★ Serena ★

カナダ暮らしのエスペランチスト、自然愛好家。
エスペラントやカナダの野草、ネーチャークラブの活動など思いつくままに。

アルゴンキン公園の紅葉ツアー、そして

2009-10-04 19:52:07 | カナダ旅行

これが今年の十月一日の同じ場所です。
下に広がる景色に緑が多い事に気付かれたでしょう?


それでも沿道はこんな景色が続きました。


不安定な天気で小雨が降ったり止んだり、十月二日の朝は霜が下り、車の窓の霜をこそげ落としている人も居ました。これもしっかり証拠写真に撮りましたよ。
花はもう無いのですが、カナダ・メーフラワーインデァン・キューカンバー・ルートの実が可愛らしく残っていました。

エスペラントの父ザメンホフ
にほんブログ村 外国語ブログ エスペラント語へ


アルゴンキン公園の紅葉ツアー

2009-09-30 14:26:21 | カナダ旅行
アルゴンキン公園、ルックアウト・トレールからの眺め

しぶしぶ引き受けたツアーです。
もうこの仕事はしなくて良いと思っていたので特別な準備もしていませんでした。
それが、「みんな出払って、あなたしか居ないから。。」
と言われればやむなく出て行くのも私です。
人数は少ないし、、、紅葉は真っ盛りだし、とのおまけも付きます。
少人数のグループは大抵が気立てのいい人たちの集まりで、和気藹々の楽しいツアーなのですが、それだけに私がついていけなかったら困るのです。
何時かも、モントランブランを登った時「私が一番最後かと思ったら、まだこの子が後ろに居たのよね」
と言われたことがありました。言った人は八十歳を過ぎた人でしたからなお痛かったです。
今回もそんなことにならなければいいと願いつつ後一時間で出かけます。
ツアーは明日から二日間、帰宅は土曜日の午後になります。
今日の写真は数年前のものですが、今回もこの位かもしくはもっと鮮やかな色を楽しめるかもしれません。

エスペラントの父ザメンホフ
にほんブログ村 外国語ブログ エスペラント語へ


冬 の 旅

2009-02-06 19:10:34 | カナダ旅行

<>

予定の旅の前日にシャトルバスの運転手から電話があり、悪天候のため一時間早く出発とのことでした。実際、普段は1.5時間のところを3時間掛けて、かなり滑り込み状態でチェックインしたのです。
ゲートで待っている間に映したのが最初の写真。除雪車が3台連なって登場しました。大吹雪というほどのことではないのですが休み無く降り続けているのでこんな除雪作業が必要だったのです。
二枚目は飛行機の窓から取った翼の除氷作業です。正確な日本語は知りませんが、英語では Deicing です。順番待ちなので時間が掛かりました。
三枚目は飛行機の窓から取ったカルガリーのダウンタウンです。白い帯の様にうねってダウンタウンを囲むように流れているのがボー川です。白いのは当然氷です。
気温はおおむね-2~3℃で私の滞在期間は温和でした。短パンで犬の散歩の人もいて、「そこまで暖かいわけじゃないんじゃない?」と思ったのですが、-50℃からすれば夢のように暖かかったのでしょう。
到着の翌日ちゃんの日本語学校へ一緒に行きました。節分の鬼の面を作ったりもしたのですが、ハナちゃんは自分の発想でお面を切り刻みよく判らないアートを作りました。ハナちゃんのお母さんはハンガリー人なので とはハンガリー語で話をしていますが、周囲の人たちは気が付いていないようです。
そこの先生の一人とお遊びの始まる前にちょっと立ち話をしたのです。私がナイアガラフォールスから来たと知ると、親戚がいるし一度遊びに行きたいと思っていると言うようなことを言ったので「私の知ってる人かしら。。」と言ったら、「向こうの親戚なので。。(当然あなたは知らないでしょう)」と言う応えでした。
私には「向こうの親戚」の意味が直ぐには判らなかったのですが、ご主人の親戚と言うことだったようです。
カルガリーに来て六年になるといっていましたが、まだまだ日本人社会にドップリ浸かっているという印象を受けました。そして彼女の考えでは私をも日本人社会しか知らない人間と見なしているようであまり良い気分はしませんでした。悪意は無いので恨みも辛みも無いのですが、もっと広く社会を見て欲しいものだと言う気がしたことは確かです。
四十年も同じ街に暮らしていて日本人しか付き合いが無いとしたら、あまりに社会が狭すぎます。私が知っている日本人はごく僅かに限られていて最近のように日本人人口が増えている今知らない人の方が多いくらいなので余計にそんな気がしたのかもしれません。
それに の日本語を聞けば日本生まれでないことは明らかだし、その母である私がカナダに長く暮らしていることは説明の必要も無いように思えるのですが、自分たちの周囲を見て、「誰それさんのお母さんが日本から来ている」と言う状況しか考えられないのかもしれません。
そのせいかどうかこの教室の仲間で が個人的に付き合っているのはハナちゃんのお母さんとドイツ人と結婚しているサイちゃんのおばあちゃんだけな様です。本人は気付いていないかもしれませんが恐らく文化の違いをあまり感じなくても良いからではないかと私は思っています。

