★ Serena ★

カナダ暮らしのエスペランチスト、自然愛好家。
エスペラントやカナダの野草、ネーチャークラブの活動など思いつくままに。

ほのぼの。。。のお話

2005-07-31 10:06:12 | Weblog

July 30, 2005

子育て、仕事、ほか「ン刀流」で奮闘中のNatsumiさんの記事(7月25日)に感激しました。皆さんにも読んで欲しくてURLをここに貼ります。
Natsumiさんのページは私のブックマークに入っていますが。。。
是非お読み下さい。

あと一日で8月。この週末は連休です。8月1日が月曜日、Civic holiday という意味の良く判らない休日なのです。法定休日ではなく、州によっては関係ないところもあれば、名前も違う等々。
以前はSimcoe day と呼んでいた日でした。シムコーと言うのは1700年代の終わり頃、上部カナダ(Upper Canada/今のオンタリオ州)の首都をナイアガラ・オンザ・レークに決め、アメリカに近すぎて拙い、とトロントに変えたりした人です。でも、何故シムコー・ディなのか良く判りません。結論は、8月は祝日が無いから休みを一日作るためにでっち上げた休日。
銀行は休み、郵便局も休み。学校は、どっちみち夏休み。
ナイアガラの滝の周辺も人で一杯でした。写真は今日の午後滝に掛かっていた虹。

FREDERICK BANTING カナダの偉人-その2

2005-07-30 03:44:09 | カナダの偉人
フレデリック・バンティング July 29 14:44
カナダの偉人二人目はインシュリンを発見したフレデリック・バンティングです。
私も詳しいことを知らなかったので、日本語に書き直しながら勉強になったし、この私欲の無い科学者たちの心意気をとても嬉しく思いました。
ツアーの中には時折糖尿病の方がいますが、トロント大学を通りながら手を合わせていた人のことを思い出します。


国内はもちろん海外にもインシュリンを発見した男として何百万人もの人々に知られ、世界中の糖尿病患者に新しい希望を与えたフレデリック・バンティングの、新しい分野を開いた1920年代初期の研究は世界中から喝采を浴び、政府からは終身年金を受け、英国王室からは騎士の称号を与えられ、カナダ最初のノーベル賞受賞をもたらした。
だが、医学界に歴史的な足跡を標す直前のバンティングは第一次世界大戦の帰還兵であり、オンタリオ州ロンドン市のウェスターン・オンタリオ大学で医学を教えながら駆け出しの医業を営み苦労するまだ若い医者であった。
1920年10月31日、医学界のジャーナルに載っていた糖尿病についての記事が28歳の彼にインスピレーションを与え、犬の膵臓からその不思議なホルモンを抽出することを思い付かせたのである。
当時の糖尿病患者は自然に体内で作られ、糖分をエネルギーに変えるホルモン、インシュリンの不足のため長生きは出来なかったし、失明や手足の切断を余儀なくされることもあったのである。研究者達は血液中の糖分の不均衡が原因とは判っていても患者達に飢餓を感ずるほどの節食や毎日の運動を薦めるくらいが関の山であった。
そういうことを念頭においてバンティングは研究室探しに数ヶ月を費やした。ようやく同情的な耳を傾けてくれるトロント大学の教授ジョーン・ジェームス・リチャード・マクロゥドに巡り合う。1921年五月マクロゥドはバンティングに22歳のチャールス・ベストを紹介した。
ベストはマクロゥドの優れた学生の一人で米国から医学の勉強に来ていたのだった。ベストの卒業試験が済むと直ぐ二人は研究に取り掛かった。
1921年の夏中、経験豊かなマクロゥドの助言を得ながら数限りない研究を続けた。その間ジェームス・バートラム・コリップというリサーチャーが人体実験にも使えるようにインシュリンのサンプルの欠点を取り除くことに助力してくれた。
1922年1月23日彼らは始めての人体実験として14歳の糖尿病重症患者レオナルド・トンプソンに投与、結果は上々で、この少年の症状は直ちに好転した。他の患者達に行った試験も結果は良く奇跡的な転換を見せた。インシュリンの投与により、糖尿病患者たちは血液内の糖分をコントロール出来るようになったのである。この発見は、糖尿病の治療ではないとは言え、何百万人の糖尿病患者に新しい健全な生活をもたらしたと喝采を浴びた。
翌年バンティングとマクロゥドは生理学或いは医学の分野でノーベル賞に推薦された。ベストとコリップが除外されたことは議論の余地がある。ベストをこの記念すべき発見の同等のパートナーとみなしていたバンティング自身も彼の除外には悩み、公に遺憾の意を表し、賞金はマクロゥドがコリップと分け合ったように、ベストと分け合った。
私心の無い四人は巨万の富を齎したであろう特許の取得はせず、権利をトロント大学に1ドルで売った。こうすることでインシュリンを必要とする誰もが末永く容易に手に入れられることを望んだのである。
その後20年に亘って、バンティングは成果を見ない研究を続けていた。とは言え、パイロットが高速の飛行に耐える為の最初のG-スーツを作ったのは彼であり、このことは1939年彼が国立研究審議会の 航空医学会会長に任命されることにつながって行った。そんな中でも絵を描く時間を見つけ、素人画家として名前を知られるほどの腕前で、当時「グループ・オブ・セヴン」の一員 A.Y. Jacksonと共に何度もスケッチ旅行に出掛けていたが、50歳になったら医学の方はリタイアして絵の方に専念したいと洩らしていたと言う。
義務の一環として、1941年2月21日、英国に向かう爆撃機に搭乗したが、離陸後間もなく、彼の乗った飛行機はニューファンドランドのマスグレーヴ・ハーバーと言う所に墜落、飛行士だけが生き残った。バンティングは49歳だった。

