★ Serena ★

カナダ暮らしのエスペランチスト、自然愛好家。
エスペラントやカナダの野草、ネーチャークラブの活動など思いつくままに。

ホワイト・レタス August 30,2005 18:29

2005-08-31 07:29:04 | 野の花 - 秋から冬へ
White Lettuce

学名:Prenanthes alba
英語名:White Lettuce
    別名:Rattlesnake-root
エスペラント名:Krotalo-radiko(勝手命名)
日本名:不明

先日見つけた花です。
写真で探すしかないので、検索は写真の出ているページを漁りました。
あった!
色が少し違うけど。。。ホワイト・レタス。
ナァンダ、ホワイト・レタスなの。
これがホワイト・レタスよ、と教えられた時はいつも花の無い季節。葉っぱだけしか見ていないのです。そう言われてみれば、確かにあの葉っぱだ。こんな花を咲かせるなんて考えても見なかったのです。

教訓:今度花の無い時期に教えられたら、すぐ花を調べておくこと。
     写真で見てその色形を記憶しておくことで思い出すことも出来ようと言うものです。

北米原産。日本には広まっていないようで、日本名を探すのに学名を入れて検索しても関係の無いようなページばかりが出てきました。
何故「白いレタス」なのか分かりませんが、別名の「がらがらへびの根」はこの草が蛇に噛まれた時の薬として使われていた事から付いたようです。また、根から苦い飲み薬を作り、これは赤痢に効くと思われていました。

ところで、翌日撮った写真もまたまたピンボケ。何故?
今日は充電していた電池をカメラに入れるのを忘れて出かけたのでボツ。
従って写真はイマイチ作品です(次のは成功するという自信があるわけではありませんが)。
当の花はもうかなり萎んでいたし、次の花が咲くまでは2、3日かかりそうだし、その上、明日はハリケーン・カトリーナが当地にもお立ち寄りの予定とか。
大分弱っているとは言うものの凶暴極まりないお嬢さんです。何をしでかすか。。。だからおとなしく家に居た方がいいような日かもしれないのです。
写真はホワイト・レタスの草(葉の形がマチマチ)とその花


フォールスヴュー・ホテル August 30,2005 16:54

2005-08-30 05:54:12 | Weblog

電話メッセージが入っていました。もう何年も会っていないトロントの知人からです。
ナイアガラフォールスに来ているので会いたい、泊まっているホテルはフォールスヴュー・ホテル。部屋番号は716。電話下さい。というものです。
滝が見えるところにたっているホテルは殆ど皆その名の後に「フォールスヴュー」と付けています。これだけではどのホテルなのか分かりません。

そこで、一体何軒くらいのホテルが「フォールスヴュー」を使っているのか電話帳で調べてみました。十軒あります。中には小さなホテルで7階など無いのもありますから、そこからある程度は絞れますが全部のホテルを知っているわけではないので、これも一々電話で聞いて見なければなりません。
「もしもし、お宅7階ありますか? 無ければいいです」ガチャン!
ってことに。
「フォールスヴュー」と名の付くホテルが一つしかないと思っている人が意外に多いのに驚きます。これをつけることでその位置が大体分かるし、ホテルとしては売りやすいわけですから付ける気持ちは理解できます。この混乱を避ける目的でしょうけれど、「オン・ザ・フォールス」「バイ・ザ・フォールス」等々他の呼び方を工夫している所も勿論ありますが、それさえも「フォールスヴュー」だと思い込んでいる場合があるのです。

この「フォールスヴュー」で苦い経験をしたことがあります。

バッファロー空港に到着したグループの或るメンバーの荷物が到着しませんでした。係員は色々書式用紙に書き込み、ホテルの名前も勿論訊きました。
「シェラトン・フォールスヴュー」と私が応え、係員が書き込みます。当然その通りに書いたものと思っているので、次の便で到着次第ホテルに届ける約束で立ち去りました。
グループをホテルに届ければ私のその日の役目は終わりなので帰宅したのですが、翌朝、荷物が未だ来ていないと言われたのです。幸いグループはその日またバッファロー空港から飛ぶので荷物は取り戻せたのですが、航空会社のオフィスに行くと前日の係員では無い人がいて、どのホテルか分からなくて届けられなかった、と言うのです。呆れてしまいました。
その時は一晩の不自由で済んだのですが、もうバッファローに戻らないのだったら、大変面倒なことになっていたでしょう。
写真は「フォールスヴューホテル」の群れ

