半頃彼はやってきました。ラベルの付いていないビンを一本提げて『これなのよ、ちょっと味見してみて。。』
『どう?』
『美味しいけど。。』未だに意味が判りません。
ブライアンのハウス・ワインほどではないけれど、上等です。少し酸味が強い気がするけれど甘味も適当にあって緩和されている感じだし。
『二ケース貰ってくれる?』
何ジャト?二十四本?
事情を聞けば、彼の友人ワイン造り仲間のローマンが、自分の造ったこのワインが気に入らず貰ってくれる人が居なかったら捨ててしまう心算とか。
私の夫の口癖は『この世に不味いワインという物は無い、より美味しいかどうかというだけだ』でした。実際には不味いワインは沢山ありますが、ローマンのワインはそのカテゴリーには入りません。後で味見した我が息子も『上等じゃン』と言っていましたし。
そんな訳で二ケースの白ワインが我が手元に。一年も持つねェ。それは無理でも半年はワインに不自由しない身となりました。
ローマンには未だお礼を書いていませんが、封筒は住所も書いて用意したので、今日は投函しましょう。
    

リコさ~ん、出来ましたよぅ!!

2006-11-15 16:43:58 | Weblog

プリンターのインクが減っていたのか色が悪いですが出来ましたよ。
英語のワードには「罫線」という言葉が無く、それがTable(表)のことだと気が付くまでに時間が掛かりましたが、とりあえず一枚作ってみました。

何の話か判らない方はりこのつぶやきへどうぞ。

基本を一枚作っておけば、日の数字を入れ替えるだけでどの月にも使えます。ページの色を月ごとに換えるなどと言うことも出来ますね。
まずは納得しました。ありがとう。
クリックして大きいページを見て下さい。
中味の説明・・・・Grey box、Blue boxはゴミのリサイクルの日で、グレーは紙類、ブルーはガラス瓶、プラスチック類です。台所のゴミ(つまり生ゴミ?、肉類、骨、皮、乳製品、腐敗するものは何でもOKです。)は毎週です。
Branch collectionは庭などから切った枝を束ねてダス日で、年に何回か、夏はより頻繁に、今年はこれが最後です。

ニコラ・テスラ

2006-11-13 08:14:40 | Weblog
ナイアガラ瀑布を見下ろすテスラ像
<テスラのクローズアップ
<後方に見えるのがイルミネーション・タワー
<何故か悲しげな表情の。。
<テスラの生涯に思いを馳せる
<滝の飛沫に濡れて立つ長身、痩身のテスラの後姿

先日、イルミネーション・タワーの側に新しい銅像が建っているとに言われました。確かに私も車で通りながら気が付いていたのですが、見に行く機会がありませんでした。虹に映えるアメリカ滝とテスラ像の落とす影、全く気付かぬ風で通り過ぎる若者達は日本人らしかった
そこで、温室に車を停めイルミネーション・タワーまで歩い行っててみました。
往復のブラブラ歩きは公園の土産店で油を売ったのも含め一時間強、いい散歩です。
近づくに連れてその長身の銅像の顔立ちも少し判って来、テスラに違いないと直感しました。毎日電気のお陰を蒙っている人間ならテスラを知らないのは恥です。
彼の巨大な坐像はアメリカ側、ゴート島にデンと座っていますから、見た事のある人は多いでしょう。お客様にもあの人誰ですか?と聞かれたことはしばしばあります。でも、ニコラ・テスラ、と答えると、怪訝な顔をする人ばかりで、アアと頷くのは少数の男性に限られていました。
ナイアガラの滝を見るような形で立っているこの像にはまだプラク(碑)も付いていません。銅像の足もとに僅かに、読みにくいけれど彼の言葉が彫られてありました。
「The possibilities of will power and self control appealed tremendously to my vivid
imagination.. until finally my will and wish become identical. They are so today, and in this lies secret of whatever success I have achieved. My imaginings were equivalent to realities.
Tesla, 1915」