ティーゼル July 28-16:14

2005-07-29 05:14:19 | 野の花 - 夏から秋へ

学名 : Dipsacus fullonum
英語名 : Common Teasel
日本名 : オニナベナ
エスペラント名 : Dipsako

むかし妹が毛糸編みの毛立て道具にこの花の「カラ」を使っていて、薊の実よ、と教えてくれました。
薊と言えば鬼薊しか知らなかった私はその卵形の道具と鬼薊の花の形が一致せず納得できなかったものです。
カナダへ来てから、卵形の花を咲かせるこの「アザミ」が野に一杯あることに気づき、アザミが咲いていると思っていました。英語名を知って初めて、アザミではないことに気づいたのです。
葉の形やトゲがあることではとても良く似ていますが。。。(ティーゼルの葉には皺がある)。
冬、雪の中に卵形のシルエットを描く立ち枯れたティーゼルの群生には何故かもの悲しさを感じます。
ヨーロッパ原産で、北米では中央部に集中しているようです。
花は真中辺から咲き始め上下に発展していくのが普通ですが、この写真の花は真中を忘れたように残して咲き始めていました。
別名をラシャカキグサとも言うそうです、毛立てに使ったからでしょう。
Lint(綿ぼこリ)取りにも使ったようですけど、この粗い爪で撫でられる生地の方が堪ったものではないでしょうね。
薄いライラック色の花が綺麗ですが、雑草として片付けられています。でも、その形から、ドライフラワーにされたり、生け花の材料に使われたりとのことですから、あながち無駄な花でもないようです。
昔は薬用として根をものもらいなどの眼疾患、肝臓、胃の強化などに用いられたとか。
花は今が盛りです。

あらいぐま-July 27-17:00

2005-07-28 06:00:24 | 動 物


学名:Procyon lotor
英語名:Raccoon
日本名:アライグマ
エスペラント名:Prociono

可愛らしいので人を呼び集めます。
北米、カナダの南部と米国北部に分布していますが、ナイアガラフォールスでも時々見かけます。
日本名の「洗い熊」は食べ物を洗って食べる習慣から付いたのですが、実は洗っているというより前足をぬらすことで感覚が鋭くなり食べてはいけない物を判別できるからなのだそうです。
人懐こく、ペットにしている人もいますが、この写真もナイアガラフォールス付近で撮ったものです。
日本ではパンダ化粧のお姉ちゃんがカナダへ来るとラクーン化粧のお姉ちゃんと言うことに。

それにしても、可愛いでしょう?