ジプシーの馬 August 28,2005 15:16

2005-08-29 04:16:09 | エスペラント






二人の友人が道でばったり出会いました。一人はユダヤ人他の一人はジプシーです。
「何か新しいことある?」とユダヤ人がジプシーに訊きました。
「馬を買ったのよ」とジプシーが応えました。
「おぉ、そりゃ良いニュースだ。で、馬は元気なの?」
「元気だよ。それに良く働くし。。。」
「そりゃァ良かった。じゃ、満足してるわけね。」
「ン。。。だけど、あいつ凄く良く食べるのよ。食べ過ぎないようにさせる何か良い方法無いかねェ?」
そこで、ユダヤ人はジプシーに食べ過ぎないよう教えるのが良いと言いました。
「それはどうやって?」とジプシーが聞きました。
「簡単よ。馬にやる餌を毎日少しづつ減らしていけば、そのうち沢山食べないようになるよ。」
「お、そりゃいい考えだ。その方法を早速始めよう」
数週間後、この二人は又ばったり出会いました。ユダヤ人は結果を知りたくてせっかちに訊きました。
「で、君の馬は沢山食べないことを憶えた頃でしょう?」
「そう、憶えた事は憶えたのよ。全然食べなくなって」とジプシーが応えました。「次の日、死んでしまったヮ」

(出典不明)
(節食を実行中ならあなたの健康にご注意下さい)
りこさんからヒントを貰って 「額縁」 試してみました。が、
中の絵がシックリ納まらず絵の上か下に隙間が出来てしまうのです。
でも、背景が白いこの馬なら巧く誤魔化せました。



Renkontis du amikoj sur strato. Unu estis judo kaj alia cigano
"Kio estis novaj^o?" Judo demandis al cigano.
"Mi ac^etis c^evalon" Cigano respondis.
"Ho, bona novaj^o! Kaj kiel g^i fartas?"
"Bone, g^i estas sana kaj laboras bone...."
"Bone, bone, do vi devas esti felic^a"
"Jes... sed g^i mang^as tro multe. C^u vi havas iun bonan ideon ke ne lasi la c^evalon mang^i tro multe?"
Judo respondis al cigano ke instruu la c^evalon ne mang^i tro multe.
"Kiel mi faras tion?" Cigano demandis.
"Estas facile. Vi donu mang^ag^on al g^i c^iutage malpli ol antau'a tago po iomete, kaj baldau' g^i lernos ne mang^i multe."
"Ho, bona ideo! Mi tuj komencas tiun metodon."
Kelkaj semajnoj poste denove ili renkontis. Kaj judo, tiel kurioza, demandis urg^ante.
"Do, c^u via c^evalo lernis mang^i ne multe nun?"
"Jes, g^i lernis tute ne mang^i." cigano respondis."Sed, sekvanta tago g^i ja mortis."
(Deveno ne konata)
Se vi estas dietanta, estu zorgema pri via sano.



秋のしおり August 27, 2005 14:44

2005-08-28 03:44:19 | Weblog


珍しい花を見つけました。未だに見た事の無い花で名前など見当も付きません。
花びらを数えると11枚。11枚? 何度数えても11枚です。
昨日も一昨日も歩いていた道なのに全く気が付かなかったのは何故でしょう。昨夜突然生えてきたと言うわけでは無いでしょうのに。
やけに背の高い草が目に付いたのです。葉っぱの形が茎の下方と上方で違うことに気付き、見上げると筒状の蕾の房が天辺についていました。
花が開くまでにはまだ間があるな、と思った途端目に入ったのが下の方にある同じ草。もっと背が低く、こっちはもう花を開いていました。
私の図鑑には載っていない草。どうやって調べようかと思案中です。
北米の野草400種が全部写真付きで入っているという図鑑をこの春買った友人に写真を送ることを思い付きました。ああ、その写真、全部ピンボケ。これどういうことでしょう。
明日出直して撮り直し。明日の天気予報は雨。三日くらい続くとか。。。その間に花は散ってしまうと言う事だって考えられます。
[Everything happens for reason / 何事もそれなりの理由があって起る] という言い草があります。
今まではナルホドねェ、くらいに思っていたのですが、この花の発見も、名前の調べようが無いこともそれなりに理由があるのでしょうね。
手折って、園芸学校へ持っていったら、誰か教えてくれる人が居るでしょうけれど、たった二株しかない草を手折ることには抵抗がありますし、その誰かを見つける前に花が枯れてしまうかもしれません。
結局、明日の天気予報は外れ、写真が巧く撮れ、友人の図鑑の400種の中にこの花が含まれていることを祈るしかないようです。

帰り道、たった一枚落ちていた赤い楓の葉、秋の栞を撮りました。これだけがピンボケでなかったのは皮肉です。


ボーンセット August 26, 2005 08:30

2005-08-26 21:30:09 | 野の花 - 秋から冬へ


学名:Eupatorium perfoliatum
英語名:Boneset
エスペラント名:Eu^patrio (unu el…)
日本名:フジバカマ(Eupatorium fortunei) の類

極北を除く東部一帯に分布しています。
学名のperfoliatum(tratrui)が示すように、付け根のところでくっついた葉を茎が貫いているように見えます。
骨折を治すのに、この葉を副え木と共に包帯で巻きつけて使ったもので、
英語名のBonesetは「骨接ぎ」の意味です。
乾燥させた葉は煎じて、風邪、咳、便秘の治療に使われていました。
特別華やかでも無く、芳香が有るわけでもない質素な花ですが、やはり季節が来ると「もう咲いたかなァ」と探してしまいます。ふわふわと毛が生えたような感じの花の形はジョー・パイ・ウィードに良く似ています。
日本の藤袴は色々な色があるようですが、ボーンセットは白のみですし、葉の形や付き方も違います。