一週間は瞬く間に過ぎ、先日暖かなカルガリーを後にしちょっと寒いナイアガラフォールスに戻ってきました。今日からカルガリーも寒くなっているとか、こちらは暖かくなるようです。


エスペラントの父ザメンホフ
にほんブログ村 外国語ブログ エスペラント語へ



ペルセへの旅(4) August 15, 2005 15:23

2005-08-16 04:23:09 | カナダ旅行

August 01, ’01
今朝も朝日を拝む。Nは柏手を打って参拝していた。大自然の説明しがたい大きな力を感じ、自然にそのような気になったのだろう。二日めも美しい日の出
今日はボナヴェンチュア島へ行く。
ホテルのフロントで船の切符を買う。
先回は波止場近くでお弁当(サンドゥイッチやジュースなどのパッケージ)を買ってから船に乗ったが、今はレストランもあるというので手ぶらで小ビンの水だけ持っていく。一番の船は9時に出るのでそれに乗ることにした。今日も快晴。
9時の船が目的なので朝食は常識的な時間に取る。波止場まで20分位緩やかな坂道を下り、着いてみると既に人々は列を作って待っていた。いくつかの船会社が島へ往復しているらしく、切符を見せると「あの船」と波止場の一番先にある船を指示された。
船はペルセ岩の近くで速度を落とし、街とは反対側のつまり岩の裏側を見せてから、ボナヴェンチユア島の廻りを北側から廻って行く。時々速度を落とすのは海に或いは海岸にあざらしが見えるからで、その都度歓声が上がり、各種カメラが活動する。スピーカーを通して聞こえる説明が時には乗客の歓声やその他の雑音に邪魔され聞き取りにくい。遊ぶアザラシの群
やがて、ペルセの街からは完全に反対側になるカツヲ鳥のコロニーが頭上に見え出す。切り立った崖の上に集団生活するこの鳥は夫婦仲の良さで知られる。全身は白いが顔から首にかけて薄いオレンジ掛かった黄色で、翼の先が黒い。背後で誰かが「イェロー・ヘッド」と言っていたがそのような別名があるのかもしれない。
ボナヴェンチュア島に着くと、先ず英語とフランス語のグループに分かれて説明を受ける。降雨量が少なかった今年は島も乾燥していて、発火の危険を考慮してトレィルの殆どが閉鎖になっていた。コロニーまでは真中の道を通って行けるが、他の道は途中までは行けるが通り貫けられない。
この道をあけてあるのは万一の時には車が通れるからなのだそうだ。車といっても太い小さい車輪のついた芝刈機みたいな車で、トレィルの途中でゴミ袋を運んでいるのとすれ違った。
島に入るためには使用料を払わなければならない。街で買って来た人達もいたが、大抵は切符売り場に並んで買っていた。私達も列に加わる。
少し登り気味の道を行く。6年前は6月だったのでゴゼンタチバナが盛りだったが、今回はもう実になっていて、早いのは赤く大きいが、まだゴマ粒程度の小さいのもあった。何故そんなに差があるのか知らない。日当たりの良し悪しで決まるのだろうと勝手に納得。ツバメオモトも未熟ながら青く色付いているのが多い。野生のホウセンカ(ツリフネソウ)も咲いていた。
登り切ったかな、と感ずるのは松林に入った頃で、その辺りから緩く下りになる。陽射しは暑く、汗ばむ。ほのかに鳥の臭いが感じられ、そしてコロニー。
6月に来た時は感じなかった蚊のような蝿のような蟲がワァンワァン襲って来るので、ゆっくり写真も撮れない。それでも何枚かは物にした。
Nはカツヲ鳥の仲の良さを表わした仕草を写真に収めたいと意気込んでいたが成功しなかったようだ。2羽の鳥が嘴を太刀の打ち合いのように合わせる仕草で、土産店頭に並んでいるカツヲ鳥はみんなそれを形取っている。
満員のコロニー自分より大きな赤ちゃんを抱いた(?)母鳥