スノーベリー

2005-07-27 03:30:21 | 野の花 - 夏から秋へ


もう何年も同じ道を通りながらつい近年までこの花に気づいていませんでした。車で通るとこんなものです。冬になって葉がすっかり落ちてからまだ枝にしがみついている白い実に気が付いたのがその出会い。

長さが5-6ミリしかないピンクを帯びた白の可愛い花は葉の陰に隠れてしまうほどの小ささですから、これもうっかり見落とし勝ちです。
白いビー玉サイズの実が独特です。ただし小鳥達には見向きもされないそうで、辛うじて食糧難の冬に雉が食べてくれる程度とか。この実は一応有毒と見なされているそうですから、小鳥達が見向きもしないのは当然かもしれません。
ではどうやって繁殖するのか、ですが、吸根(寄生根)というもので増えるそうで、この仕組みを私は未だ理解していません。栽培するなら挿し木で殖やすようです。花は今が盛り、はや実に変わっているのもありました。
北米原産。他に似たような種類が幾つかあるようです。
英語名はCommon Snowberry当然その実の色形から。学名はSymphoricarpos albus。エスペラント名は見つかりませんでした。勝手にNeg^beroとしておきます。日本名はセッコウボク(雪晃木)。

英国には1817年に紹介されたとありますが、日本には何時頃渡って行ったのでしょう。

偽地震の思い出

2005-07-26 06:29:56 | Weblog
今回の東京地方の地震はカナダでも報道されましたが、震度6位だとTVを見ていた夫が言うので、かなり大きいね、と応えたらそれほどでもないらしいよという返事が返ってきました。それほどでもないというのは被害が小さかったからなのでしょうか。

その後あちこちからその日の情報が入って来ました。
恐い思いをした人、東京で一人暮らしの子供のことが心配で連絡が取れるまでの時間が長~く感じられた人、福井県のビルの5階で東京の地震を感じた人、同じ街のビルの3階では感じた人が居なかった等々。
そして、もっと大きな地震が来るかもしれないという不安がみんなの脳裏に絡みついていることを感じました。耐震建築が優れた今、関東大震災の時とは比べ物にならない安全性は信じても良いでしょうが。。。

むかし、本郷の関東大震災の生き残り、と言われるビルの中で働いていたことがあります。
小さな古いビルでしたが、建った当時はシャレた建物として評価されていたであろうと私は思っています。震災で傾いたままだったので、窓には歪があり、冬の隙間風は耐え難いことがありましたが、私はまだ若かったので、小さな手編みのひざ掛けを使うことで凌いでいました。
たまたまその部屋に入って来た社長が「寒いのか、ろくな物食べてないんだな」
と言いながら私の後を通り過ぎました。ムッとした私は即座に
「いい物食べるほど、お給料貰っていません」と応えました。
これには私の直属の上司から先輩諸氏に至るまで、顔色を変えたのが判りました。
当の社長は苦笑して「セレナ君には敵わねェ」

この同じビルの同じ部屋で、ある日私は揺れを感じたのです。
私は大声で叫びました。
「地震だ!」
何しろ関東大震災の生き残りの建物なのでみんな地震にはかなり敏感になっています。
それまで平和におしゃべりなどしながら仕事をしていた部屋中の人が全員立ち上り狭いドアに向かって駆け出しました。上に細長い4階建ての2階、コンクリートの建物が崩れたら。。。と言う恐怖があったのでしょう。
狭い入り口でお互いにぶつかり合っている時に、当時の私の5倍はあろうかと言う太った吉田部長も後から追い駆けるようにしてドアに向かいました。吉田さんが立ち上がった途端地震は止まっていました。
「あ、もう終わった」と私は言いました。
震源地は吉田部長の貧乏ゆすりだったのです。
私が本当に地震だと思ったことを誰も信じてくれませんでした。吉田部長の貧乏ゆすりの癖をからかったのだとみんな思っていたようです。私は其処まで辛辣ではないのですけれど。