LESTER B. PEARSON カナダの偉人-その3  August 25,2005 07:19

2005-08-25 20:19:17 | カナダの偉人
カナダの歴代の首相たちを考えた時、レスター・B・ピアソンほど短い在任期間に多くのことを成し遂げた人は少ない。
彼はカナダ・ペンション、全国的な万人医療組織、二言語主義に関する委員会、二文化主義、メープル・リーフの国旗等の設置を監督した。しかもこれら全てを大多数政府を獲得せずに実行したのである。

1897年メソジスト教会の牧師の息子としてニュートンブルック(現在はトロントの一部)に生まれた彼の子供時代は神、熱心な労働、そして運動(特に、ホッケーと大好きな野球)に満ち満ちていた。

1913年トロント大学の令名あるヴィクトリア・カレッジに入学、18歳になるや第一次世界大戦で戦うべく入隊した。戦後奨学金を得て、オックスフォード大学に入り、後、トロント大学の歴史教師の地位を得る。
彼のキャリアの歴史的転換は1928年新しく出来た外務省に入った時で、その後の20年に亘りカナダの国際的なイメージの形成に大きな役割を果たし、国連及びNATOの造成にも重要な役を受け持った。ピアソンは世界で最も良く知られるカナダ人となり、彼の指導の下、世界はカナダの発言に単に耳を傾けるだけではなく熱心に注目するようになった。

1948年自由党員としてアルゴマ東部の議席を獲得した彼は直ちに外務大臣となり、国連の議長をも務めた。

1956年十月エジプトがスエズ運河を封鎖し、世界大戦にもなりかねない状況になった。英国、フランス、イスラエルが運河をコントロールすべくエジプトを攻撃し、戦争が拡大しそうになった時ピアソンは各国を説得、中立の国連平和軍を設立し、この地域の平和維持を司ることに同意させたのである。ピアソンの平和軍はその後も世界各地で平和維持に当たっている。
この努力により、「世界を救った」として1957年ノーベル平和賞を受ける。

ピアソンは、最低賃金時給$1.25、一日8時間、一週40時間労働そして年2週間のヴァケーションを含む労働法を導入し、農民を保護するために農作物保険を設立、今までに無い改革的で進歩的な法律をカナダ人に提供したが、これらすべてを赤字も出さずに実行したのである。

彼の最も議論を呼んだ行為はカナダに新しい国旗を作ったことであろう。彼にとって国旗はカナダ人全てが、その祖先や人種には関係なく、自分の国の旗として誇るべき物で無ければならなかった。それまで使っていた英国の印の入った赤い国旗に変わり、赤と白のメープルリーフが1964年、カナダの最初の正式な国旗となった。

1967年モントリオールで開かれたエキスポ‘67の際、フランスのドゴール大統領が大衆を前にした演説の中で「ケベックの自由万歳!」を叫んだことは周知のことであるが、ドゴール大統領はモントリオールに入った時ナチから解放された直後のパリに入った時のことを思い出したと言ったのである。ピアソンは大いに憤慨した。フランスをナチから開放するために戦ったのはカナダ人なのだ。翌日ピアソンは応答の演説をした。「カナダ人は解放される必要などない」と。ドゴールは尻尾を巻いてフランスに帰った。

その年の終わりにピアソンは引退を発表して人々を驚かしたが、常に若い才能に目を向けていた彼は、自分が自由党に連れてきた、そうした才能の一人であるフレンチカナディアン、ピエール・エリオット・トゥルドーにバトンタッチした。
ピアソンが亡くなったのは癌と戦った後の1972年12月だった。

彼を称えて、1984年にはトロント国際空港がレスター・B・ピアソン国際空港と改名された。また、オタワに有る外務省の建物もレスター・B・ピアソン・ビルディングである。

タートルヘッド Audust 23, 2005 16:32

2005-08-24 05:32:34 | 野の花 - 秋から冬へ
Turtlehead


学名:Chelone glabra
英語名:Turtlehead
エスペラント名:H^eloni-kapo(勝手命名)
日本名:麝香草もどき

花の形が亀の頭(Turtlehead)を連想させるところから、この名が付きました。Cheloneはギリシャ語で亀の意味です。蛇の頭と表現する人も居ます。蛇でも亀でもあまり感じの良い頭ではないのですが、この花には何か優しさを感じます。
普通は白一色のようですが、ちょっと紫っぽいピンクが先端に掛かっているのもあって、私はこの方が好きです。
場所によっては七月頃から咲いているようですが、この辺ではやはり八月下旬から九月でしょう。今年はまだ見ていません。