蟲に追われるようにコロニーはそこそこにして戻る。レストランに入るほど空腹でもないので船着場近くの小さな砂浜に下りて休む。靴を脱ぎ水に入ってみたら、なんと冷たいことか。氷水のようだった。この砂浜からはカヤックのレッスンも行われているらしかったが、カヤックが一艘置いてあって、その番をしているらしい潜水着を着た若い女性が泳いでいた。ああ言う服装だと冷たくないのだろうか。冷たい水に慣れているのかもしれない。
帰りの船は真っ直ぐペルセに向かうので早い。
Nがお土産店に寄りたいので、少し歩き回るが、暑いのでアイスクリームを買って食べながら一旦ホテルに戻る。夕食にはまた出直し。今晩は「ルージュ・オマール」つまり「レッド・ロブスター」で行列に並んだ。

August 02, ’01
今朝は曇っていて朝日は拝めなかったが、二日も続いたのだから幸運だろう。列車は午後なので、午前中はスーツケースをフロントに預けて街に出た。街の一番目立つ大きな教会を訪ねたり、お土産店を見て廻ったり。
昼食は浜辺でサンドイッチを、のんびりと海をみながら。この次海を見るのは何時だろう。そしてどこの海を見るのだろう。
ペルセ駅。近づく列車を迎える乗客たちタクシーは朝のうち頼んであったので、時間には例のフランス語だけの女性運転手が来てくれた。駅へ行ってみるとあの子沢山の家族はもう来ていた。日本人夫妻は見えなかったので、次の列車まで後二日滞在するのかと思ったが、ガスペから乗ったらしく、列車が着いてみると既に車内にいた。私達とは逆な行程を取ってタクシーでガスペに行ったわけだ。
相変わらず子ども達は賑やかで、車内を走り回ったり大声でしゃべったり。
また寝にくい夜を過す。

August 03, ’01
列車がかなり遅れたのでモントリオールでの乗換えが心配だったが、とにかく間に合った。座席は前後になったが、私の隣席になった若い女性が変ってくれたので並んで座れた。
トロントにつく頃は30分以上遅れていて、このような時は、次に利用する列車の料金が半額になる。そのアナウンスがあったので、もう何処へ行こうか考えている。有効期間は6ヶ月以内だけど。
予定のバスには乗れないから、Nが付き合ってくれ中華街で夕食を取って帰ることにした。
こうして6日間の休暇は終り、「地の果て」と言う名の半島は再び遥か彼方の思い出の地となった。
(おわり)



ペルセへの旅(3) August 14, 2005 15:08

2005-08-15 04:08:11 | カナダ旅行

July 31, ’01
朝日を見るためには早起きの必要がある。
目覚し時計は無視して、カーテンを開けたままで寝ることにした。夜明けの明るさで目が覚めるから。それでもNは目覚し時計をセットしたらしい。
ペルセ岩の向うから朝の赤い光が広がり始め、岩の穴を通って海面に細い赤い影を映す(写真)。太陽の動きに連れて刻一刻と赤い影は位置を変えた。まだ寝静まっている人間の世界はこの神秘的な情景の一部でありながら、遠い存在だった。
ペルセ岩の日の出
ガスペ半島はセント・ローレンス湾に突き出た半島で、湾とは言え、見えるのは水平線のみ。ガスペと名付けた先人の気持ちが解かってくる情景である。ガスペは「地の果て」という意味だから。
太陽がすっかり昇ってしまうと、現実の世界が戻ってくる。二人はまたベッドに潜った。今日の活動は午後からなので、朝食はギリギリの10時頃に。これでは空腹にならないので昼抜き。 午後1時をかなり廻って、忘れられたか。。。と電話をしようとしたらタクシーが現われた。タクシー・ペルセはペルセ唯一のタクシー会社で、今日の運転手は経営者のウィリアムさん。 6年前はお父さんと二人で運転していたが、今は何人か雇用者がいるらしい。後で判ったのだがお父さんは2年前癌で亡くなったそうである。ウィリアムさんのお父さんに関して私は良い印象を持っていたので、それを聞いて大変残念に思った。