ドクター・ジョー・パイの妙薬

2005-07-25 05:50:30 | 野の花 - 夏から秋へ
ジョー・パイ・ウィードと名の付く種類は幾つかありますが、茎に斑点のあるこの種類(スポッテッド・ジョー・パイ・ウィード)がこの辺で最も良く見かける種類です。時には斑点が無く、茎が濃い赤紫の場合もあります。
比較的水際を好み沼や湿地帯の近くに良く見かけます。ピンク又は紫っぽい花房は小さな花の集団ですが、それぞれの小花が開くと柔らかな毛がモヤモヤっと生えてお化粧用の刷毛に似ています。個々の花の大きさは1センチ足らずですが、花房は15センチもあります。

この風変わりな名前の由来は、むかし原住民の医者でジョー・パイという名の人が発疹チフスの治療に使い、大いに効果があったところから来たものなのだそうです。
その後の植民地人たちも腎結石を溶かす薬として使ったりしていました。その美しさから、「草原の女王(Queen of the Meadow)」という別名まで貰っている花です。

ところで、日本語での「草」は例え読み方が濁って「ナントカぐさ」とか「ナントカそう」とかに変わっても草ですが、英語の「草」には weed(Joe-Pye weed), herb(Herb Robertヒメフウロ), wort(St. John’s wortオトギリソウ) などがあります。
ジョー・パイ・ウィードと聞いて、「あ、これウィードなの?(この場合は雑草の意)」といった人、ハーブ・ロバーツと聞いて、「ああ、ハーブですか(この場合は薬草の意)」と感心した人、色々いますが、ウィードが必ずしも雑草を意味しないし、ハーブも必ずしも薬草を意味しません。

学名はEupatorium maculatum、エスペラント名はEu’patorioです。
日本名は ヨツバヒヨドリ(四葉鵯)Eupatorium chinense subsp. Sachalinenseですが、学名を見ても判るように少し違います。

他にスィート・ジョー・パイ・ウィード(Eupatorium purpureum)、ホーロー・ジョー・パイ・ウィード(Eupatorium fistulosum)などが有ります。






夫よ、大志を抱け! - Edzoj estu ambiciaj!

2005-07-23 02:02:48 | エスペラント
実際にあった我が友人夫妻の会話です。もう十何年も前の出来事なのですが、何時思い出しても笑いが込み上げてくるエピソードです。


Mia amikino, Kana, estis en la urbeto nomita Niagara-on-the-Lake (Niagara-sur-la-lago) kie trovig^as multaj fruktofarmistoj.
Kaj s^i vizitis vendejon de unu farmisto apud strato kie oni povas ac^eti fres^ajn fruktojn kaj legomojn. Kana trovis korboplenajn persikojn treege malmultekostajn. La farmisto diris ke ili estas damag^itaj. Por Kana ili aspektis tute bonaj. En toronto, oni devas pagi saman koston por unu persiko, do, reveninte hejmen Kana rakontis al sia edzo pri tio.
Li ankau' miris kaj ekkriis
"Do, se mi ac^etus ilin kaj vendus en toronto unu po unu, mi gajnus monon, c^u ne?"
Respondo de Kana estis tute kvieta
"Mi s^atas kredi ke mia edzo kapablas fari pri grandan aferon ol vendi persikojn sur strato."
Lia respondo estis tuja
"Do, c^u mi preferu Akvomelonojn?"


友人のカナがナイアガラ・オンザ・レークという小さな町へ行きました。其処には果樹園を経営している農家が沢山あります。カナはそういう農家が野菜や果物を売っている路傍の店に立ち寄り、籠一杯の桃がものすごく安い値段で売られているのを見つけました。農民は傷物だからだと言いましたが、カナにはちっとも傷んでいるようには見えません。トロントでは一個の桃がその籠一杯の桃と同じ値段で売られているのです。家に帰って夫にその話をしました。彼も驚いて叫びました。
「じゃ、僕がそれを買ってトロントで一個づつ売ったら儲かるね」
カナの返事は落ち着いたものでした。
「私の夫には桃を通りで売るよりもっと大きなことが出来ると信じたいわ」
夫は即座に答えました。
「じゃァ、西瓜にする?」


