★ Serena ★

カナダ暮らしのエスペランチスト、自然愛好家。
エスペラントやカナダの野草、ネーチャークラブの活動など思いつくままに。

フランダースの野に

2006-11-10 09:08:46 | 季 節
十月下旬から人々は胸にポピー(芥子)の花を飾ります。11月11日までこれは続くのですが、11月11日には各地で慰霊祭が行われ、過去に戦争で亡くなった人々の冥福と戦争の無い世界を祈ります。
私の好きな詩の一つ「In Flanders fields 」を紹介します。訳はすべて私です。

☆翻訳に関して色々な意見を貰います。日本語の表現がイマイチ、エスペラントの語の選択にもう一工夫云々。。と。
その程度のことは言われなくても判っています。もし意見を下さるなら、ここはこう直すのが良い、とか、こういう表現の方がいいのでは?とか、もっと建設的な意見をいただきたいものです。それが出来ないなら、あなたは私と同じ程度なのだと知ってください。


フランダースの野に

フランダースの野に芥子の花がそよぐ
列また列と並ぶ十字架
僕たちの場所と印された十字架の野に。
そして空には、勇敢にも歌いながらひばりが飛ぶ、
砲音の真っ只中その声はかき消されて

僕らは死者、昨日まで生きていたのだ
曙を感じ、夕日が輝くのを見ていた
愛し、愛されてもいた。そして今ここに横たわる
フランダースの野に。

僕らの戦いを続けてくれ
倒れながら、君たちにたいまつを投げ渡そう
君たちの手で高く掲げてくれ。
死ぬ僕らの信頼を裏切るなら、僕らは眠れない
どんなに芥子の花が育とうと、ここ
フランダースの野に。



In Flanders fields

In Flanders fields the poppies blow
Between the crosses, row on row
That mark our place; and in the sky
The larks, still bravely singing, fly
Scarce heard amid the guns below.

We are the Dead, Short days ago
We lived, felt dawn, saw sunset glow,
Loved, and were loved, and now we lie
In Flanders fields.

Take up our quarrel with the foe:
To you from failing hands we throw
The torch; be yours to hold it high.
If ye break faith with us who die
We shall not sleep, though poppies grow.
In Flanders field.


ジョン・マクレ-について:
1915年、親しい戦友の一人を埋葬したばかりのジョン・マクレ-大佐は、この静かな曙に、戦争で痛めつけられたベルギーのイープルで、小止みになった戦いの合間の待避壕に座り、ほとばしり出る感情を詩の形で走り書きした。
エセックスの戦場墓地の墓標、幾列にも並ぶ白い木製の十字架は曙の日の光を受けて光っていた。
三連の詩は20分で完成した。
カナダ第一野戦砲兵隊の医師としてその墓地や、そこに横たわる勇敢に戦って倒れた若者たちの記録をマクレ-は痛いほど理解していた。

この詩がその年の12月英国の雑誌パンチに載るや、大戦への同盟を喚起する詩として歓迎され、次第に『フランダースの野に』はカナダ人が書いた最も良く知られる詩となっていった。
ジョン・マクレ-はもう20年近く詩を書いており、カナダの文学雑誌の読者には良く知られていたが、詩作は彼の本業ではなかった。

ジョンは1872年11月30日オンタリオ州のグェルフに生まれた。14歳でグェルフ・ハイランド士官学校に入ったが、これは軍人の家庭に生まれた彼としてはごく当然の成り行きだった。16歳でトロント大学に奨学生として入学、1894年、生物学部を優等で卒業した。そして4年後には医学部を卒業している。
ジョンはトロントとモントリオールで医業にいそしみ、余暇には詩を書きスケッチもした。しかし、医師としての安泰な生活に何故か満足できなかったので、ボーア戦争(1899~1902/南アフリカ)が始まるやローヤル・カナダ砲兵隊に入り、帰国したときには女王のメダルと三つの従軍記章を得ていた。
その後の14年を彼はモントリオールで患者を診たり、マギル大学で講義をしたりして働いた。一度も結婚しなかったので1914年に大一次世界大戦が勃発した時には後ろ髪を引く家族も居らず、再入隊し、カナダ野戦砲兵隊第一軍団の少佐を任命された。同じ頃彼の父親デービッドも、すでに70才を過ぎていたにもかかわらず入隊し、海外に勤務した。彼は戦争が終わる頃には陸軍中佐になっていた。