テスラとエジソンの不和は良く知られた事実のようですが、テスラの才能に嫉みを感じていたエジソンに非があると私は感じています。エジソンを尊敬し、それゆえに彼の元で働く気になったテスラだったのですから、エジソンに嫉みを隠す才能が有ったら、二人の協力でもっと素晴らしい物が発明されていたかもしれません。ことがそのように運ばなかったのは期が熟していなかった、社会が未だそれを受け入れる態勢になっていなかったということなのでしょう。
アメリカ滝、右側の小さい滝が花嫁のベール カナダ滝、別名馬蹄滝
多くの人は単なる観光地としてしか見ていないかもしれないナイアガラ瀑布。
だが、このエネルギーを産業に。。と考えた人は多かった。

テスラについての英語の資料は少し読んだことがありますが、日本語で検索してみたら沢山ありました。私が苦労して訳す必要も無いので、幾つかここに引用します。それぞれ立派なサイトが有るので訪ねて見て下さい。

ニコラ テスラの偉業
ニコラ テスラの悲劇 ~歴史に消された科学者
(詳しくはこのサイト↑を訪ねて下さい)
 ニコラ テスラは、1856年7月にクロアチアに生まれた。大学で電気工学を学んだ後、パリで働く。その後、アメリカにわたり、エジソンの会社で働くが、意見が対立し退社することになる。原因は、送電方式の対立にあった。電力を送るための送電方式には、直流方式と交流方式があるが、エジソンは直流方式を、テスラは交流方式を主張したのである。それぞれ、メリット、デメリットがあるが、結果として交流方式が勝利する。この時点においては、テスラが正しく、エジソンは間違っていたことになる。
 ところで、エジソンほどの人物がなぜ判断を誤ったのか?私見ではあるが、エジソンは交流方式がよく理解できなかったのではないだろうか。直流方式は中学生の知識で十分理解できる。しかし、交流方式は、大学で学ぶ微積分学が不可欠となる。だが、エジソンはそのプロセスを経ていない。

 ニコラ テスラは、マッド サイエンティストなどではなく、真面目で優秀な発明家であった。1888年には交流発電機と交流電動機(交流モーター)を発明している。人類に貢献する素晴らしい発明ではあるが、知名度はゼロに近い。エジソンの白熱電灯のほうがよほど有名だ。白熱電灯などすでに過去の技術だが、交流モーターはまだ現役である。しかも、白熱電灯と交流モーターでは技術レベルがまるで違う。にも関わらず、エジソンの知名度がテスラの1000倍?というのは、一体どういうわけだろう。テスラはたんに、歴史を味方につけることができなかった、そんな気がしてならない。

 1899年、ニコラ テスラをマッド サイエンティストならしめる大実験が始まる。標高2000mにある町コロラドスプリングズで、その異様な研究施設が姿をあらわした。施設からは高さ60mほどのポールがのび、その先端には光り輝く金属球がおさまっていた。研究室内部では、巨大なコイル、コンデンサ、無数の配線がところせましと並ぶ。マニアが泣いて喜ぶマッド サイエンティストの世界だ。
 ここで彼が研究していたのは『世界システム』とよばれるものだった。それは、情報とエネルギーを、無線で地球全エリアに送るという、前代未聞の超技術であった。ここでは、先のテスラ コイルもしっかり使用されている。しかし、莫大な資金を食いつぶした挙げ句、この実験はとん挫する。

ニコラ テスラの晩年
  ニコラ テスラには生涯2人の偉大なライバルがいた。一人は送電方式で争ったエジソン。エジソンは、1300もの発明をなしとげ、歴史上最大の発明家として名声を残した。もう一人のライバルは、無線通信で争ったイタリアのマルコーニ。テスラとの戦いで勝利したマルコーニは、無線電信装置の発明者として名声を得、ノーベル物理学賞まで受賞する。

 一方、テスラはこの種の名声は1つも得られなかった。かわりに得た名声が、マッド サイエンティストだったのである。それでも1つ、ささやかな名を残すことはできた。磁場の強さを表す国際単位に『テスラ』が採用されたのである。
 テスラは、ハンサムで190cmを超える長身だったが、生涯独身をとおし、晩年は一人でホテル住まいをつづけた。そして、1943年1月8日の早朝、家政婦によってテスラの死が確認される。97年の人生であった。しかし、テスラの死後、奇妙な噂が流れた。死体が運び出された後、FBI捜査官がテスラの部屋を物色し、テスラが発明した超兵器の資料を没収したというのだ。こうして、偉大な電気工学者ニコラ テスラは、死して後も、マッド サイエンティストとして君臨するのである。