今日の写真は散歩中に出会った鹿。私のカメラではこれが限度でした。もっと近寄ると逃げられるのでとりあえず撮ったものです。






ボタンブッシュが咲きました

2005-07-22 02:37:23 | 野の花 - 夏から秋へ

七月に入ると、水に影を落とすボタンブッシュの緑色の蕾が目立ってきます。丸いビー球サイズの蕾は固くなかなか咲きそうにも無いのですが2週間もすると可愛らしいポンポンは蕾の時の倍位の大きさになって咲きます。小さな四弁の筒状の花が丸い玉に密集しています。それぞれの花から毛羽のように突っ張って飛び出ている細いマッチ棒のようなものは「花柱」、蜂などが蜜を取りに来た時花粉が付き易い状態なのでしょうね。葉には毒があるそうですが、果実は鴨や水鳥たちが好んで食べます。
始めてこの花を見つけた時、水際と言うより水の中にドップリ浸かって生えているこの潅木にビックリしたものでした。こんなに水漬けになって生き延びられるのかしら、と。
実はこの潅木は水の中に生えるのが好きなのです。
英語名はButtonbush、日本名は「アメリカたにわたりのき (谷渡りの木)」
学名はCephalanthus occidentalis、エスペラント名は見つかりませんでした。
英語名の由来は一目瞭然、その独特な花の形から。水の中が好きという習性を考えると日本名の(谷渡り)も頷けます。


みんなのプロフィールSP

スタグホーン・スーマック

2005-07-21 02:03:10 | 樹 木 ・ 灌 木


スーマックの種類は幾つかありますが、最も一般的で何処ででも見られるのがスタグホーン・スーマック。秋が来ると、楓より一足早く鮮やかな紅葉を見せてくれる潅木です。
漆に似ているので、触るとかぶれると信じている人もいますがかぶれません。
原住民はこのスーマックの実を煎じたヴィタミンCの豊富なお茶を、特に冬の野菜不足を補う飲み物にしていたようです。
全体に柔らかな産毛が生えていて、これが雄鹿の角(staghorn)に似ているところからこの名が付きました。
北米原産、学名は:Rhus hirta、エスペラント名は見つかりませんでした。
日本のヌルデと非常に良く似ているので、ヌルデと決めてしまっている人もいますが、
ヌルデの学名はRhus javanica なので少し違います。


写真は花と色づいた実です。挿入写真はDendrology at Virginia Techと言う所からお借りしてきたものです。英語のサイトですがもう少し詳しく知りたい方は訪ねてみてください。


TOMMY DOUGLAS  カナダの偉人 - その1

2005-07-20 03:12:39 | カナダの偉人
昨年CBC(カナダ国営放送)がアンケートを集めていた「カナダの最も偉大な人物」に14万人ものカナダ人が反応を示したそうです。昨今、選ばれた偉大な人物の伝記が放映されています。トップ10は次の通り。
Greatest Canadians

1 Tommy Douglas
2 Terry Fox(4月の記事をご覧下さい)
3 Pierre Elliott Trudeau
4 Sir Frederick Banting
5 David Suzuki
6 Lester B. Pearson
7 Don Cherry
8 Sir John A. Macdonald
9 Alexander Graham Bell
10 Wayne Gretzky

日本の皆さんには馴染みの薄い名前もあるでしょうが、私自身も気に入っている人物を折に触れて紹介したいと思っています。
その第一弾はナンバー1に選ばれた「カナダの医療の父」として知られるトミー・ダグラス。
俳優のKiefer Sutherland にとっては母方の祖父に当たる人です。
Shirley Douglas参照。
 
"My friends, watch out for the little fellow with an idea." - Tommy Douglas 1961.
「友よ、アイデアを持った小さな奴に気をつけたまえ」-トミー・ダグラス 1961
(彼は小柄な人でした)