秋の始まり。。。  August 22, 2005 17:38

2005-08-23 06:38:45 | Weblog
上流から見える滝のしぶき

買い物に行きました。買った物が少なかったので、"1~8個まで"のエキスプレス・キャシアーに並びました。私の前に並んでいたおばあさんに、キャシアーが「今朝あなたが来た時より暖かくなっている?」と訊いています。「暖房入れたと思うけど。。」
このおばあさん、今日二度目なの?と思ってちょっと目を丸くしていたら、「手がかじかんでねェ」等と言っています。今朝買い物に来て店の中が寒いと苦情を言ったのかもしれないと見当が付きました。車をもう運転しない人だと、一度に沢山持てないから何度か来る、というのも分かります。孤独なので店で人々と言葉を取り交わすのも楽しみなのかもしれません。私の買ったパプリカを見て「それ、素敵ねェ」と言ったのも会話を始めたかったからなのかもしれないのです。それなのに私は「フンフン」と喉の奥で返事していました。冷たい。

実際今日は毛糸のコートを着ている人も見ました。裸でジョギングしている人も勿論いましたけど。私自身は散歩にやはりナイロン地の裏付きジャケットを羽織りました。途中で脱いだけど。23℃だから、決して寒くは無いのですが、朝の内は13℃位だったから、このおばあさんの手がかじかんでも可笑しくは無いかな、です。

帰宅すると電話メッセージが入っていたので、折り返し掛けてみると。。。
この秋の紅葉ツアーの変更でした。凄いとんぼ返りで、オタワからモントリオールに行ったり来たりの可能性もありそう、と言う話。アルゴンキンは乾燥していて、葉がストレスで茶色になっているという情報です。
暑さはあまり当てにならなかったか、とガックリ。水不足ではいくら暑さだけ満足でも木だって堪ったものではないでしょう。
来月下見に行く予定なので、その時もっと良く分かるでしょうけど。
何が何でも毎年の狂人的な九月を無事乗り越えなければ、と悲壮な決心を新たにしました。
そして、FIT(Foreign Individual Tour)は困ると言う話。

さんざん時間を掛けて旅程を組んであげたら、高すぎるから自分でやる、と言ったそうです。こういう只働きは旅行業には付き物ですが、アルゴンキン公園でカヌー・ツアーをするのに、本当に自分で出来ると思っているのか、しかも五才と九才の子供を連れて、日帰りでやると言うのです。
トロントから列車でハンツヴィルまで行って、そこからタクシーで公園に入って。。。と考えると却って高くつくでしょうのに。
カヌーも借りなければならないし、タクシーは待たせておくつもりなのか。帰りたくなってから呼び戻すとしても、ハンツヴィルからは公園に入るだけで一時間掛かると言うのに。
それに、子供を連れてカヌーに乗せて、事故を防げるのかと言うことも話題になりました。なれたガイドを付けてこそ安心していられるのに。

最近の日本からのツアーは「安かろう悪かろう」の傾向が強くなっているようですが、安けりゃ良いと言うものではないと思うのですね。特にカヌーなど、誰でも出来るようでそうでもないものは。
コリァンの学生達のツアーで救命胴衣を着けておらず、溺死者が出ると言う事故も最近あったそうです。


写真は天高く昇る滝のしぶきです。ず~っと上流から撮ったもので、手前の水は発電所の一つに使う貯水池。


スイカズラ Augusr 21, 2005 19:57

2005-08-22 08:57:14 | 野の花 - 春から夏へ
tartarian honeysuckle の実と花

学名:Lonicera tatarica
英語名:Tartarian Honeysuckle
エスペラント名:Lonicero Tartaria (Laŭ Serena)
日本名:スイカズラ

タルタリアン・ハニーサックルの実が赤く綺麗に光っています。
日本のスイカズラ(Japanese Honeysuckle)は白い花で時が経つにつれて 黄色に変わり、実はオレンジ色です。
ハニーサックルを検索するといろんなのが出てきて、しかも「間違えていたらごめんなさい」という自信の無いものまであり、探せば探すほど判らなくなるような気がしました。
花は5月から6月に掛けて咲きます。もともとユーラシャから持ち込まれ、庭に植えられていた物が野生に逃れて増えていったようで、他の土着の植物を淘汰してしまうほどの勢力があります。
良く熟れた実は小鳥達に食べてもらうべく、その輝く色で宣伝しています。
「私を食べて! 私を食べて!」と。赤い実の枝を折ってビンに挿しておいたら随分長いこと持ちました。生命力のある植物です。
花は二つならんで咲き、実は二つがくっついて瓢箪の形になるところから、瓢箪木とも呼ばれているようです。
ここ、ダッファリン島にはこの他、もう一つ変わったハニーサックルが咲くのですが、今ちょっと写真が見当たりません。



グレート・ロベリア August 20, 2005 08:16

2005-08-20 21:16:50 | 野の花 - 秋から冬へ
学名:Lobelia siphilitica
英語名:Great Lobelia
エスペラント名:Granda Lobelio(勝手命名)
日本名:グレート・ロベリア