ペルセ最後の日、駅までのタクシーを予約してあったのに時間が過ぎても来ないので私はとてもイライラしていたのだった。その列車を逃したらあと二日間ここに立ち往生である。ようやく来てくれたのがお父さんだったが、その日はものすごく忙しかったらしい。何しろ一つしかないタクシー会社で、父子二人だけなのだから無理も無い。彼は「ものすごく忙しかったんですよ。」と言う程度の言い訳しかしなかったし、私も来てくれたのだから、兎に角列車に間に合えば良いので、特別なじる事もしなかったのだけれど、私のイライラは十分承知してくれていたらしかった。駅について支払おうとしたら彼は「It’s on me」と言って受け取ってくれなかったのである。

今日の行程は「グロト」、「サンタンヌ山」、「クレヴァス」を主軸に大きくサンタンヌ山を廻る形に動く。私達の他は若い新婚らしい夫婦と、老夫婦二組の計8名。快晴。
先ずグロトへ行く。サンタンヌ山へ向かう道を途中から右に入って少し行くと車を降り、歩く。グロトは洞窟ではなく、渓谷の側面で、絶壁でもない。横に太い皺になった感じの岩は細かい砂利が混じっていて、この辺の地質の典型らしい。僅かに水がその横皺になった岩を流れ落ちている。上の方の少し平らになった所には「聖ベルナデット」が祈りを捧げている像があった。道端に勿忘草が咲いていた。
戻って、サンタンヌ山へ。途中車を降りて見晴らし、上から戻って来た車と客が入れ変る。事情が良く飲み込めなかったが、少し行くと道路表示が「ここから先は四輪駆動車のみ」と出ていたので納得した。山頂は見晴らしの良い開けたところで聖アンヌの立像がある。百人は座れそうなベンチも並べられてあって、お祭りもあるらしい。遠くを見渡しても見えるのは眼下のペルセ岩とボナヴェンチュァ島のみ。煙るように遥か彼方にニュー・ブランズゥイック州が見えた(写真)ペルセ岩とボナヴェンチュァ島
次はクレヴァスだが、一旦街へ降りて北に向かう。ペルセ岩とは元地続きだったモン・ジョリ共々一望に見下ろせる岬ピック・ドゥ・ローロルへはモテルの建物の間を通り抜けて出る。絶壁が目の前に落ちており、恐いところもあったが眺望は素晴らしい。そこからモン・ブラン山の裾を廻ってクレヴァスへ。
クレヴァスへはやはり車を降りてしばらく歩かなければならない。見晴台からはフォリヨン公園が北に見晴らせる。クレヴァスと呼ばれる岩の裂け目は、柔らかい岩が風雨に晒され、洗い、削り取られることで、立ったお化けのように変形する「ブードゥ-」の初期の現象がこの一部に起こったという感じである。山を下りてから見上げるとそれが良く判る。似たような現象が何匹かの象の群れを思わせる形で、その近くに出来ていた。
サンタンヌ山を廻って降りて来たら、列車が同じだった日本人 夫妻が道を登って来るのを見かけた。まさかサンタンヌ山へ歩いて行くつもりは無いだろうけれど、ちょっとびっくりする。
二時間のツアーは終り、街で降ろしてもらった。それから浜辺で一休み。
カモメが何かを上空から落としていたが、それはウニで、岩をめがけて落とし割るつもりなのだった。何度か落として、外れるとその都度拾ってやり直しする。たかがカモメとバカにする無かれ、何と賢いことをするのだろう。私達の近くの石に当たって割れた時、カモメは降りて来て食べ始めたのに、私が確認したくて近づいたので折角割れたのに放棄しなければならなくなったのは気の毒だった。
岩へ歩ける時間にはまだ間があると思ったが、人々が歩いているので私達も腰を上げる。モン・ジョリの上を廻って階段があるが、今回は人々の行列について南側から浜を歩いて行ってみた(写真)ペルセ岩に向かって歩く
途中で頭を羽の中に隠して立っている鵜に出会った。眠いのか病気なのか良く判らないが、人間が廻りに居ても気にならないらしい。病気かしら、と囁く声もあり、石をぶつけて生きているかどうか試す惨酷な人もいる。
干潮には露出する「通路」は既に大勢の人が通っていて、もうペルセ(貫く)の名の由来である穴の方まで辿りついている人達もいた。岩に到着するまでは問題無いが後は水の中を歩かなければならないから足元が滑って危ない。私達は穴までの半分の距離で止めた。穴まで行った人の話だと、その辺は腰までの深さだとか。靴を濡らしたくなかったので脱いでみたが、裸足はすべるので返って危険。潜水用の靴など良いだろう。ナイアガラ・フォールスのゴート島で「風の洞穴」へ入る時に履く麻布のモカシンも良いアイデアだと思った。
返りはバウム・クーヘンのような岩層の絶壁を見上げながらモン・ジョリ(写真)の北側を廻って上に出る道を帰った。右がペルセ岩左がモン・ジョリ岬
夕食はホテル・ル・ノルマンディーのダイニングルームで少し贅沢に、2時間掛けてのんびりと楽しむ。Nはおしゃれして来たいところだ、と言ったが、このホテルに泊った6年前はそれが出来たけれど、一日の活動が終った後の通りすがりではそれも侭ならず、カジュアルな服装の人がむしろ多かった。
(つづく)