Thomas Clement Douglas:1904 - 1986


スコットランド移民の子であるトミー・ダグラスは成長期をマニトバ州ウィニペッグの、政治、哲学、宗教が食卓の話題となるような家庭で過ごした。彼の父は二つの戦争に参加した退役兵で鉄鋳造所にパートタイムの仕事を持っていたが、経済的に厳しくなると、ダグラスと二人の姉妹は家計を助けるために学校を休んで臨時の仕事に働きに出ていた。彼が十才の時4年も前に患った骨の病気のため入院しなければならなくなった頃から、ダグラス家の社会主義的な傾向が固まってきた。彼の膝は何回かの手術を ― そのどれも成功ではなかったのだけれど ― 繰り返さなければならなかった。医者に払うお金の無かったダグラスの両親は息子の脚の病気が酷くなって命取りになる前に脚を切断してしまうのが唯一の手段だと言われたのである。だが、それが実行される前に訪問中の外科医が無料で手術をしようと申し出てくれた。条件はこの外科医の学生達がその手術に立ち会うことである。この外科医は彼の脚を救い、延いては彼の命も救ったのであるが、そして「万人に医療を」というダグラスの夢のインスピレーションともなったのである。
その後間もなくダグラスは1919年の夏、「血まみれの土曜日」として知られるカナダ最初のジェネラル・ストライキの暴力的な終わりを目の当たりに見ると言う経験をした。十代のダグラスは屋根の上からストライキ参加者達に警官が銃を撃ち二人が殺されるのを見た。力ずくで終えられたストライキの血生臭い終焉は彼の労働者に対する献身の思想をより推し進めることになる。
青年時代ダグラスはさまざまな職業を試みるが、1924年バプティスト教会が経営するカレッジに入学した頃真の自分が進む道を見出し、ここで彼の「社会の福音」観念は磨かれるのである。卒業後の数年、不況時代のサスカッチワン州で牧師として働いたが、1935年コーオペラティーヴ・コモンウェールス連盟(CCF当時の政党の一つ、社会主義思想、現新民主党の前身)から国会議員に選ばれ、政治家としての第一歩を踏み出す。9年後サスカッチワン州CCFの党首となり、楽々当選で北米初の社会主義政権を率いる首相となる。
半信半疑の人々を尻目にダグラスは最初の任期に100もの法案を通過させた。舗装道路、下水道設置、農民の権力等々、そして州の負債を2千万ドルも減らしたのである。続く18年余の間、共産主義を恐れるキャンペーンや全州に及ぶ医師のストライキを生き延び、当選は五期、サスカッチワン州民のために自動車保険、労働改革、そして長い間の彼の夢であった「万人に医療」を導きいれたのである。

トミー・ダグラスの残してくれた遺産 -( 社会福祉、万人への医療、老齢年金、母親手当 - 等々の実現にダグラスが貢献した)ひと時は急進的なアイデアと見なされたものが、今では当然のことと受け入れられているのである。




毛深い花、エピロビーオ

2005-07-16 23:24:15 | 野の花 - 夏から秋へ
Hairy Willowherb
ヨーロッパ原産のこの花を性質の悪い邪魔な雑草と看做している州も多いようです。
私が見る限り特別旺盛な繁殖力を発揮しているわけでもなく水際のささやかな所に遠慮がちに咲いています。優しいピンクの色にほんのりとかかった白が可愛らしく合歓の花の色を思い出させてくれます。雌蕊が極端に突き出ている所に意志の強い個性を感じるのは私だけ?。
ダッファリン島の片隅に見つけて以来、他の何処にも見たことがありません。
葉の両面に、茎に柔らかな毛が生えているところからこの名(Hairy/毛の多い)が付いたようですが、ビロードのような柔らかいい感触は花の優しさと良く合っています。
日本名はオオアカバナ(Epilobium hirsutum var. villosum)、カナダのとは少し違うようですが絶滅の危機にさらされているとか。
学名はEpilobium hirsutum、エスペラント名はEpilobio (の一つ)です。

もう一回り花の小さいアカバナ(Northern willowherb / Epilobium ciliatum / Epilobio)もありますが、今回写真が見つかりませんので、人様の写真ですがこちらを見てください。