参考文献:並木紳一郎 編著「謎のタイムワープ」学研
新戸雅章「超人ニコラ テスラ」筑摩書房
by R.B


ニコラ・テスラの世界システム
(詳しくはこのサイト↑を訪ねて下さい)
彼は、肉体にショックを与えるのは高電圧ではなく高電流である事を、自らの体を貫流させた電流で針金を溶かしたりランプを点灯したりして証明した。この驚くべきショーは大好評を博し(これは異常である。こういう異常な現象は、今の日本にも起りそうである。テスラーが大丈夫だったのは、霊体による守護のお陰である有る事を忘れてはならない。!)、結局、エジソン対テスラの威信をかけた対立はテスラに軍配が上がった。以後、ナイアガラ瀑布電力会社は交流の採用を決定し、交流は世界に普及していったのである。

 エジソンのもとを去ったテスラは、1887年にニューヨークに自分の研究所を設立し、心おきなく自らの研究に集中するようになった。ここで彼は後年”マッド・サイエンティスト(狂気の科学者)”と呼称されるようになる数々の発明や研究に打込んだ。
「地震発生装置」「地球2分割破壊法」の考案、「無線操縦装置」「地球全体の照明装置」等がその成果である。
 これらの研究は一見荒唐無稽のものに思われるが、テスラの知的関心は極めて一貫したものだったのである。つまり、彼の興味は常に自然界のエネルギーを最大限に引出す事にあったのである。これは、彼の少年時代の次の様な体験がきっかけとなっている.

下記のサイトも参考までに
ウィキペディアのエスペラントページ
内容は短いですが。このページの右から二番目の写真がゴート島に建っているテスラの坐像。
その写真をクリックすれば大きくして見られます。

ニコラ・テスラの真実(連続講座)
テスラ研究家の静かな日々
20世紀を発明した男


冬が来るのに。。。

2006-11-12 08:23:30 | 季 節

<>
(マウスオーヴァー、ワンクリックです)

ナイアガラ公園の温室前にある噴水の池で遊んでいる少年達です。
夏はいいのだけれど、これから冬が来るというのに。。
既に水は干され噴水の装置も囲いを掛けられています。でもこの子達は裸のまんま。1番目と3番目の少年などパンツも穿いていません。
寒そうなので子供達のお古でも持って来て着せてやりたいと思いましたが。。。

フランダースの野に

2006-11-10 09:08:46 | 季 節
十月下旬から人々は胸にポピー(芥子)の花を飾ります。11月11日までこれは続くのですが、11月11日には各地で慰霊祭が行われ、過去に戦争で亡くなった人々の冥福と戦争の無い世界を祈ります。
私の好きな詩の一つ「In Flanders fields 」を紹介します。訳はすべて私です。

☆翻訳に関して色々な意見を貰います。日本語の表現がイマイチ、エスペラントの語の選択にもう一工夫云々。。と。
その程度のことは言われなくても判っています。もし意見を下さるなら、ここはこう直すのが良い、とか、こういう表現の方がいいのでは?とか、もっと建設的な意見をいただきたいものです。それが出来ないなら、あなたは私と同じ程度なのだと知ってください。


フランダースの野に

フランダースの野に芥子の花がそよぐ
列また列と並ぶ十字架
僕たちの場所と印された十字架の野に。
そして空には、勇敢にも歌いながらひばりが飛ぶ、
砲音の真っ只中その声はかき消されて

僕らは死者、昨日まで生きていたのだ
曙を感じ、夕日が輝くのを見ていた
愛し、愛されてもいた。そして今ここに横たわる
フランダースの野に。

僕らの戦いを続けてくれ
倒れながら、君たちにたいまつを投げ渡そう
君たちの手で高く掲げてくれ。
死ぬ僕らの信頼を裏切るなら、僕らは眠れない
どんなに芥子の花が育とうと、ここ
フランダースの野に。



In Flanders fields

In Flanders fields the poppies blow
Between the crosses, row on row
That mark our place; and in the sky
The larks, still bravely singing, fly
Scarce heard amid the guns below.