ペルセへの旅(2) August 13, 2005 15:00

2005-08-14 04:00:27 | カナダ旅行

この旅の行程:行きは、

    ナイアガラフォールス - トロント  132km
         トロント - モントリオール 539km
         モントリオール - ガスペ  319km
               ガスペ - ペルセ  63km 

合計 1053km

         :帰りは、          990km 

総合計2043km です。




July 30, ‘01
ペルセには翌月曜日の朝10時頃到着。私達は真っ直ぐガスペまで行き、折り返しの列車でペルセへ戻るので、窓から降りる人達を見ていた、子沢山の40代の夫婦も7,8人の子ども達を連れて降りた。家族間でも仏英両語を使う一家で、ママと一番幼い娘はフランス語しか使わなかったが、後は実に自由に両語を駆使していた。例の日本人夫妻も降りた。タクシーが待っていて人々はウロウロしている。駅から街まではタクシーで行くしか方法はないが、それを良く判っていない人も居たのだろう。

それからまた2時間ほど乗って、ガスペ着。少し遅れたので本来なら2時間ある筈の観光時間は1時間半くらいになってしまったが、6年前と違いタクシーが数台並んで待っていたので利用する。ジャック・カルチエ(カナダに最初に到着したフランスの探検家)博物館、木造のカテドラルなどを廻ってから、ヨーク川を廻って見ますか?と運転手が言うので応じた。途中、政府管理の孵化場に寄ってくれた。
折り返しの列車でペルセに戻る。
駅からはタクシーの予約をしてあったので、停まっていたタクシーの方へ行こうとすると中年の女性がフランス語で話しかけてきた。私たちを迎えに来てくれた運転手だった。彼女はフランス語しかしゃべれないし、私たちのフランス語も危なっかしいものだけれど、目的のホテルには連れて行ってもらえた。前に来た時泊ったホテル、ル・ノルマンディーは街にも海にも近く優雅でまた泊まりたかったのだが、満杯だったので地図だけを頼りに選んだのがこのル・ミラージュ。親切だし、選択は正解だった。
ホテル/モテル・ル・ミラージュは小高いところにあり見晴らしが良い。ペルセ岩も良く見える。すぐ裏はサンタンヌ山で、街までは徒歩20分程。ル・ミラージュのレストランは朝食だけなので夕食は街まで食べに行くしかない。その前に滞在中の予定をはっきりさせておこう。Eメールで連絡はしてあったが「タクシー・ペルセ」の事情を聞いてみる必要があった。
先回訪ね残したところも含めた観光は8時間ツアーに参加するつもりだったが、これは4人いないと慣行出来ないとのことで、ウエイティング・リストだったからその後の状況を聞かなければならない。電話で話している内に2時間ツアーでペルセ界隈を廻れることが判ったので、ガスペは今日行って来たし、明日午後1時からのそのツアーに参加することに決めた。ペルセ岩へ歩くこと、ボナヴェンチユア島へ渡ることは比較的自由に出来る。
街に出てみると、ホットドッグ、ハンバーガー店の方が目立つ南の方に比べて「ピッツェリア」が多い気がした。道から少し奥まったシーフードの店の前でメニューを読んでいたら声を掛けられた。もう決めたので入ろうとしていた時である。その店の経営者で、愛想のいいおじさんだった。席に案内された時私達はテラスを選んだ。まだ日は高く暑かったし、店内は蒸し暑い気がしたから。
待てど暮らせど注文を取ってくれない。呼ぶと「今すぐ来ますから」との返事があるだけ。30分余りも待って、窓を挟んで私達と並んだ、後から入った客がもう食べ初めても私達は忘れられているらしかった。Nが立って、道端で未だオシャベリしている例のおじさんの所まで行き、「もう帰ろうかと思うの」と苦情を申し出たら、彼は慌てて飛んで来た。
ウェイトレスは忙しかったらしいが、後から来た人が先にサ-ヴされるのは腑に落ちないと言う私達に受持ちが違うからだと言い訳していた。
食事は不味くなかったが、ここはボツ。チップは1セントも置かない。Nは「でも幾らかは置かないと。。。」と気の毒そうだったが、「失礼をわびて割り引きでもしてくれていたら話しは別」と私も頑固だった。
観光案内所に立ち寄り干潮の時間を調べる。明日は2時間ツアーの後、ペルセ岩へ歩くことにした。
(つづく)