1914年当時戦争に勇んで出かけた若者達は愛国心と理想主義に燃えていた。強い名誉感、義務感があり、ほとんどが戦争は短く栄誉有る冒険であろうと期待して出征して行った。しかし間もなく現実はそう甘くは無いことを彼らは経験から学ばなければならなかった。

塹壕の中で、砲弾が点在する泥の中で、何千人もの男達が死んでいった。十分な訓練を受けておらず、一度も武器を手にした事がないような経験の浅い上司のもとで、彼らは砲弾や毒ガスや、病気に倒れていったのだ。
ジョン・マクレ-自身がそうした彼らの一人だった。1918年1月彼は陸軍大佐であり、間もなく第一総合病院の司令官としての任務につくことになっていたのだが、1月23日肺炎にかかり、5日後に亡くなってしまった。フランスのブーローニュに近いウィムローに埋葬されている。その翌年彼の詩集『フランダースの野に、他』が出版された。

こんにち彼の出生地は国の歴史遺跡となっている。スピード川の南にあるこの魅力的な家は、修復されマクレ-家が住んでいた当時の家具などを調え、磨き直されている。
その近くにはマクレ-と彼の戦死した同僚達にささげる「永遠の火」が燃える記念碑がある。反戦思想を言葉にしてはいないが、戦争の悲しさ、空しさ、残酷さを叫んでいるこの詩『フランダースの野に』はカナダの、愛国心に燃えて散った戦死者たちへ捧げる感謝状と言えよう。


En Flandruja Kampo

Per John McCRAE
En Flandruja kampo la papavoj frapas
Inter krucoj, vico sur vico
Kio markas nia placo; kaj en la cielo
La alaudoj, ankorau brave kantantaj, flugas

Apenau audite meze de pafiloj malsupre
Ni estas la mortintaj, tagoj antaue
Ni vivis, sentis tagigon, vidis sunsubir’ brile
Amis, kaj estis amataj, kaj nun ni kusas
En Flandruja Kampo

Prenu nian kverelon kun la malamikoj
Al vi ni jetas de malplenumitaj manoj
La torcon; estu via teni gin alte
Se vi rompas fidon de ni kiu mortas
Ni ne eblas dormi, malgrau kreskas papavoj
En Flandruja Kampo


何故「芥子の花」?
☆ ナポレオン戦争の時戦死者の墓の周りに咲き出した芥子の花は不思議な花として注目を浴びた。

☆ 20世紀に入り芥子の花は再び広く注目を浴びる。第一次世界大戦中の粗石のため石灰が豊かになったフランス/ベルギーの土地に再び咲き始めたからである。

☆ 1915年、オンタリオ州グウェルフ出身で、カナダ軍の砲兵隊に医者として勤めていたジョン・マクレーがその現象を彼の有名な「フランダースの野に」に記録している。

☆ 休戦二日前にジョージア州アーテンズのモイナ・マイケルという一人のアメリカ女性がマクレーの詩を読み、その示唆を受けて、戦死者を記念し年中芥子の花を身に付けることにする。

☆ 1920年、米国を訪問中だったフランスのグェラン夫人がコロンビア大学のYMCAで偶然、そこでヴォランテァをしていたマイケルさんに会う。

☆ その時グェラン夫人は、戦争で破壊された地域の貧しい子供達の為に休戦日の前後に手作りの芥子の花を売り、資金集めをしようと決心する。

☆ 1921年、元総司令官でフランス/ベルギーにおける英軍の陸軍元帥、且つ在郷軍人会の創設者の主軸でもあるアール・ヘイグはグェラン夫人のアイデアにすっかり同意、英国の在郷軍人会が貧しいそして身体障害を持つ在郷軍人達の為に資金集めをする「ポッピー・デー・アピール」を組織することに許可を与えた。

☆ その同じ年、グェラン夫人はカナダを訪問。カナダでも同じく資金集めの補佐に、英霊記念のシンボルとして芥子の花を受け入れるよう「大戦争帰還兵組織(後のローヤル・カナダ・在郷軍人会)」を説得した。

☆ 今日、ポッピー・キャンペーンはローヤル・カナダ・在郷軍人会の最も重要なプログラムの一つである。ポッピーの売り上げ金は生活費に苦渋する元軍人を直接補助し、且つ医療器具やリサーチ、ホーム・サーヴィス、養護施設その他の目的に使われている。