We are the Dead, Short days ago
We lived, felt dawn, saw sunset glow,
Loved, and were loved, and now we lie
In Flanders fields.

Take up our quarrel with the foe:
To you from failing hands we throw
The torch; be yours to hold it high.
If ye break faith with us who die
We shall not sleep, though poppies grow.
In Flanders field.


ジョン・マクレ-について:
1915年、親しい戦友の一人を埋葬したばかりのジョン・マクレ-大佐は、この静かな曙に、戦争で痛めつけられたベルギーのイープルで、小止みになった戦いの合間の待避壕に座り、ほとばしり出る感情を詩の形で走り書きした。
エセックスの戦場墓地の墓標、幾列にも並ぶ白い木製の十字架は曙の日の光を受けて光っていた。
三連の詩は20分で完成した。
カナダ第一野戦砲兵隊の医師としてその墓地や、そこに横たわる勇敢に戦って倒れた若者たちの記録をマクレ-は痛いほど理解していた。

この詩がその年の12月英国の雑誌パンチに載るや、大戦への同盟を喚起する詩として歓迎され、次第に『フランダースの野に』はカナダ人が書いた最も良く知られる詩となっていった。
ジョン・マクレ-はもう20年近く詩を書いており、カナダの文学雑誌の読者には良く知られていたが、詩作は彼の本業ではなかった。

ジョンは1872年11月30日オンタリオ州のグェルフに生まれた。14歳でグェルフ・ハイランド士官学校に入ったが、これは軍人の家庭に生まれた彼としてはごく当然の成り行きだった。16歳でトロント大学に奨学生として入学、1894年、生物学部を優等で卒業した。そして4年後には医学部を卒業している。
ジョンはトロントとモントリオールで医業にいそしみ、余暇には詩を書きスケッチもした。しかし、医師としての安泰な生活に何故か満足できなかったので、ボーア戦争(1899~1902/南アフリカ)が始まるやローヤル・カナダ砲兵隊に入り、帰国したときには女王のメダルと三つの従軍記章を得ていた。
その後の14年を彼はモントリオールで患者を診たり、マギル大学で講義をしたりして働いた。一度も結婚しなかったので1914年に大一次世界大戦が勃発した時には後ろ髪を引く家族も居らず、再入隊し、カナダ野戦砲兵隊第一軍団の少佐を任命された。同じ頃彼の父親デービッドも、すでに70才を過ぎていたにもかかわらず入隊し、海外に勤務した。彼は戦争が終わる頃には陸軍中佐になっていた。

1914年当時戦争に勇んで出かけた若者達は愛国心と理想主義に燃えていた。強い名誉感、義務感があり、ほとんどが戦争は短く栄誉有る冒険であろうと期待して出征して行った。しかし間もなく現実はそう甘くは無いことを彼らは経験から学ばなければならなかった。

塹壕の中で、砲弾が点在する泥の中で、何千人もの男達が死んでいった。十分な訓練を受けておらず、一度も武器を手にした事がないような経験の浅い上司のもとで、彼らは砲弾や毒ガスや、病気に倒れていったのだ。
ジョン・マクレ-自身がそうした彼らの一人だった。1918年1月彼は陸軍大佐であり、間もなく第一総合病院の司令官としての任務につくことになっていたのだが、1月23日肺炎にかかり、5日後に亡くなってしまった。フランスのブーローニュに近いウィムローに埋葬されている。その翌年彼の詩集『フランダースの野に、他』が出版された。

こんにち彼の出生地は国の歴史遺跡となっている。スピード川の南にあるこの魅力的な家は、修復されマクレ-家が住んでいた当時の家具などを調え、磨き直されている。
その近くにはマクレ-と彼の戦死した同僚達にささげる「永遠の火」が燃える記念碑がある。反戦思想を言葉にしてはいないが、戦争の悲しさ、空しさ、残酷さを叫んでいるこの詩『フランダースの野に』はカナダの、愛国心に燃えて散った戦死者たちへ捧げる感謝状と言えよう。


En Flandruja Kampo

Per John McCRAE
En Flandruja kampo la papavoj frapas
Inter krucoj, vico sur vico
Kio markas nia placo; kaj en la cielo
La alaudoj, ankorau brave kantantaj, flugas