アピオス・アメリカーナ

2005-07-14 02:38:50 | 野の花 - 夏から秋へ

この花もダッファリン島で見つけた一つです。
マメ科の花は大方が綺麗な明るい色をしているのに、「変な色!」というのが第一印象でした。グラウンド・ナッツという英語名を知ってから、アメリカ・ホドイモという日本名を知るまでに大分時間を掛けました。見つからなかったのではなく探さなかっただけなのですが。
整理して書いておこうと思うまで探さないのが常です。
むしろ茶色に近い、紫を帯びた暗赤色の花に慣れてくると「君はちょっと変わり者、だから。。」という愛着のような感情が芽生えて来て、最近では花は未だかな、と前年咲いていた場所を探すようになりました。
花から判るように、マメ科。湿っぽい茂みに生え、蔓は3メートルくらいまで伸びます。
北米原産で、原住民にとっては栄養価に満ちた食料でもあり、植民地人も最初の年を過ごす食糧をこの植物に依存しました。
日本へは明治時代に渡来したようです。市販されている苗の宣伝文句は
「ジャガイモの30倍のカルシュウム、鉄分は4倍、エネルギーは2.5倍。サツマイモの3倍の食物繊維、ほかのいもにないビタミンEも含んでいます」
 さらに「糖尿、高血圧、アトピー、便秘、花粉症の予防効果があるといわれます。ダイエット、元気回復にも最適」と書いてあるそうです。
http://www.nava21.ne.jp/~masaki-f/apios.htm 参照。
ホドイモ、と言う言葉もこの花を調べていて始めて知りました。
塊根はスープやシチューに、或いはお芋のように油で揚げて、豆も煮て食べられます。

Apiosはギリシャ語の「梨」で、塊根の形が西洋梨に似ているところから。
日本名はアメリカ・ホドイモの他、学名をそのまま使いアピオスとも呼ばれています。
英語名はグラウンド・ナッツ又はワイルド・ビーン。
エスペラント名は判りません。Apioso とでも言うのかなと調べてみましたが出ていませんでした。でも、Apioso Amerikana で良いと思います。
花は7月から9月頃まで。私の図鑑によれば、栽培も良いけれど丈夫で他の植物を淘汰してしまうので注意が必要とのこと。


絵を描ける人

2005-07-13 04:27:18 | Weblog
中学生の頃授業中にノートの端に落書きしていたものです。
その落書きを欲しがる子がいて、紙切れに描いてあげていました。
そのうち級友の一人が、描きたくなったらこれに描いて、と大きな白紙のノートを持ってきました。彼女の企みは私の落書きを独占するつもりだったのです。
落書きは落書きであって、このように『要求』されるとあまり描く気になりません。それでもこのノートはかなり埋まり、この級友は大切にこれを今も保存しています。
もし、本気で絵を勉強していたら。。と思う時がありますが、何時かその日があるかもしれません。

見た物を見たように描けるのは羨ましい限りです。
見たように描いたつもりでも出来上がりは見たように現されていないのが常なのです。

今日配達されたカナダの日系新聞「日加タイムス」に紹介されていたウィにペッグの大類登貴(おおるい とき)さんの記事にとても心を動かされました。
彼女が中学生時代落書きをしていたかどうかは知る由もありませんが、本気で絵の勉強をしていたことは確かです。目下ウィニペッグで個展を開いておられるそうですが、紙上に紹介された3点を見ても「羨ましい」絵です。色使い、光と影の按配なぞ。
絵の美しさもさることながら、この個展の名前が『広島の日記』。紙上に紹介されている内の2点は原爆ドームが題材です。戦争の残酷さを体験し、且つ生き延びた者としての義務感もこの人の画作に底力を与えているような気がします。
原爆投下60年目、大きなイヴェントを企画している平和運動団体などから彼女の絵を展示したいとの申し出もあるとか。
これから描くテーマは「Peace 平和」に決めたそうです。どのように表現活動を展開されるか楽しみでもあります。

彼女の今後の活躍を祈りつつ。。。


(サイバー情報があれば、と検索してみましたが、「大類登貴」では何も出ませんでした。個展の開かれている画廊、アデレイド・マクダーモット・ギャラリー/綴りを Adelaide McDermott Galleryと憶測して検索しましたがこれも出て来ません。)