日本名がグレート・ロベリアとは、とちょっと躊躇いますが、これはカタカナ語、帰化した名前と見て下さい。良く似た日本の花はサワギキョウですが、かなり違います。
カーディナル・フラワー(Lobelia cardinalis)の真っ赤な花を青紫に変えたものと思ってもよいでしょう。
水辺を好み、マニトバ州から東は大西洋岸のノーヴァ・スコシャ州あたりまで、南はジョージア、テキサス州辺りまで8月から9月に掛けて広範囲に咲く花です。
学名のsiphiliticaは梅毒(syphilis/sifiliso)を治す筈だからというので付けられた名前。実際に効果があるのかどうかは知りません。根には吐き気を催すアルカロイドが有るそうです。
この、美しい青紫の花が咲くと、早や秋の訪れ、種々の木の実が赤く色づき始める頃でもあります。

オポッサム August 19, 2005 00:25

2005-08-19 13:25:51 | 動 物
隣町に住む友人からEメールが届きました。タイトルがOpossum。
開けたら、写真が現れ始めました。即座にストップ、直ちに返信。
「悪いけど、この写真は見ないで消すよ。私大嫌いなの」
彼女自身始めてみたので、私も見たことが無いかもしれないと親切で送ってくれたのですが、5,6年前我が裏庭に来て子供を育て始めたことがあったのです。いつの間にか居なくなってヤレヤレでしたが、その頃ご近所のあちこちで同じようなことがありました。
別に悪さはしないのだけど、あの白っぽい尖った顔が嫌いなのです。なんとも不気味で。。。
北米唯一のお腹に袋を抱えた動物(有袋類)なんだそうですが、私にとってはどうでもいいのです。オポッサムには悪いけど、好きになれません。したがって写真はオミット。

日本語では「こもりねずみ」。最初の2、3ヶ月赤ちゃんは袋の中、その後の2、3ヶ月は背中におんぶです。

どうしても見たい方はこちらのサイトへどうぞ。

くしゃみ草 August 17, 2005 17:32

2005-08-18 06:32:38 | 野の花 - 秋から冬へ

学名:Helenium autumnale
英語名:common sneezeweed
エスペラント名:Terniga herbo(勝手命名です)
日本名:だんごぎく (団子菊 ヘレニューム)

Sneezeweed 、つまり「くしゃみ草」なのです。面白い名前なので、絶対忘れないと思いました。けれども、花は見て直ぐ判りますが、花の無い時期に葉だけを見ても見分け出来ません。
どんな花だって鼻を近づけたらくしゃみが出るんではないの?とその時は思いましたが、乾燥した葉の粉をかぎ薬に使ったのでこの名があるそうです。
日本名の団子菊も、面白い名前と思いませんか? 団子鼻をつい連想してしまいました。が、花の芯が団子のような形なのです。花の大きさの割りに大き目の花芯はこの花の特徴でしょう。花びらも半分開いた扇の形をしています。ちょっと黄色いテルテル坊主のような気もします。色は黄色ですが最近は改良されて変化のある色の「くしゃみ草」が市販されているようです。
北米原産の秋に咲く直径が5センチばかりの花で水際を好み、ナイアガラ・グレンでは、下流のPebbly Beach に咲きます。
学名の Helenium はトロイのヘレンが由来だとか。誘拐されたヘレンの救出を試みて亡くなった人々の命を惜しんで彼女が泣いた時、その涙が落ちた地面からこの花が咲いたという伝説が有るそうです。序にギリシャ神話を楽しんでみませんか?

ギリシャ神話は面白い

八月十五日、地震、ズッキーニ・マッフィン August 16, 2005 14:21

2005-08-17 03:21:01 | Weblog
                  

あれから60年、経験者は誰もが当日のことを回想しています。

ほんの三日前に空襲で丸焼けにあった経験者の話に、如何に無念であったろうかと。
そんなギリギリではないとは言え空襲で丸焼け、怪我をした弟さんが出血多量で亡くなったとの話には踏んだり蹴ったりされた無念さと悲しみを。
事情は異なっても、口惜しさや悲しさは同じです。
玉音放送が理解できなかった、良く聞き取れなかった、と言う声も聞きました。
私はラジオの前で正座し、うな垂れて涙を拭っていた両親の姿を思い出します。放送の内容など理解できるわけは有りませんが、何故か、ものすごく重大なことと感じました。それはそれは重たい空気がそこいら一体に充満していたのです。
父は「日本は敗けだナ」とよく言っていたので、予期していたことであった筈なのに、それでも口惜しいことに変わりなかったのでしょう。外で遊んでいて、突然周囲が空っぽになりゴーストタウンのような不気味な静けさに変わった事に気付いたのでした。何かしらの不安を感じて家に帰った時に見た光景です。不思議なことに、妹も弟もその思い出の中に居ないのです。あの子達は何処に居たのでしょう。何も知らずに遊んでいたのでしょうか。