Apenau audite meze de pafiloj malsupre
Ni estas la mortintaj, tagoj antaue
Ni vivis, sentis tagigon, vidis sunsubir’ brile
Amis, kaj estis amataj, kaj nun ni kusas
En Flandruja Kampo

Prenu nian kverelon kun la malamikoj
Al vi ni jetas de malplenumitaj manoj
La torcon; estu via teni gin alte
Se vi rompas fidon de ni kiu mortas
Ni ne eblas dormi, malgrau kreskas papavoj
En Flandruja Kampo


何故「芥子の花」?
☆ ナポレオン戦争の時戦死者の墓の周りに咲き出した芥子の花は不思議な花として注目を浴びた。

☆ 20世紀に入り芥子の花は再び広く注目を浴びる。第一次世界大戦中の粗石のため石灰が豊かになったフランス/ベルギーの土地に再び咲き始めたからである。

☆ 1915年、オンタリオ州グウェルフ出身で、カナダ軍の砲兵隊に医者として勤めていたジョン・マクレーがその現象を彼の有名な「フランダースの野に」に記録している。

☆ 休戦二日前にジョージア州アーテンズのモイナ・マイケルという一人のアメリカ女性がマクレーの詩を読み、その示唆を受けて、戦死者を記念し年中芥子の花を身に付けることにする。

☆ 1920年、米国を訪問中だったフランスのグェラン夫人がコロンビア大学のYMCAで偶然、そこでヴォランテァをしていたマイケルさんに会う。

☆ その時グェラン夫人は、戦争で破壊された地域の貧しい子供達の為に休戦日の前後に手作りの芥子の花を売り、資金集めをしようと決心する。

☆ 1921年、元総司令官でフランス/ベルギーにおける英軍の陸軍元帥、且つ在郷軍人会の創設者の主軸でもあるアール・ヘイグはグェラン夫人のアイデアにすっかり同意、英国の在郷軍人会が貧しいそして身体障害を持つ在郷軍人達の為に資金集めをする「ポッピー・デー・アピール」を組織することに許可を与えた。

☆ その同じ年、グェラン夫人はカナダを訪問。カナダでも同じく資金集めの補佐に、英霊記念のシンボルとして芥子の花を受け入れるよう「大戦争帰還兵組織(後のローヤル・カナダ・在郷軍人会)」を説得した。

☆ 今日、ポッピー・キャンペーンはローヤル・カナダ・在郷軍人会の最も重要なプログラムの一つである。ポッピーの売り上げ金は生活費に苦渋する元軍人を直接補助し、且つ医療器具やリサーチ、ホーム・サーヴィス、養護施設その他の目的に使われている。




紅白の菊の花

2006-11-06 09:14:57 | Weblog
紅白の菊

ナイアガラ公園の温室のデスプレイが替わり種々の菊が並べられてありました。その中でも目立ったのがこの花です。花びらの裏が銀色っぽい白で、紅白の縮らせたリボンで作った造花かと思うくらい現実離れした菊です。
亡き夫は菊の花が嫌いでした、特に白い花が。
お葬式を連想するから、というのがその理由です。
お葬式は嫌いで(その場で気絶するかもしれないという不安があったようです)どんな義理のある人のお葬式にも出ませんでした。
この風変わりな菊をみて思ったのは、この菊でも彼は同じことを言ったかしら、ということです。
日本でならお祝い事に使えそうな紅白の豪華な花にはお葬式の悲しい湿った感じは想像できません。
昨年の今頃私は病院通いをしていました。良くなる気配の見えない夫を励ますことは自分自身を励ますことにもなりましたが、彼の力が尽きた時、私も生きる力を失っていました。周囲の人々の思い遣りに支えられて今日まで来ましたが、思い出が蘇り、また悲しみのどん底に居ます。
特に友人に会って楽しいひと時を過ごし、元気になったと自分でも思える日が過ぎ去ると二歩後退の感じで。。。
でも、少しづつ本を読み始めていることは進歩でしょう。
来年の横浜エスペラント大会には出たいと思うのでエスペラントの本を毎日数ページ心掛けています。「頑張って行っておいで!」と彼が言っています。
自分はただの一度も故郷に帰らなかったのに、私が日本へ行きたいと言うとなけなしのお金をはたいても行かせてくれた人でしたから。