写真はジャック・カルチェ博物館にある記念碑とホテル/モテル ル・ミラージュの朝食レストラン


ペルセへの旅(1) August 12, 2005 19:56

2005-08-13 08:56:11 | カナダ旅行
急に列車の旅が懐かしくなりましたが、当分の間不可能です。
ふと、思い出し過去の旅の記録を、二、三日連載します。カナダへの旅行を計画しておられる方達の参考になれば幸いなのですが。
VIA(ヴィァ)列車を利用した旅です。VIAの日本語サイトをリンクしておきます。
私にとっては二度目のペルセ行き、最初の時は個室の寝台車を使ったのですが、二度目は節約してエコノミーにしました。友人のNが一度行ってみたい所だと言うので、もう一度行っても良いと思っていた私は二つ返事で応じたのです。


ペルセへの旅(1)
July 29, ‘01
日曜日の朝、トロント11時30分発のモントリオール行き列車のゲートには長い行列が出来た。
私達は早かったので前から2番目。だが、子ども連れなどを早く乗せるから、実際には何番目か判らない。そして列は長蛇のごとく入口の階段の上まで延びていて、信じられない人達が前に来ては確認して行くのが気の毒でもあり可笑しくもあった。
モントリオールまでは約6時間乗るが、Nが作って来てくれたオニギリを美味しく戴いたり元気。モントリオールも人が溢れている感じで、ゲートでは7、8番目だったけど、やはり子ども連れが別な所に並んでいて彼等優先。
夕食は食堂車へ行った。四人掛けのテーブルなので、二人連れは合い席になるが、窓側の席に向かい合ってドイツ語を話している男性達のテーブルに座らされた。彼等はウエーターにはフランス語で我々には英語でと使い分けていた。車内の子ども達の中にもケベック州の子ども達らしく、フランス語と英語を使い分け出来る子が多い。こういう場合は両親もそうなので、やはりバイリングヮル人間の多い列車だった。
日本人らしい人も何人か見かけた。若者もいたが初老の夫婦らしい人もいた。雰囲気から言って地元の日系人ではないことはすぐ判る。この夫妻は私達と同じ車両で、私達より10席ばかり離れたところに居たが、モントリオールからペルセまでの約15時間展望車にも出て行かなかった。これが私のお客様だったら、行ってらっしゃいと薦めるところだけれど、「余計なお世話」はしない。
眠れないのでN持参の推理小説を読みつづけ、疲れて展望車に行って見るとここで寝ている人も居た。車掌が枕と毛布を配ってくれるが、それを展望車へ持ちこんで、冬用のジャケットを着た上から被って寝ている若者達が3人ばかり。縦に寝る座席からズリ落ちているよりは、2席使って横になった方が楽だから、これは良いアイデアだけれど少し寒い。
雷のような鼾をかいていたオバサンはどこか東洋系の雰囲気のある5,6歳の男の子と女の子を連れていたが、向かいに座っていた女性がちょっと窮屈な英語で話しかけていて、大きな声だから良く聞こえる。
「可愛い子ども達ね」と彼女は言い、「黒い髪が素敵ね」などとも言っていた。
「ナニ人なの?」と子ども達の人種を聞いている。あッ、そうか、白人の子ども達とはちょっと違うところが有るンダ、と私。
鼾オバサンはどちらかと言えば赤毛の白人だが、子ども達はちょっと国籍不明の顔立ち、「イヌイット」と答えている。可愛くて可愛くてという自慢の貰い子達らしい。オバサンの顔に誇らしげな輝きがサッと走った。
「どっちが年上なの?」
「双子です」「マァ...」そして少しお世辞めいた言葉をいろいろしゃべってから、フランス語の女性は降りて行った。
(つづく)