昨日はTVもラジオも一日中「60年…」を語っていました。

そして、仙台沖の地震のニュース。いつもは「東京の北、xxxキロメートル」程度の情報なのが、今回ははっきり仙台と言っていたし、NHKの放送された画面も見せてくれました。
仙台には甥一家が住んでいるし、妹の夫の実家があるのでそちらの親類縁者も多く住んでいるわけですからどの程度の地震なのか当然気になります。パワーフルな、と言っていましたが、震度は5点いくらとかで、水戸のスポーツセンターとかの屋根が落ち怪我人が出たという報道しか聞いていません。揺れる恐怖の中で終戦当時の恐怖を思い出した人も多かったでしょう。
日本に電話してみようかな、と時計を見ます。常に時差を考慮に入れなければなりません。
建物の被害が水戸のスポーツセンターだけなら、あえて電話することも無いかと思ったり。

先週、ズッキーニを沢山戴いたのです。巨大なズッキーニで、直径4センチ、長さ20センチもあるのが、十本くらい。困ったなどうしよう、食べ切れない。と言ったら、完熟トマトと煮て置くと、パスタとでもご飯とでも美味しいよ、と教えてくれました。そんなわけで、「ズッキーニ・サルサ」と名付けて十食分くらい煮ましたが、それでもまだあるのです。
お浸しにしたり、炒めたり、焼き天ぷらにしたり。せっかく持って来てくれたのに、腐らせては申し訳ないので、マッフィンにして保存、を思いつきました。朝食にもってこいのマッフィンです。胡桃を混ぜて、自家製のヨーグルトをミルクの代わりに使って。
六十年前、空腹だった子供、私の今年の八月十五日はズッキーニ・マッフィンを焼く、平和な日でした。


60年前のこの日/

ペルセへの旅(4) August 15, 2005 15:23

2005-08-16 04:23:09 | カナダ旅行

August 01, ’01
今朝も朝日を拝む。Nは柏手を打って参拝していた。大自然の説明しがたい大きな力を感じ、自然にそのような気になったのだろう。二日めも美しい日の出
今日はボナヴェンチュア島へ行く。
ホテルのフロントで船の切符を買う。
先回は波止場近くでお弁当(サンドゥイッチやジュースなどのパッケージ)を買ってから船に乗ったが、今はレストランもあるというので手ぶらで小ビンの水だけ持っていく。一番の船は9時に出るのでそれに乗ることにした。今日も快晴。
9時の船が目的なので朝食は常識的な時間に取る。波止場まで20分位緩やかな坂道を下り、着いてみると既に人々は列を作って待っていた。いくつかの船会社が島へ往復しているらしく、切符を見せると「あの船」と波止場の一番先にある船を指示された。
船はペルセ岩の近くで速度を落とし、街とは反対側のつまり岩の裏側を見せてから、ボナヴェンチユア島の廻りを北側から廻って行く。時々速度を落とすのは海に或いは海岸にあざらしが見えるからで、その都度歓声が上がり、各種カメラが活動する。スピーカーを通して聞こえる説明が時には乗客の歓声やその他の雑音に邪魔され聞き取りにくい。遊ぶアザラシの群
やがて、ペルセの街からは完全に反対側になるカツヲ鳥のコロニーが頭上に見え出す。切り立った崖の上に集団生活するこの鳥は夫婦仲の良さで知られる。全身は白いが顔から首にかけて薄いオレンジ掛かった黄色で、翼の先が黒い。背後で誰かが「イェロー・ヘッド」と言っていたがそのような別名があるのかもしれない。
ボナヴェンチュア島に着くと、先ず英語とフランス語のグループに分かれて説明を受ける。降雨量が少なかった今年は島も乾燥していて、発火の危険を考慮してトレィルの殆どが閉鎖になっていた。コロニーまでは真中の道を通って行けるが、他の道は途中までは行けるが通り貫けられない。
この道をあけてあるのは万一の時には車が通れるからなのだそうだ。車といっても太い小さい車輪のついた芝刈機みたいな車で、トレィルの途中でゴミ袋を運んでいるのとすれ違った。
島に入るためには使用料を払わなければならない。街で買って来た人達もいたが、大抵は切符売り場に並んで買っていた。私達も列に加わる。
少し登り気味の道を行く。6年前は6月だったのでゴゼンタチバナが盛りだったが、今回はもう実になっていて、早いのは赤く大きいが、まだゴマ粒程度の小さいのもあった。何故そんなに差があるのか知らない。日当たりの良し悪しで決まるのだろうと勝手に納得。ツバメオモトも未熟ながら青く色付いているのが多い。野生のホウセンカ(ツリフネソウ)も咲いていた。
登り切ったかな、と感ずるのは松林に入った頃で、その辺りから緩く下りになる。陽射しは暑く、汗ばむ。ほのかに鳥の臭いが感じられ、そしてコロニー。
6月に来た時は感じなかった蚊のような蝿のような蟲がワァンワァン襲って来るので、ゆっくり写真も撮れない。それでも何枚かは物にした。
Nはカツヲ鳥の仲の良さを表わした仕草を写真に収めたいと意気込んでいたが成功しなかったようだ。2羽の鳥が嘴を太刀の打ち合いのように合わせる仕草で、土産店頭に並んでいるカツヲ鳥はみんなそれを形取っている。
満員のコロニー自分より大きな赤ちゃんを抱いた(?)母鳥