白樺の国

2005-07-11 04:46:06 | エスペラント

夏が来ると思い出す。。。歌。
リズムが良く調子づいて歌いたくなる歌、
カヌーを漕ぐときなどは歩調(櫓調?)が合っていいのです。夢と郷愁に満ちていると感じています。
(カヌーのツアーなどに関心のある方はこちらをご覧下さい。)

今となっては何時何処で手に入れたのか全く記憶が無いのですが、幸い楽譜は保存してあったので披露しましょう。
楽譜と一緒にコピーした解説には次のようなことが書いてあります。参考までに。

《この歌の歌詞と曲は、ムスコーカで10数年前初めてこの歌を聞いたというトロントのメリック・ジャレットさんの提供です。オンタリオではレーク・オブ・ザ・ウッズ湖からオタワ、そしてムスコーカ湖、ハリバートン地方一帯にかけて広く知られている歌で、夏のキャンプでは、過去20年あまり歌われてきたものですが、いつどこで作られた歌なのかは誰も知らないようです。オンタリオ州教育局の公共プログラム部が「音楽と歌の遊び」小冊子に「カナダ的環境にインデアンの趣のある良い民謡である」として含めたものです。》

私の日本語訳、エスペラント訳ですので、改善の余地を見つけた場合はお知らせ下さい。


Land of the silver birch
1. Land of the silver birch, home of the beaver,
Where still the mighty moose wanders at will
Blue lake and rocky shore,
I will return once more.
(Refrain)
Boom de de boom boom,
Boom de de boom boom
Boom de de boom boom
Boo-oo-oom.

2. Down in the forest, deep in the lowlands,
My heart cries out for thee, hills of the north.
Blue lake and rocky shore,
I will return once more.
(Refrain)
Boom de de boom boom,
Boom de de boom boom
Boom de de boom boom
Boo-oo-oom.

3. High on a rocky ledge I’ll build my wigwam,
Close by the water’s edge, silent and still.
Blue lake and rocky shore,
I will return once more.
(Refrain)
Boom de de boom boom,
Boom de de boom boom
Boom de de boom boom
Boo-oo-oom.



    白樺の国

1. 白樺の国、ビーバーの故郷
  ヘラ鹿自由にさまよう
  水青く、岩荒く、
  また帰りたい
 (繰り返し)
  ブンディディ ブンブン
  ブンディディ ブンブン
  ブンディディ ブンブン
  ブ‐‐‐ン

2. 深い森よ、広がる平野
北国の丘にあこがれ
水青く、岩荒く
また帰りたい
(繰り返し)
  ブンディディ ブンブン
  ブンディディ ブンブン
  ブンディディ ブンブン
  ブ‐‐‐ン

3. 岸壁の上にウィグワム建てよう
湖は凪いでおだやか
水青く、岩荒く
また帰りたい
(繰り返し)
  ブンディディ ブンブン
  ブンディディ ブンブン
  ブンディディ ブンブン
ブ‐‐‐ン

   Lando de Blanka Betulo
1. Lando de blanka betul’ - hejmo de kastoloj
Kie ankoraû potencaj alkoj vagas libere
Blua lago kaj roka lagbord’
Mi revenos plu da foj’
(refreno)
Bum di di bum bum
Bum di di bum bum
Bum di di bum bum
Bu- - - m

2. Fore al arbaron kaj malaltejon
Mia koro elkrias por ci, monteto de Nord’
Blua lago kaj roka lagbord’
Mi revenos plu da foj’
(refreno)
Bum di di bum bum
Bum di di bum bum
Bum di di bum bum
Bu- - - m

3. Alte sur la roka bret’ Konstruos mian Vigvamon
Proksime al akvorand’, silenta kaj kvieta
Blua lago kaj roka lagbord’
Mi revenos plu da foj’
(refreno)
Bum di di bum bum
Bum di di bum bum
Bum di di bum bum
Bu- - - m




カヌー




ウィグワム




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楽譜を読める人や楽器を持っている人は
試してください。覚えやすい歌です。
音符と言葉の合わせ方に
多少ずれている所もありますが、
適当に歌いやすいように
工夫してみてください。