菊の花を見ると、どうしても彼の菊嫌いを思い出してしまいます。

バック スタッビング

2006-11-02 20:59:34 | Weblog
<>

『お客さんって。。』と添乗員達がよく言います。『あ、そんなこと何でもないですよ。気にしないで下さい。などと言っておきながら、帰国すると会社にちゃんと苦情を出すのよね。。うっかり信じられないのよ。』と。
面と向かっては優しい笑顔、背を向けた途端背後からグサリ。こういうのをBackstabbingと言います。

これが、最近我が友人の身に起ってしまいました。
色々トラブルが有ったけれど、このツアーが今年のベストツアーだと信じていた彼女にとってそれは晴天の霹靂とも言えます。
秋のツアーシーズンの初めにナイアガアラ・グレンへ下見に行ったことは数週間前このブログに書きました。
そのグループは添乗員無し、七人だけの小グループです。このようなときガイドは添乗員の仕事もしなければなりません。だからと言って手当てが付くという訳でもないのです。それでも苦情だけは人並み以上に言えるものなのだと知りました。

はジャイアント・ポットホール(写真)を見せようと思っていました。
ところが私たちが付けて置いた目印が誰かに外されてしまい彼女は道に迷ってしまったのです。焦れば焦るほど巧く行きません。それでも兎も角お客様の協力を得て2時間のハイキングを済ませました。

その後、これはナイアガラフォールスには滅多に来ないバス会社を使うため、前々から彼女が心配していたことですが、そして煩いほどバス会社に申し入れていたのですが、運転手がズボラして公園のツアー許可を取っていなかったため、公園の警察官に捕まりシボラレルと言う出来事があったのです。
まだまだ細かく書けば色々有るのですが、このグループの人たちはこの事件までのせいにしてしまっているという印象を受けました。これがツアーの終わりのアンケートには「ガイドが良かった」と書いている人たちなのです。
もっと悪いことにはこの苦情を受けたバンフのB会社は側の事情など聞くつもりも無く、「基本が出来ていない」だとか、「判らなかったら私たちに聞いてくれれば良いものを。。」だとか勝手なことを言っているのです。バンフのB会社がナイアガラグレンにそんなに詳しいとは知りませんでした。
私がこのB会社の態度を不愉快に思うもう一つの理由は、彼等の手配ミス(全く基本的な間違い)を彼女が旅の途中で気付き、お陰で時間の浪費や恥さらしを未然に防ぐことが出来たことなど綺麗に忘れていることです。
はオンタリオのA会社から仕事を受けており、A会社はB会社から仕事を受けています。したがってこの苦情はA会社とに向けられているのです。

私はとは20年以上一緒に仕事をしてきました。だから、彼女がどんな仕事をするか知っています。私は良く「そこまで面倒見なくても良いじゃない?」と彼女に言ったものですが、それほど細かく気遣う人なのです。だから、この人たちの書いた嘘はすぐ見抜くことが出来ました。

はその後の状況がどうなるのか待っています。腹の中では「あんな会社の仕事はもうお断りだっ!」と叫びながらも、とても素晴らしい謝罪文を書きました。お客さんの嘘もやんわりと指摘して。。。

一度ならずこのような経験をしている人は多いと思います。バックスタッビングは人類だけの行為なのでしょうね。他の動物なら気に入らなければその場で率直に挑むと思うのです。

今朝は。。。

2006-11-01 13:17:00 | 自 然
<7時48分49秒<7時48分50秒<7時48分50秒<7時48分52秒<7時48分52秒<7時48分53秒<7時48分54秒
早朝のカナダ滝

晴れていたので早朝の滝を撮りに行きました。東の空の群雲が気に入りませんでしたが。。。
気温は-2℃、ジョッガーが結構居たのに驚きました。
早朝はツアーバスも来ないので滝のすぐ近くに車を停めておいたら、真似して停めた人が居ました。ニューヨーカーです。間も無く公園のお巡りさんもやってくることだし、それまでに帰らなかったら偉いことになるのになァと人事ながら気になりましたが、それもいい勉強になるでしょう。