蟲に追われるようにコロニーはそこそこにして戻る。レストランに入るほど空腹でもないので船着場近くの小さな砂浜に下りて休む。靴を脱ぎ水に入ってみたら、なんと冷たいことか。氷水のようだった。この砂浜からはカヤックのレッスンも行われているらしかったが、カヤックが一艘置いてあって、その番をしているらしい潜水着を着た若い女性が泳いでいた。ああ言う服装だと冷たくないのだろうか。冷たい水に慣れているのかもしれない。
帰りの船は真っ直ぐペルセに向かうので早い。
Nがお土産店に寄りたいので、少し歩き回るが、暑いのでアイスクリームを買って食べながら一旦ホテルに戻る。夕食にはまた出直し。今晩は「ルージュ・オマール」つまり「レッド・ロブスター」で行列に並んだ。

August 02, ’01
今朝は曇っていて朝日は拝めなかったが、二日も続いたのだから幸運だろう。列車は午後なので、午前中はスーツケースをフロントに預けて街に出た。街の一番目立つ大きな教会を訪ねたり、お土産店を見て廻ったり。
昼食は浜辺でサンドイッチを、のんびりと海をみながら。この次海を見るのは何時だろう。そしてどこの海を見るのだろう。
ペルセ駅。近づく列車を迎える乗客たちタクシーは朝のうち頼んであったので、時間には例のフランス語だけの女性運転手が来てくれた。駅へ行ってみるとあの子沢山の家族はもう来ていた。日本人夫妻は見えなかったので、次の列車まで後二日滞在するのかと思ったが、ガスペから乗ったらしく、列車が着いてみると既に車内にいた。私達とは逆な行程を取ってタクシーでガスペに行ったわけだ。
相変わらず子ども達は賑やかで、車内を走り回ったり大声でしゃべったり。
また寝にくい夜を過す。

August 03, ’01
列車がかなり遅れたのでモントリオールでの乗換えが心配だったが、とにかく間に合った。座席は前後になったが、私の隣席になった若い女性が変ってくれたので並んで座れた。
トロントにつく頃は30分以上遅れていて、このような時は、次に利用する列車の料金が半額になる。そのアナウンスがあったので、もう何処へ行こうか考えている。有効期間は6ヶ月以内だけど。
予定のバスには乗れないから、Nが付き合ってくれ中華街で夕食を取って帰ることにした。
こうして6日間の休暇は終り、「地の果て」と言う名の半島は再び遥か彼方の思い出の地となった。
(おわり)



ペルセへの旅(3) August 14, 2005 15:08

2005-08-15 04:08:11 | カナダ旅行

July 31, ’01
朝日を見るためには早起きの必要がある。
目覚し時計は無視して、カーテンを開けたままで寝ることにした。夜明けの明るさで目が覚めるから。それでもNは目覚し時計をセットしたらしい。
ペルセ岩の向うから朝の赤い光が広がり始め、岩の穴を通って海面に細い赤い影を映す(写真)。太陽の動きに連れて刻一刻と赤い影は位置を変えた。まだ寝静まっている人間の世界はこの神秘的な情景の一部でありながら、遠い存在だった。
ペルセ岩の日の出
ガスペ半島はセント・ローレンス湾に突き出た半島で、湾とは言え、見えるのは水平線のみ。ガスペと名付けた先人の気持ちが解かってくる情景である。ガスペは「地の果て」という意味だから。
太陽がすっかり昇ってしまうと、現実の世界が戻ってくる。二人はまたベッドに潜った。今日の活動は午後からなので、朝食はギリギリの10時頃に。これでは空腹にならないので昼抜き。 午後1時をかなり廻って、忘れられたか。。。と電話をしようとしたらタクシーが現われた。タクシー・ペルセはペルセ唯一のタクシー会社で、今日の運転手は経営者のウィリアムさん。 6年前はお父さんと二人で運転していたが、今は何人か雇用者がいるらしい。後で判ったのだがお父さんは2年前癌で亡くなったそうである。ウィリアムさんのお父さんに関して私は良い印象を持っていたので、それを聞いて大変残念に思った。

ペルセ最後の日、駅までのタクシーを予約してあったのに時間が過ぎても来ないので私はとてもイライラしていたのだった。その列車を逃したらあと二日間ここに立ち往生である。ようやく来てくれたのがお父さんだったが、その日はものすごく忙しかったらしい。何しろ一つしかないタクシー会社で、父子二人だけなのだから無理も無い。彼は「ものすごく忙しかったんですよ。」と言う程度の言い訳しかしなかったし、私も来てくれたのだから、兎に角列車に間に合えば良いので、特別なじる事もしなかったのだけれど、私のイライラは十分承知してくれていたらしかった。駅について支払おうとしたら彼は「It’s on me」と言って受け取ってくれなかったのである。

今日の行程は「グロト」、「サンタンヌ山」、「クレヴァス」を主軸に大きくサンタンヌ山を廻る形に動く。私達の他は若い新婚らしい夫婦と、老夫婦二組の計8名。快晴。
先ずグロトへ行く。サンタンヌ山へ向かう道を途中から右に入って少し行くと車を降り、歩く。グロトは洞窟ではなく、渓谷の側面で、絶壁でもない。横に太い皺になった感じの岩は細かい砂利が混じっていて、この辺の地質の典型らしい。僅かに水がその横皺になった岩を流れ落ちている。上の方の少し平らになった所には「聖ベルナデット」が祈りを捧げている像があった。道端に勿忘草が咲いていた。
戻って、サンタンヌ山へ。途中車を降りて見晴らし、上から戻って来た車と客が入れ変る。事情が良く飲み込めなかったが、少し行くと道路表示が「ここから先は四輪駆動車のみ」と出ていたので納得した。山頂は見晴らしの良い開けたところで聖アンヌの立像がある。百人は座れそうなベンチも並べられてあって、お祭りもあるらしい。遠くを見渡しても見えるのは眼下のペルセ岩とボナヴェンチュァ島のみ。煙るように遥か彼方にニュー・ブランズゥイック州が見えた(写真)ペルセ岩とボナヴェンチュァ島
次はクレヴァスだが、一旦街へ降りて北に向かう。ペルセ岩とは元地続きだったモン・ジョリ共々一望に見下ろせる岬ピック・ドゥ・ローロルへはモテルの建物の間を通り抜けて出る。絶壁が目の前に落ちており、恐いところもあったが眺望は素晴らしい。そこからモン・ブラン山の裾を廻ってクレヴァスへ。
クレヴァスへはやはり車を降りてしばらく歩かなければならない。見晴台からはフォリヨン公園が北に見晴らせる。クレヴァスと呼ばれる岩の裂け目は、柔らかい岩が風雨に晒され、洗い、削り取られることで、立ったお化けのように変形する「ブードゥ-」の初期の現象がこの一部に起こったという感じである。山を下りてから見上げるとそれが良く判る。似たような現象が何匹かの象の群れを思わせる形で、その近くに出来ていた。
サンタンヌ山を廻って降りて来たら、列車が同じだった日本人 夫妻が道を登って来るのを見かけた。まさかサンタンヌ山へ歩いて行くつもりは無いだろうけれど、ちょっとびっくりする。
二時間のツアーは終り、街で降ろしてもらった。それから浜辺で一休み。
カモメが何かを上空から落としていたが、それはウニで、岩をめがけて落とし割るつもりなのだった。何度か落として、外れるとその都度拾ってやり直しする。たかがカモメとバカにする無かれ、何と賢いことをするのだろう。私達の近くの石に当たって割れた時、カモメは降りて来て食べ始めたのに、私が確認したくて近づいたので折角割れたのに放棄しなければならなくなったのは気の毒だった。
岩へ歩ける時間にはまだ間があると思ったが、人々が歩いているので私達も腰を上げる。モン・ジョリの上を廻って階段があるが、今回は人々の行列について南側から浜を歩いて行ってみた(写真)ペルセ岩に向かって歩く
途中で頭を羽の中に隠して立っている鵜に出会った。眠いのか病気なのか良く判らないが、人間が廻りに居ても気にならないらしい。病気かしら、と囁く声もあり、石をぶつけて生きているかどうか試す惨酷な人もいる。
干潮には露出する「通路」は既に大勢の人が通っていて、もうペルセ(貫く)の名の由来である穴の方まで辿りついている人達もいた。岩に到着するまでは問題無いが後は水の中を歩かなければならないから足元が滑って危ない。私達は穴までの半分の距離で止めた。穴まで行った人の話だと、その辺は腰までの深さだとか。靴を濡らしたくなかったので脱いでみたが、裸足はすべるので返って危険。潜水用の靴など良いだろう。ナイアガラ・フォールスのゴート島で「風の洞穴」へ入る時に履く麻布のモカシンも良いアイデアだと思った。
返りはバウム・クーヘンのような岩層の絶壁を見上げながらモン・ジョリ(写真)の北側を廻って上に出る道を帰った。右がペルセ岩左がモン・ジョリ岬
夕食はホテル・ル・ノルマンディーのダイニングルームで少し贅沢に、2時間掛けてのんびりと楽しむ。Nはおしゃれして来たいところだ、と言ったが、このホテルに泊った6年前はそれが出来たけれど、一日の活動が終った後の通りすがりではそれも侭ならず、カジュアルな服装の人がむしろ多かった。
(つづく)